どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の連載小説『吉村くんの出来事』(18〉

2024-01-23 00:03:00 | 短編小説


     視線のゆくえ

 夏の日差しが顕著となった休みの一日、吉村は久美と連れ立って近くの水天宮にお参りにいった。
 ふたりの住むマンションからはゆっくり歩いても二十分ほどの距離だから、その程度の運動はむしろ久美にとって望ましいものだった。
 梅雨明け宣言のあと、ぐずついた天候が戻ってきて気象庁が慌てる一幕もあったが、この日は朝から夏到来に太鼓判を押してもいい気温の上昇が見られて、部屋の中にはいられない気分になっていたのだ。
「暑いけど大丈夫かな」
「わたしのこと?」
「そうだよ」
「日傘を差しているんだし、むしろ気持ちがいいわよ。ねえ・・・・」
 そろそろ目立つようになった腹部に手を置いて、育ち始めた命に語りかけるような仕種をした。
 水天宮はいかにも都会の神社というたたずまいで、コンクリートで固めた竜宮城のようにせり上がった場所にある。
 目と鼻の先の箱崎インターや、成田空港への高速バス発着で利用される東京エアシティターミナルとは、ほとんど隣り合わせといってもいい立地だから、緑豊かな神域など望むべくもないが、最近神社の工夫で小さくも象徴的な森が造られたと聞いていた。
 吉村と久美は、昔からの出店が並ぶ道路沿いから神社に登る階段を避け、わざわざ鳥居の側へ回って本殿を正面に見ながら進んだ。
「寺でも神社でもお参りするときは正門から入りんしゃい。帰りも同じ道を通って出るのがよかよ」
 亡くなった八代のばあちゃんによくたしなめられたものだった。
 そのあたりの躾はむしろ久美の家庭のほうが厳格で、キリキリシャンと生き抜いた祖母譲りのしきたりが自然に身についているようだった。
「子供のころは、この近くでよく遊んだものよ。浜町公園にも行ったけど、小遣いをもらうと駄菓子を買いにこの辺りまで出かけてきたの。ついでに友だちと隠れんぼしたり。でも、危ないことはしなかったわね。いま思うと妊婦さんたちのことをちゃんと意識していたのかしら」
「女の子だしね・・・・」
 無意識のうちに参道の片側へ寄って石畳を歩いていた。
 鳥居をくぐってすぐの手水舎で濡らした手がもう乾いている。境内もコンクリートと石畳で照り返しがきついから、本殿の日陰の下に早く辿り着きたくなる。
 だが、久美は境内を右手に進み、おみくじの他に安産祈願を受け付ける神札所に向かった。
「せっかくだから腹帯を戴いておこうかしら」
 久美は同意を求めるように吉村を見た。
「ああ、そうしなよ。ここの神様はご利益があるらしいっスから。・・・・集配で回っていたころ、毎月一日とか五の日とかの縁日にはすごい人出だったもの。ひどいときは水天宮通りまで行列が続いていたんだから・・・・」
「そうね。きょうは比較的空いているわね」
 ちょうどふたりの会話を聞いていた巫女が、久美を労わるように見つめながらうなずいた。
「明日は戌の日ですから、大変な混雑になるやもしれません。本日いただく『鈴乃緒』もすでにご祈祷を受けたものですので、ご利益になんの違いもございません」
 何千回も繰り返したであろう説明を口にして、巫女は陶酔したようにほほ笑んだ。
 久美と吉村は、岩田帯の包みとお札をいただいて水天宮をあとにした。案外な値段なのは、神様の品位を保つ意味でも好感が持てた。
 神社の由来を印刷したパンフレットをめくった瞬間、九州の久留米が発祥とのくだりが目に入ってきた。最初は久留米藩の個人的な守り神だったらしいが、安産にご利益があったということで領民にも開放されたと記されていた。
 東京の水天宮は江戸屋敷に移された分社で、あちらこちらを移転したあげく現在の日本橋蛎殻町に落ち着いたとのことだった。
(そうか、元宮はおふくろの出身地に近いんだ・・・・)なんとなく誇らしくおもう気持ちが湧いた。
「子供のころ、ばあちゃんに水天宮のお札というのを飲まされたけど、いまでも同じなんスかね」
 吉村は母や祖母と過ごした日々が、いっぺんに甦ってくるのを感じた。
「あら、わたしも・・・・。癇の虫とか、お薬では治らないときだったと思うわ。嫌がって抵抗したけど、おばあちゃまが先に舌の上にのっけてお水でごっくんと飲んだものだから、つい騙されて飲み込んだの」
 吉村は声を出して笑った。神様の前で騙されたとのたまう久美の天衣無縫さが嬉しかった。
「甘いものだと勝手に想像したんスかね。ベロの先にのっけたとき甘みを感じようとして意識を集中した気がするもの」
「そうそう。ほんとうは味も素っ気もない薄紙なのにね」
「気持ちのどこかで、がっかりしてたんだよね・・・・」
 同意しておいて、また笑った。

 ふたりは新大橋通りを渡って、人形町に向かった。
 人形焼きの重盛永信堂の前を通り、甘酒横丁との交差点を左に折れて甘味処『初音』に立ち寄った。
 行灯型の看板に、崩し字の屋号のほか優しげなかな文字で<あんみつ>と書いてある。草色と茜色の配色が、吉村の郷愁を刺激した。
 吉村にとっては初めての場所だが、久美には幼いころからの馴染みの店だということだった。
 磨きこんだ栗色の木組みと時代ガラスを配した店構えが、訪れた客をいっぺんに和の世界に引き入れる。
 しゃれたショーウインドの中には、瀬戸焼きの鉢に盛られた蜜豆、あんみつ、トコロテン、江戸風のガラス器には葛餅、背の高いグラスいっぱいのフルーツパフェ、塗りのいい椀にはお汁粉、ほかに巻き寿司、温めんなど空腹を満たすものも並んでいる。
 久美はそれらを隈なく点検してからガラス戸を手前にひいた。
「いらっしゃいませ。あら、久美さん、おめずらしい」
 柔和な物腰の中年女性が、嬉しそうに久美を迎えた。昔とは代が替わっているのだろうが、いずれにしろこの家の家族の誰かなのだろう。
 ひとしきりことばを交わしたが、次の客の応対で長い話は出来そうにもない。それでも注文をとりながら、「結婚したんだってね。おめでとう」と、久美のみならず吉村に向かっても親しげにほほ笑んで、人を逸らさない応対をみせた。
 吉村は店内のたたずまいにも感じ入っていた。
 使い込んだ椅子やテーブルの古びた風情もさることながら、黒々とした天井から吊られた提灯風の円い照明と、その先にみえる明かり窓のガラスの放射状の文様が、やはり江戸風の雰囲気をかもし出していて時代をひとっとびさせてくれるのだ。
「いやあ、落ち着くなあ。これって久美さんの子供時代からこんな感じだったんスか」
「そうよ、あまり変わっていないわね。おばあちゃまと一緒によく来たのよ」
 表情が輝いていた。
 和紙を用いた右閉じの品書きをお義理のように開いてみて、久美は白玉と温めんを注文した。
「洋三さんは何にする?」
「じゃあ、トコロテンと干瓢巻き・・・・」
 夏でも鉄釜で沸かした湯でお茶をサービスしてくれるのがいいのだと、久美は他の客のテーブルにもいきなり水のコップを置いた形跡がないことを吉村に目で示した。
 何を注文してもおいしいのだろうが、あんみつの餡をスプーンの先でいとしそうに掬い寒天と一緒に口に運ぶ三十がらみの女性が気に掛かった。
 もちろん食べ方の念入りさが際立っていたこともあるが、別のテーブルの女子高生たちがフルーツパフェのグラスから躊躇なく果物を掻きだすのと比べて、あまりにも一心不乱に見えて訳ありの怖さを想像したのだった。
 自分がもしも餡だったら、これほどのめりこまれて困惑しないだろうか。
 失恋したか、未だに理想の男性にめぐり合えない女性が、自分の想いの中にどんどんはまり込んでいくさまを目の当たりにしている気がする。
「お茶、新しくしましょうか」
 常連なのだろう、店の者がにこやかに話しかける。
「ああ、ありがとう。フライトを終えると無性にこれが食べたくなるのよ」
 まだ食べ残しているサクランボと餡を見つめながら、ほっと一息ついた様子だった。
 吉村はおもわず心の中で苦笑した。とんだ思い違いに頭をかいた。
 おそらくベテランのスチュワーデスなのだろう。都内の住まいに戻ってきて、真っ先に飛び込むのが『初音』というわけだ。
 飛行中の緊張を癒すには最適の食べ物なのか。あんみつに向かう熱心さへの疑問も氷解した。
 男ができないどころか、振り払うほうが大変な立場であろう。あるいは結婚していて、パーサーの亭主がいるかもしれない。
 その気でみれば髪型、服装とも地味にしているものの、どことなく洗練されているように見受けられた。
 吉村が勝手な思いに翻弄されている間に、食欲旺盛な久美は温めんを片付けて白玉にかかっていた。
「うーん、喉の奥がくすぐられるゥ」
 やっと口を開いて笑いかけた。
 満足の顔を見るのは、吉村にも心地よかった。

 攻撃は思いも依らない方向からやってきた。
 夫婦そろって満額で加入してくれた病院長夫人から、抗議の電話がかかってきたと課長に呼びつけられたのだ。
「吉村くんは、問題が多いようだね。法人契約でもトラブルだらけだと報告を受けたんだが、わたしの聞き違いかね」
 的を外すような言い方をしながら、上目遣いに吉村を眺める気配がした。
 その扱いは、客から抗議があったといきなり叱られる以上に胸に堪えた。経緯が分からないままチクリチクリと責められるのは耐え難かった。
「どんな苦情なのか、ぼくが直接伺ってきます」
「ところがねえ、先方はキミの顔も見たくないといってるんだよ。で、課長代理に謝りに行かせたところだ」
 焦点の合わない視線が、前よりも吉村の体に忍び寄ってきた。
 瞬間、ぱっと閃くものがあった。新課長の赴任そうそう何やら耳打ちをしていた課長代理が、上司の意に沿うかたちで動いている様子が目に浮かんだ。
「そんな・・・・」
 吉村は、このままでは不利な立場に追い込まれそうな気がした。「やはり、当事者が対応すべき問題でしょう。何がいけなかったのか、抗議の内容を聞いてきますよ」
 吉村は憤然として椅子から立ち上がった。
「吉村くん、わたしの判断を無視するのかね。せっかく穏便に済まそうと苦労しているのに、キミは上司の意見を聞かないのか」
 はたと気付いたのは、次に用意されている言葉についてだった。普通なら考えられないことだが、恥知らずのこの男なら口にしかねない<業務命令>という用語が吉村の脳裏に飛来したのだ。
 吉村は再びパイプ椅子に腰を下ろした。不承不承だが課長の方針を一応聞きましょうとの妥協策だった。
 急に、むかし官と労働組合が激しく対立していた時代の話を思いだした。
 吉村が入局した頃にはすでに両者の融和関係が築かれ始めていたが、先輩の懐旧談から想像すると、事あるごとに鼻づらを突き合わせて罵り合っていたらしい。
 暴力の濡れ衣を着せられないために手を後ろに回し、唾を飛ばさんばかりに抗議する行動派組合員に対して、「業務命令!」「現認する」などと懲戒に直結する切り札を連発していたのが古参の課長連中だったのだ。
 いったん廃れかかった用語に、目前の課長が郷愁を感じているとしたら、事態はとんでもない方向へ動き出すことになる。
 大多数の人が時代錯誤と感じても、組織の中で未だに命脈をたもっている権限を目覚めさせてしまったら、上局といえどもおいそれと沈静化させることは難しいのだ。
 郵政公社への移行を前に、人員削減は必然の流れになっている。そうした時期、職員の新規採用を抑え、定年と勧奨退職による自然減を計算していても、それだけに頼っていられないことは明らかだった。
 上部機関は自らの手を汚さずにリストラが進むことを願っている。
 ならば自分の出番だと勇躍する強面課長と、暗黙のうちに了解が成り立っている可能性がある。
 上局は表面的には課長を疎ましがるポーズを見せるかもしれないが、曖昧なままずるずると強圧行為を容認する惧れがつよい。
 そうした空気を感知している課長が、課長代理とコンビを組んで一人なんぼの人狩りに動き出した気配がある。
 さしずめ吉村は課長にとって格好の標的のはずだ。
 唐崎の相棒として一般の保険課外務員の羨望と嫉妬の対象だった吉村が、まかり間違えば水に落ちようとしているのだから、この機に棒で叩いてしまおうとする執念がつよく感じられる。
 今なら血祭りに上げても騒ぎ立てる者はいまい・・・・と。
 だから、吉村が爆発寸前で思いとどまったことは、結果的に課長の仕掛けを空振りさせたことになる。
 危うくリストラの餌食になるところを、持ち前の忍耐によってとりあえずは回避することができたようであった。
 だが、この程度で治まる課長ではないだろう。
 つぎつぎと揺さぶりをかけて、心理的なダメージを狙ってくるはずだ。
 前の局でも成果を挙げてきたに違いない。奴の刃物が目当てでこの局に送り込んできた当局の腹まで見えてくる気がした。
 二、三日はまったく無視された。視線が合わないのは課長の先天的な目つきのせいとしても、この数日は顔さえ向けようとしないのだ。
 面突き合せなくてすむのは幸いとばかり平静を装った吉村だったが、内心の動揺は隠せなかった。
 無視が揺さぶりのひとつと分かっていても、次にどう仕掛けてくるかが見えないから神経が休まらないのだ。
 吉村は一か八か病院長夫人に電話を掛けてみることにした。
「顔も見たくない」と忌避したというが、電話なら文句はないだろう。
 言葉さえ交わすことができたら、たとえ怒鳴られても苦情の原因をつかめるかもしれないと思った。
「もしもし、郵便局ですが」
 個人名を名乗らなくても、嘘を付いたことにはならない。「・・・・恐れ入りますが、院長先生の奥様はいらっしゃいますでしょうか」
 受話器を取ったのは、病院の受付けに坐っている二人の女性のうちの一人だった。たぶん小柄な方の愛嬌のある娘だろう。
 取次ぎを待っていると、いきなりガサガサと音がして院長夫人の苛立つ声が耳をおおった。
「郵便局が毎日なんだっていうの。わたしだって仕事を持っているんだから忙しいのよ」
「あ、奥様ごぶさたしております。簡易保険をご契約いただきました吉村でございます」
 一呼吸間を置いた。「・・・・先日もお礼かたがた商品のケアにお伺いしようと思いましたら、課長のほうからきつく止められまして。なにかご立腹されていて、顔も見たくないとおっしゃられたとか。いったい何があったのかと心配で心配でたまらないのですが」
「あら、吉村くん。どうしちゃったのよ。あなた、わたしに嘘をついてたんだって? あなたのところの偉い人が来て、契約したときの説明とか、わたしに話したこととかいろいろ聞きだされたわよ。・・・・わたし忙しいし、いちいちそんなこと覚えていないわよって怒鳴ったの。そしたら平身低頭して、今後は吉村を出入り禁止にします、申し訳ありませんて、そっちから申し出たんじゃない」
「そうだったんですか・・・・」おもわず絶句した。
 やはり企みがあったのだ。課長の命を受けた課長代理が吉村の言をことごとく捻じ曲げて、彼を悪者に仕立てようとしていたのだ。
 何も知らない院長夫人は、「それは嘘だ」「彼に騙されている」などと並べ立てられれば、吉村より上司の方を信じてしまうだろう。
 まして吉村本人が顔を見せないとなれば、本当に疚しいことがあったのだと納得するに決まっている。
(そんなことって・・・・)
 吉村はまたも頭に血が上りかけたが、感情に走って相手を罵るのが最も愚策であることに気付いていた。
 グロテスクな形状を隠そうともしない拷問用具のような彼らには、用意周到な反撃手段を用意して立ち向かわなければならない。
 幸い院長夫人は吉村に悪感情を抱いていないことが分かった。協力を得て多くの反証を揃え、のちのちに備えることにした。

 四日目に再び課長から別室に呼ばれた。別室といっても普段は局内レクレーションや年賀・暑中見舞いハガキの臨時販売所開設などのときに使う用具置場になっていた。
 旗やポールやロープ類、距離計測ローラー、それにマジックインキ、粘着テープ、ホッチキス、蛍光ペンなどがごちゃごちゃと入った箱、踏み台、組み立て式テーブル、パイプ椅子。
 そのテーブルと椅子を部屋の中央に据えて、対面式に職員の意識調査・勤務実態調査をしようというわけである。
 呼ばれるのは一応全員対象だが、狙いは課長に目をつけられた若干名である。調査に名を借りた追及といってもよく、気の弱いものは早々に嫌気がさして自ら職場を去っていくことになりそうだった。
 いくつもの郵便局を渡り歩いてきたこの首切り役人は、一人血祭りに挙げるごとに青い血を滾らせるのだろうか。
 それとも深夜、風呂場の鏡に自分の顔を映してみて、背後に親兄弟やふるさとの野山が浮かぶのを恍惚と眺めるのだろうか。
「吉村くん、虚偽説明が問題になる前に詫び状を書いたらいいよ。あの内儀さん相当うるさそうだから、早いとこ謝っちゃったほうがいいんじゃないか。このまま放って置いてこじれたら、始末書を出してもらうことになるよ」
 吉村が院長夫人と接触したことを知らない課長は、あくまでも親切ごかしに罪の認証を迫ってきた。
「お客さまがなんと言ってきてるか知りませんが、ぼくには嘘をついた覚えがありません」
「うんうん。しかし、キミが置いてきたパンフレットには、配当予測を示す数字が書き入れられていると言っている。・・・・誤解を与える説明も多数申告されているそうじゃないか」
 物分りよさそうにうなずいた後、やはり受け容れられないよと突き放す。それがこの男の常套手段だと分かってきた。
 いくら説明しても分かってもらえないという徒労感を持たせるのが、刑事まがいの<落とし術>らしかった。
 午後の大切な時間を、お構い無しに費やすのも計算だろう。
 保険募集の計画はもとより、集金の予定が入っていても斟酌しない。
 まさか課長が業務の妨げをすることはないだろうと思っているところへ、向かいあったまま延々と返答を待ち続ける姿勢を崩さないのだ。
 テーブルの上に組んだ拳を載せたまま、白状するまでいくらでも待つよとあらぬ方向を向いている。
 顔は対面の位置にあるのに、視線のゆくえが分からないのだ。
「あのう・・・・」
 吉村はもじもじと腰をゆすった。
「うん、うん」
 期待をこめて課長がうなずく。落ちかけた被疑者にとっては、低い声がやさしく聴こえる瞬間なのだろう。
「あのう、トイレに行ってもいいですか」
「ああ、ああ」
 一瞬声が裏返ったのは、意表を衝かれたせいだろう。生理的な要求を拒むわけにはいかないことを、しぶしぶ認めるまでに要した短い時間だった。
 フロアの外れにある男子便所で、ながながと放尿した。きょうの予定がすっかり狂わされてしまったことも、いったん諦めてしまえばどうということはなかった。
 吉村はゆっくりと時間をかけて課長の元に戻った。下腹部に手を当てて、浮かない顔をしてみせた。
「あぶなく漏らすところでした。なんだか膀胱がしくしくするみたいです」
 テーブルの上に載せたままの拳がかすかに揺らいだ。長時間自分を縛り付けていた確信の姿勢が、課長のなかでコトリと音をたてて傾いだ。
「あとは、キミの反省しだいだ。長くも待っていられないから、懲戒だけは避けて欲しいね」
 課長のほうから立ち上がって、お開きの意思を示した。
「この後、何をしましょうか。きょうで失効という集金があるのですが、どうしたらいいですかね」
 吉村は困った表情をした。「・・・・お客様は三時には出かけるので、それまでに来るようにと電話をもらっていたようですが」
「それは、すぐに善処しなさい」
「あの怖い弁当屋さんですよ。・・・ぼくも行ってみますけど、内務の方で救済策を考えておいたほうがいいんじゃないスかね」
 簡易保険の失効に期限の猶予などない。
 民間の保険でもそうだが、契約日の午前零時にさかのぼって効力が発生する一方、契約期間のほうも法律上の厳然たる規定によって満了する。
 掛け金の未払いによる失効もそれに準じていて、当日の午後十二時をもって効力が失われることになる。
 しかし実際には、その日の勤務時間内に集金できなければ失効は免れず、その契約を同じ条件で復活させることはできないのである。
「内務にカードを還しておいたので、誰かを集金に行かせてくれたのならいいんスが・・・・」
 実際、追いかけまわしてでも集金しなければ、他に救済策などないのである。
 集金カードの紛失で、鬼より怖いといわれる監察の事情聴取を受けた先輩の事例が、吉村の脳裏にちらついた。
 紛失でなくても、失効させるのは嫌なものだ。客の納得ずくなら止むを得ないが、払う意思があるのにこちらの手落ちでジ・エンドになるのは本当に寝覚めが悪い。
 責任を軽減しておいたとはいえ、失効が現実のものとなれば吉村の落度を指摘する声も出てくるだろう。
 課長と無言の対決をしていた隙に、どうでもいいやと投げ遣りな気持ちが忍び込んできたことで、案外大変なことが起こりそうになっていた。



   (第十八話)

 

(2007/06/18より再掲)
 
 
 

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