ローカル鉄道に乗って、橋梁上の車両の窓から絶景ポイントを見たことはないだろうか。
ぼくは前回までに『ライオンのおやつ』がしつらえた、美しい風景をいくつか取り上げてきた。
風景の中には、ホスピスの代表であるマドンナのぬくもりが、雫さんの残り少ない命とひびき合った瞬間も含まれる。
また、狩野姉妹が用意する食事の絶妙さと、ゲストへの配慮も忘れがたい。
中でも、スタッフ全員が関わったであろうおやつへの思い入れは、リクエストしたゲストを無声映画のように沈黙させた。
格好いいマスターが淹れるコーヒーの香り、雫さんの入所に合わせて用意された「ソ」の味わい、それらは、感動の見晴らしとして強く印象付けられた。
徐行するローカル電車の窓から見た絶景ポイントは、一つひとつが、まるで自分の記憶のように映像を結ぶのである。
今回は、さらに、輸入ものに押されて耕作放棄したレモン畑を、葡萄畑に変えつつあるタヒチ君を紹介しよう。
彼は、瀬戸内ワインを世界に発信するという壮大な夢を持っていて、日々、大切に葡萄を育てている。
(タヒチ君と雫さんの出会いは、六花を連れての散歩の途中だった。)
<リードを手放すと、六花は疾風のように駆けていく。その人は、葡萄畑にいた。
「こんにちは」
私と同世代か、少し下に見える男の人が、かぶっていた格子柄ののハンチングをわずかに持ち上げ、挨拶する。
「いい眺めですね」
海の方を振り返って、私は言った。はるか下に、青い海が輝いている。
「ほんと、この畑からの眺めが、僕、一番好きです」
彼は言った。
タヒチ君が手を差し出したので、私も手を伸ばして握手した。
私は、タヒチ君が自分で作ったという東屋のベンチに座って、タヒチ君とレモネードを飲む。
レモネードを飲んでいたら、むくむくとおなかがすいてきた。お昼のお弁当を持ってきているので、一緒に食べていいか聞いたら、タヒチ君も持ってきたおにぎりを食べるというので、一緒に海を見ながらランチをする。・・・・
六花には、舞さんが焼いた犬用のビスケットを持ってきている。
「ワインはお好きですか?」
と聞かれ、はい、と神妙に答える。
「だったらぜひ、僕らの作ったワイン、飲んでみてくださいね。ライオンの家にもあるはずですから」
おにぎりを頬張りながら、タヒチ君が言った。私は相槌を打ちながらも、ベーグルにかじりつく。こんなにおいしいなら、もっと持ってくればよかった。>
この日の雫さんは、よほど調子が良かったのか、時間も忘れてタヒチ君とおしゃべりしていた。
「この場所、僕がいない時でも好きに使ってくださいね。まだ寒いけど、昼寝もできるし、本とか読むのも、気持ちいいですから」
「また遊びに来ますね」
私が言ううと、タヒチ君は再び格子柄のハンチングを軽く持ち上げてお辞儀をする。
六花にリードをつけて、今度はてくてく、坂道を下りていく。帰りは行きほど引っ張られなかった。
「六花、ありがとう」
私は言った。六花が私に、タヒチ君を紹介してくれたのだ。
「しーちゃんが元気な体だったら、恋に落ちちゃってたかもしれないよ!」
今夜は、追加でお肉をお願いしよう。そして、タヒチ君のワインを飲んでみよう。>
絶景ポイントに、タヒチ君を加えたところで、ローカル鉄道は徐行をやめ、少しずつスピードを上げる。
タヒチ君と知り合った日、六花との散歩を終え、ライオンの家に戻った時、
<玄関前の太いろうそくに、明かりが灯っている。風にあおられるたびに、周囲に伸びる影が大きく体をくねらせる。まるで、火そのものに感情があり、何かを訴えているように見える。私がここに来てから、初めて見るろうそくの明かりだった。>
不安な気持ちで、自分の部屋へと歩いていると、向こうからやってきたマドンナが、雫さんの表情を読み取ったように告げた。
「つい一時間ほど前でしょうか、マスターが旅立たれました」
<一時間前といったら、私がタヒチ君とビーチにいる時だ。>
雫さんに点った、ほのかな命の瞬きと呼応するように、一つの魂が旅立っていく。
ライオンの家に滞在する終末期のゲストたちにとって、いつ訪れても不思議のない現実であった。
「マスター、おいしいコーヒーを、ありがとうございました」
冥福を祈って、別れを告げる。自分の部屋に戻ると、急にだるくなり、ベッドの上へ身を投げるようにうつぶせになる。<私も、死ぬ。遅かれ早かれ、マスターみたいに動かなくなる。>
ローカル鉄道の車窓から見る風景は、うすら陽の射す広葉樹の林や冬枯れの森を通過しながら、どんどん変化していく。
ユリ根粥のやさしい味、夕餉のイイダコの弾ける食感、マスターが死んでから最初の日曜日に供されたおやつカヌレ、どれにも未練を感じながら通過する。
ライオンの家では、たくさんのボランティアがゲストの穏やかな死をサポートする。
水曜日の午後、音楽セラピーに来てくれたカモメちゃんもまた、そんなボランティアスタッフのひとりだった。
「はじめまして」
元気よく私の部屋にやってきたカモメちゃんは、大きな口が特徴的な、とてもかわいらしい顔立ちをしている。私は、ベッドに横になったまま、カモメちゃんと対面した。
その日は朝から起き上がるのがしんどくて、ベッドに寝そべったままだった。かたわらには、ずっと六花が控えている。
「こんにちは、よろしくお願いします」
今にも木枯らしにさらわれそうな自分の声にゾクッとしながら、私は言った。
「雫さん、しゃべるの苦しかったら、無理してしゃべらなくていいです。九割方、私が一方的にしゃべるんで。しゃべりは、ステージ立ってたので、MCで慣れてんですよ」
ギターケースからアコーステイックギターを取り出し、弦の音階を整えながら、カモメちゃんは自分の過去について教えてくれた。
<カモメちゃんは、自分のことを元アイドル歌手だと言った。そして偶然にも、私たちは同い年だった。>
十三歳で島を出て、デビュー曲がちょっとだけヒットした。いろいろのことがあって、二十代後半まで夢を持ち続けたが、レコード会社も事務所もクビになり、落ち込んでいた。
<そんな時、おばあちゃんが病気で倒れたんです。それで、慌てて島に戻って。おばあちゃん、私の歌が好きだったから、枕元で、歌をうたってあげたんですよ。・・・・>
<私のためだけに、カモメちゃんが弾き語りをしてくれる。どれも、歌のタイトルまではわからないけれど、聞いたことのある曲だった。
カモメちゃんの歌声に耳を傾けながら、やっぱりカモメちゃんは、うたうために生まれてきた人なんだと、そのことを強く実感した。アイドル歌手としては成功しなかったかもしれないけれど、・・・・私みたいな素人が聞いても本物だった。・・・・声そのものが半端じゃなく大きかったし、声が独特というか、ただきれいとかかわいいとかじゃなくて、その中にたくさんのスパイスが混ざっているような、複雑で奥深い音色だった。>
(ぼくは、ここまでの描写だけでも、無性にカモメちゃんの歌を聞きたくなった。そして、目を閉じて聞いている雫さんの心中に去来する景色の懐かしさに、あらためて心が震える思いがした。)
(つづく)
美味しいコーヒーを入れて最後のもてなしをしてくれたマスターの死と、新たに登場した生き生きボランティアのかもめさん。 私も彼女の歌を聞きたいと思いました。 ワクワク感が止まりません
戸惑いはごもっともで、ぼくも一番考えた所でした。
だけど、ホスピスへ向かう船から見えたのは、雫さんの風景で、読者として同乗したとはいえ、その後の展開を船の風景に例えるのは「違うな」と思いました。
この後は、なるべくスピーディーに進めたいと思います。
ただ、停車する場所がまだ残っていそうで、先が見通せません。
次に登場するセラピーになるかもしれません。
ああ、そういう意味の記憶の風景だったのだ、と納得して先に進みましたが・・・
いつ訪れても不思議のない現実とはいえ、マスターの死はショックでした。
音楽セラピーに来てくれた元アイドル歌手のカモメちゃんの登場で、新たなストーリーの展開が楽しみです。
死期を間近に控えたゲストが、それぞれに与えられた時間の残りをいかに輝いて生きるか、小川糸さんが丁寧に描いた光景を、感動を持って味わいました。
ぼくは、作者が費やしたと同じだけ時間をかけることで、柔和な文章の襞に隠れた命の瞬きを感じ取る方法だと信じて、多くの場所で立ち止まったのでした。
あるいは独善に過ぎないのかもしれませんが、反省しつつ検証したいと思いました。