(覗かれ魔)
「キャーッ、なにこれ・・・・」
風呂場から麻里の悲鳴がひびいた。
「どうしたの?」
おかみさんが飛んでいった。
夜の十一時である。
大家は何事が起こったのかと緊張したが、相手が下宿人の若い女性とあっては、すぐに駆けつけるわけにはいかなかった。
「麻里さん、大丈夫?」
おかみさんが何度か問いかけると、「・・・・もう、あたしのペチャパイ撮られた」と、怒った声の返事がかえってきた。
「えっ、どこで?」
脱衣場の扉を開けたおかみさんと、麻里のやり取りが聞こえてきた。
「この窓の隙間から、カメラが差し込まれてきたの・・・・」
「えっ、こんな狭いところに?」
「手を入れて、小型カメラをこっちに向けて」
「へえ、それは大変・・・・。お父さん、110番して!」
急に出番が回ってきたものだから、大家は大慌てで緊急番号をプッシュした。
警察が到着するまでの間に、大家は風呂場の周囲を注意深く観察した。
麻里のいう窓は、たしかに五センチばかり開いていた。
そこは、空気を通すためにあらかじめ空けてあったから、覗き魔が無理やり開けたものとは思えない。
もともと窓の下には生ごみの入った大きなポリバケツが置かれていて、いきなり隙間に手を突っ込むには不便な状況だった。
よほど背の高い男なら別だが、普通の人間ならポリバケツをずらさなければ難しそうだった。
大家の見たところ、ポリバケツは微妙に移動していた。
体重をかければ多少傾ぎ、その弾みで円形の底が数センチずれたと解釈することもできた。
盗撮者が熱中するあまり、つい身体を寄せすぎたとみる見方である。
(いや、いや、この程度は、毎日使っているうちに動いたのだろう)
大家は、確信の持てないまま敷地の外に目をやった。
通用口は閉まっているから、覗き、盗撮の変質者は短時間のうちに扉を閉めて立ち去ったのかもしれない。
それとも浴室の裏側にまわって、隣家との境のブロック塀を乗り越えていったのか。
懐中電灯とゴルフのアイアンを手にした大家は、おそるおそる前方を探りながら確かめてみた。
しかし、暗がりを光の輪で掘り返してみても、人が潜んでいる気配はまったく感じられなかった。
音を立てずに赤色灯だけを回して、パトカーがやってきた。
二人の警官と前後するように、刑事らしい男が大家のもとに近づいてきた。
「110番された方は、おとうさんですか」
「はい」
ちょうど出迎えたような恰好になっていたので、質問はまず大家に向けられた。
刑事が、緊急通報した者の性別まで把握しているらしい様子に、大家は緊張した面持ちで応じた。
「それで、盗撮されたという方は?」
刑事は、訊くべきポイントを的確に衝いてくる。
「ああ、それは本人に訊いた方が・・・・」
大家は勝手口のドアを開けて、刑事を家の中に招き入れた。
「おーい、警察の方が来たから、説明してくれないか」
「はい、あ、どうも、ご苦労様です」
おかみさんが出てきて、靴を脱いだ刑事を浴室の方へ案内した。
麻里は、さすがに服装を整え終わっているらしく、刑事の質問に気後れせずに答えていた。
おかみさんも時どき、窓の建て付けの具合や、これまでの類似の事件について証言をはさんだ。
「失礼しちゃうわよ。あたしのペチャパイなんか撮らずに、咲子さんのを撮ればいいのに・・・・」
脱線するのは、やはり興奮しているからだろう。
いつの間にか、狭い脱衣場には麻里とおかみさんと、もう一人の同居人である咲子を加えた女三人がひしめいていた。
「この娘たち、二人とも美人だから、前から狙われていたのね」
おかみさんが、あけすけな調子で刑事に説明している。
「えーっ、怖い・・・・」
麻里と咲子は、互いに顔を見合わせてキャッキャッと笑った。
刑事は戸口に立ったまま、脈絡もなく喋り出す女たちの会話を表情も崩さずに聞き、現場の状況と照らし合わせているようだった。
周辺の道路や植えこみを点検した二人の警官が戻ってきた。
「それらしい人物は発見できませんでした」
報告が済んだのを機に、駆けつけたときと同様に自転車に乗って帰って行った。
パトカーがいつまでも赤色灯を回しているものだから、近所の人が出てきて物陰から様子を窺っている。
「それじゃあ、また変な男が現れたら、遠慮せずに通報してください」
刑事は、去り際に大家の顔を一瞥してパトカーのドアを開けた。
たまたまだろうが、大家は刑事に面を検められたことが引っかかった。
(まさか、わしのことを疑っているんじゃないだろうな)
犯人は往々にして、通報者とか現場に関係の深い人間の中にいる・・・・と聞いたことがある。
そうだとしても、「とんだ筋違いだ」と腹が立った。
それとも、盗撮があったという脱衣場の状況を見て、刑事も麻里の説明に疑念を持ったのだろうか。
二週間ほど前に、隣家の植え込みの陰からこちらを窺っていた男がいたという咲子の申告もあるから、一概に否定するわけにはいかないのだが。
盗聴、盗撮、痴漢、窓からの侵入、強姦。どんどんエスカレートする物騒な世の中だから、何があっても不思議はないのだ。
大家には、刑事が抱いた印象を知るすべはない。
しかし大家は、新聞テレビで報じられる事件の数々を思い浮かべながらも、麻里の華やいだ声の中に生じた一点の疑念を消し去ることができなかった。
留学途中でアメリカから帰国した麻里が、東京郊外の下宿屋に埋もれているのは、先輩の咲子と共同生活をしているからだ。
ニューヨークでも部屋をシェアしていた関係で、帰国してからも躊躇なく同居しているのだ。
麻里は、日本に戻っても住まいに対するこだわりは持っていなかった。
北陸の出身だから、本来は家に対する見得を持っているはずだが、いまはそのようなこだわりを口にできる状況ではなかった。
田舎に戻れば、門構えとか体面といったものを気にする家族に影響されて、煩いことを言い始めるかもしれない。
ただ現状では、家賃の安さが何よりの条件だった。
木造の下宿から出勤しようが、高級マンションから出勤しようが、街に紛れてしまえば誰にも見分けがつかない。
麻里にとっては住居にかける費用よりも、化粧や服装にかける費用の方が切実なものに感じられた。
住まいに近い町の繁華街でブティックの店員をする麻里だから、自分の見てくれには神経を使っていた。
咲子と部屋をシェアしたものの、不安定な収入では化粧品代すら満足には賄いきれず、ときどき親から仕送りをしてもらっていた。
一方の咲子は、苦労の末アメリカの大学を卒業し、帰国して間もなく都心の外資系金融機関で派遣社員として働いている。
その気になれば、バス・トイレ付きのマンションに入ることもできる高収入だ。
ただ、出費を抑えたいのは麻里と同様で、シェアすることで節約分を貯蓄に回そうと考えていた。
(麻里ちゃん、本気でニューヨークに戻れると思ってるのかしら?)
夜間のアルバイトにまで足を踏み入れそうな同居者に、咲子は直感的な危惧を抱いていた。
いずれは中断した留学生活に戻りたいと思っている麻里は、困難な状況にもかかわらず希望を捨ててはいなかった。
仕事の合間に、つぎつぎと会社の採用試験を受け、面接予定や面接結果の知らせを待っているところだった。
それだけではない。
他力本願のきらいはあるが、イケメンで金持ちそうな恋人を物色する抜け目なさもある。
ときどき咲子と連れ立って、合同コンパに参加するのがそれだ。
思いがけない幸運の到来を夢見て、街角の占い師に掌を差し出すこともあった。
ただ、願望がなかなか成就しない原因については、あまり深く考えたことがない。
朝きちんと出勤する咲子と比べて出勤時刻が不規則で、時には午後アパートを出て行って朝方帰ることもあった。
下宿屋のおかみさんは、若い女性を預っている立場上、痴漢に遭ったり、引ったくりに襲われたりするのを心配していた。
咲子は用心して、遅くとも夜十一時ごろには帰ってきたが、それでも怪しい人影を見かけたという。
麻里の方は、おかみさんの注意にもかかわらず、それほど身に沁みて受け止めた様子は見られなかった。
防犯面からは、タクシーの利用を勧めたいのだが、麻里が得る日給の何分の一かが吹っ飛んでしまうと思えば口に出せなかった。
麻里は天気さえよければ、深夜の帰宅となる遅番のときでも、自転車による通勤をやめようとしなかった。
麻里の出勤時刻は、勤め先のシフトにしたがって二つのパターンができていた。
朝十時にアパートを出て、夜の十時ごろに帰ってくる勤務時間。
夕方四時ごろ出勤して、夜中の二時過ぎに帰宅するコース。
とりあえず寝室だけは別になっていたから、咲子の生活を邪魔することはなかった。
「ねえ、これからシャワー使うけど、いい?」
当初は互いに譲り合って浴室や調理場を使い分けていたが、遅番のシフトになると二人が顔を合わせる機会は極端に減った。
しばらくは短い会話でも気持ちが通じていたが、ゴミ処理のルーズさを咲子に注意されたことから、二人の関係が怪しくなっていった。
「あたしって、そんなにだらしないですか」
麻里は、面と向かって咲子の意見に同調できないだろうと読んで、おかみさんに甘えたように返答を求めた。
「そうねえ、みんなしっかり分別しているんでしょうけど、プラスチックごみが混ざっていたり、乾電池が混入していたり、けっこう難しいのよね」
遠慮しながらも、おかみさんはこれまでに気づいたことを口にした。
「・・・・誰のか判らないけど、使い古しのパンティーやブラジャーがそのまま捨ててあってびっくりしたわ」
このことは、すでに咲子には話してある事実だった。
「すみません・・・・」
麻里は言い逃れができずに、モゾモゾと謝った。
言葉は殊勝だが、不貞腐れたような表情が頬をよぎった。
おかみさんは、一瞬眉を曇らした。
麻里が、老人とはいえ大家を意識して、これ見よがしに下着を捨てたのかと腹が立っていたからだ。
それに、褒められている時は上機嫌だが、耳の痛いことを言われたら途端に反抗的になる態度が気に入らなかった。
多少なりとも感情的なひびきが漏れたことで、麻里はおかみさんと咲子の気脈が通じていると誤解したかもしれない。
おかみさんは、今後の共同生活に支障が生じそうな気がした。
案の定、麻里と咲子の間に険悪なムードが漂いはじめた。
年長の咲子はマイペースを装っていたが、麻里の方は咲子と顔を合わせないように部屋に籠もり気味だった。
咲子が出勤して居なくなると、昼ごろ起きてきて食事の支度や入浴に時間をかける。
長々と二時間近く風呂桶に浸かったまま、蓋の上でファッション雑誌や文庫本を広げるのだから、おかみさんも気が気ではなかった。
夏ならともかく、ひっきりなしに追い炊きをする冬の真っ最中である。
そんなさなかに、外出から戻ったおかみさんがとんでもないことを目撃した。
ダンボール箱を手に持った配達員を相手に、勝手口のドアを半開きにして麻里が応対をしているのだ。
「すみません、いまお風呂の途中だから、荷物を中に置いて下さらない? ちょっと外で待ってもらえれば、サインしておきますから」
ちょうど宅配業者の背後まで近づいたおかみさんは、思わず声を荒げて怒鳴りつけた。
「麻里さん、あんたなんという恰好をしているの。宅配の人も困ってるじゃないの!」
ピンクのバスタオルで胸から下半身を隠した腰つきが、商売女のように見えたのだ。
「・・・・」
「ごめんなさい、私が代わりに受け取っておきます」
おかみさんは、バタンとドアを閉めて、外の鉄扉の上でサインをした。
「今どきの若い人は、何を考えているのかしら?」
配達員にボールペンを返しながら、無意識に問いかけてしまった。
三十歳を少し出た感じの男は、おかみさんの呟きに苦笑を浮かべて伝票を受け取った。
おかみさんは、アメリカ帰りの下宿人に未練を残しながらも、この調子じゃ二人とも早晩お引取りを願うしかないだろうと覚悟を決めた。
そして、「まさか」と強く否定していた亭主の主張を、満更ありえないことではないと真剣に取り上げる必要を感じた。
「覗かれ魔だよ」
大家である亭主の判断は、正しいのだろうか。
パトカーを呼び、警官や刑事の手を煩わして大騒ぎした事件が、若い娘の狂言だとしたら、女の底にひそむ得体の知れない滾りが恐ろしかった。
(おわり)
のっけから風呂場と女の子の場面に、ぐっと息を呑みました。ペチャパイはともかくとして。
こんな出だしの小説って「あり」なんでしょう。
で、どんどん読み進んでいっても、覗き魔は捕まらない。
それどころか、下宿人と二人の女の子の個性がだんだん表れてくる。
家主とおかみさんともども。
結局、覗き魔なんて存在していなくて、題名どおり彼女は〈覗かれ魔〉だったりして。
そんな余韻を残して幕を閉じるあたり、作者も少し意地悪だなあ。
書いていて楽しんだりして。
(丑の戯言)様、「覗き魔」もいれば、「覗かれ魔?」もいる。・・・・そんな気がして、作品作りをしてみました。
女性の特質の一部に、「覗かれ願望」があるとしても、それは正常の範囲なのでしょう。
しかし、作中のような状況下ではどう考えたらいいのか。
「自分は美人だから、覗かれるのよ」といった気持ちも書いてみたかったのですが・・・・。
<「注文の多い料理店」ならぬ「言い訳の多いブログ」かな?>