マドンナが去って一人になった雫さんは、自分の部屋の大きなベッドに倒れこむ。
<目を閉じても、まぶたを通して光が届いた。その光が、うるさいくらいに元気よく、サンバのリズムで踊っている。
「気持ちいい」
声に出すと、ますます気持ちよさが発酵する。両手を広げても、まだベッドの両端に余りがある。>
雫さんは、弾力のあるベッドで、布団に埋もれて眠ってしまいそうになりながら、不意に、昔付き合っていた人のことを思い出した。
<一度だけ、その人とパリを旅行したことがある。・・・・その時に泊まったリゾートホテルが、まさにこんな質感だった。>
海外旅行をするほどの仲だったのに、雫さんに病が見つかると、彼は半歩ずつ慎重に足を動かして遠ざかり、気がつけば相手の姿が見えなくなるくらい疎遠になっていた。
今となれば、それが正解だったと雫さんも思う。つい最近、相手が結婚したことを人づてに聞いた時も、胸に一切の波風も立たなかった。
<恋の味は知っているけれど、大恋愛でもなければ、大失恋でもない、そっち方面はいたって平凡な人生だった。>
雫さんが、半分眠りに落ちながら思い出に浸っている時、コンコンと控えめにドアを叩く音がして、送っておいた荷物が届いた。
ベッドを下りて、スーツケースを取りに行く。
<まずは、パジャマを取り出し、棚にしまう。>
病院では、五分おきに着替えても汗でびしょびしょになってしまうくらいパジャマの替えが必要だったから、普段着よりも、パジャマの数を優先したのだ。
ウィッグも、今かぶっているひとつしか手元には残さなかった。
<ただ、一着だけ、試着以外には正式に袖を通していないとびきりのワンピースを持ってきた。私の大好きなブランドの服だ。>
この、飛び切り高価なワンピースを買うまでの雫さんの逡巡が、いかにも女性らしい。
<どうせ燃やしてしまうのに、そんな大金を払うならどこかに寄付して社会貢献でもした方がいいんじゃないの、と。でも、その時にはっきりと声が聞こえたのだ。>
「違うでしょ!」
試着室の外で、店員さんが叫んだのかと思った。
雫さんは、偶然聞こえた自身の内面の声に背中を押されて、迷いが吹っ切れるのを感じた。
<さすがに、最後に会計を済ませる時は心臓が口から飛び出しそうになって冷や汗が出たけど。大きな紙袋にうやうやしく包まれたワンピースを持って店を出る時、私はなんだか誇らしかった。>
これらの(迷いと決断)の描写は、やはり作者が女性だからこそ気づける部分が多いのではないだろうか。
さらに、作中に用意されたユーモアと、周到な伏線も見ものだ。
<コネがあるわけでも、有名人の娘やお金持ちの令嬢でもない自分が、・・・・こんないい場所で余生を過ごすなんて、恵まれすぎているのではないか。>
そう考えそうになった時、いきなりドアの向こうから、白い固まりが飛んで来た。
一瞬、ふわふわしているのでウサギかと思った。その後を、誰かが追いかけてくる。白いかたまりは、ウサギではなく犬だった。
その犬が、雫さんの部屋の中を我が物顔で走り回っている。
「散歩から帰って足拭かないと、マドンナに叱られるぞー」
少し遅れて部屋の入口に現れたのは、明らかに病人とわかる男性だった。手足はやつれているのに、おなかだけがぽっこり出ていた。
床にお姫様座りをしていた雫さんは、その場でぺこりとお辞儀をする。男性は手に、濡らした手ぬぐいを持っていた。・・・・確かに犬の足は、足先だけ、グレーの靴下を穿いているみたいに汚れていた。
犬は、男性をからかうように逃げ回り、スーツケースに入っていた雫さんのぬいぐるみを見つけると、それを口にくわえて、楽しそうに暴れている。まさか、ライオンの家に犬がいるとは!
「待て、ロッカ」
「ロッカ?」
聞きなれない響きに、
「六つの花って書いて、ロッカと読むらしいです。リッカでも、どっちでもいいみたいだけど」
男性が言った。
「雪の意味の、六花ですね」
「よくご存じで」
男性はなんとか六花の四本目の足を拭き終える。
「こいつ、このままここに置いてっても、いいですか」
「ペット、連れてきてもよかったんですか?」
雫さんは、ずっと飼っていた亀を、親しくしていた会社の同僚に託してきたことを思い浮かべていた。
「いいみたいっすよ、でも、この犬、僕のじゃないっす。随分前にここで亡くなった人が飼っていた犬を、飼い主なき後もみんなで面倒見てるみたいで」
<こんな展開になるとは、全く想像していなかった。ぽかんとしたまま、首を縦に動かす。夢を見ている気分になって、ほっぺたをつねった。わずかに、冷たい感触が頬に広がる。やっぱり、これは夢なんかじゃない。紛れもない現実なのだ>
「六花」と、小さな声で呼ぶ。けれど、六花はすでに雫さんのスーツケースの中のぬいぐるみに囲まれて、まどろみを満喫しているようだった。
<毎年、サンタクロースにお願いしていたことがある。>
本当は、妹が欲しかったけれど、それはなんとなく望んじゃいけないんだということを、幼いながらに感じていた。だから、サンタさんへのお願い事は、いつも決まって
「いぬがほしいです」
<幼稚園の時から小学校を卒業するまで、私は毎年、同じ願いをサンタクロースに託し続けた。けれど、クリスマスの朝、枕元に置かれていたのはいつも動物のぬいぐるみばかりだった。>
ある年は熊、ある年はパンダ、・・・・ペンギン、ねずみ、謎の生き物。ただの一度も、生身の犬が置かれることはなかった。
<中学一年になった時、さすがに事情を察し、父に言った。
「もう、サンタクロースに犬をお願いするのは、やめるね。私にはほら、ぬいぐるみがたくさんいるし」
それを告げた時の、父のなんとも言えない困ったような表情を、私は一生忘れないだろう。父と暮らしていた集合住宅は、犬や猫を飼うことができなかったのだ。>
まどろむ六花の周りを取り囲んでいるぬいぐるみは、どれもクリスマスに父が用意したプレゼントのぬいぐるみだった。
あれほど望んだ生身の犬。・・・・それが、雫さんの部屋で今、まどろんでいるのだ。
ぬいぐるみには雫さんと父との記憶が刻まれている。そのぬいぐるみをくわえて遊ぶ六花の登場には、作者の緻密な計算が感じられる。
実は、雫さんには産みの親と過ごした記憶がない。
自分を実の子のように可愛がり、育ててくれた父との生活がすべてだった。
長じて、就職した雫さんに、父から、知らない女の人と結婚することを告げられた。
その時は、ぬいぐるみの手足をもぎ取ったり、引き裂いたり、窓の外に投げすてたり、やり場のない怒りに荒れ狂った。
やがて、父の立場を理解し、窓の外に投げ捨てたぬいぐるみを拾いに行き、引きちぎったぬいぐるみは懸命につくろった。
父の結婚生活を邪魔しないようにと自分に言い聞かせて、別居することを選んだ。
今、六花と共にあるぬいぐるみは、その時つくろったものだ。
雫さんの傷みの記憶を全身に負っている。
こうして巡り合った六花は、雫さんに寄り添い、生きる希望を与える存在となる。
読み進めるうちに気づく伏線のいくつかは、『ライオンの家』の面白さの要因となって読者に届けられる。
(つづく)
いろいろの痛みをケアしてくれそうです。
現在は、病院のICU室で最後を看取られることが多いですから、愛犬に見守られながら終末を迎えるというのは、なかなか許されないですよね。
いろいろな死期の迎え方がありますが、ホスピスは延命に頼らない有用な方法なんですね。
作者は、この本で理想のホスピスを描いて見せたということでしょうか。
現実にあるかと言われれば、なかなか・・・・なのかもしれません。
ただ、心の中に灯が点った気がします。