(いのち一尺)
月極め駐車場のコンクリートの上に、それは白白と横たわっていた。
折からの雨に打たれ、輪郭をぼかし、もともと備えていただろう生き物の容を失っていた。
宮脇は駐車場の中央に立ち、その光景に見入った。
(なぜ、子猫が・・・・)
打ち捨てられた毛皮の首巻のように、生気を失くした骸が打ち捨てられている。
不自然に伸びた腹に、一筋の線が見えるのはなんだろう。
ぺしゃんこになってはいたが、轢かれた跡のない毛皮の中央が、左から右へ長く割かれていたのだ。
宮脇は、先刻から視界の端に捕えていたうねうねとした物体に、初めて目をやった。
長さ一尺、発条(ゼンマイ)を伸ばし切ったような大腸だった。
それもまた五月の雨に打たれ、血の気のない白白とした姿でコンクリートの上に曝されていた。
子猫の横たわる位置と、伸びきった腸の置かれた場所までは、ほぼ二尺の距離があった。
状況からみて、骸と腸管のあいだには繋がりがあるはずだった。
だが、雨のコンクリート面に横たわる二つの物体を見ていると、両者の関係を認めるにはしばらくの時間が必要だった。
(汚れは雨で洗い流されたのか・・・・)
血の気のない死骸とその内臓は、あたかもキャトルミューティレーションを思い起こさせた。
宮脇がいっとき夢中になった、宇宙人による牛の変死事件が脳裏に去来したのだ。
子猫と腸管の別離は、カラスの仕業と考えられなくもない。
都会のカラスがいち早く嗅ぎつけ、腹の中から引っ張り出したと解釈すれば収まりがいい。
しかし、腸管は無傷に見えたし、死骸の腹はファスナーを閉じたようにくっついていた。
ふたつは、むしろ別々の存在として在るべき場所を主張しているようだ。
妥協を認めない即物的な展示物として、それぞれがコンクリートの上に横たわっていた。
宮脇はこの日一番で、得意先のある川越へ出かける予定だった。
古い建築物の修繕を頼まれていて、部材と大工道具をたずさえて小型トラックで出ようとする矢先だったのだ。
(近頃の大工じゃ、手に負えない仕事だから・・・・)
自分がいうのではなく、客がそう言ってくれるのだ。
ツーバイフォーに慣れきったハンチクな腕では、江戸時代からの建築仕様を甦らせることはできないと内心自負している。
すぐにも出発したい気持ちと、足止めをする事象の間で、張り詰めた時間が流れた。
振り切って出かけてもいいのだが、見てしまった後ろめたさが残るだろう。
せめてその場の状況を引き継がなければならないと、彼は駐車場の持主に直接電話をした。
「おはようございます。とんだ災難ですな」 オーナーの太った男が、如才ない笑みを浮かべてやったきた。
緑色の上下トレーナーにスポーツ靴を履いているのは、これからジョギングでもしようというのか。
この程度の雨なら、毎朝の習慣を崩さないという類のマニアかもしれない。
ともあれ宮脇は現場を指し示し、頭の中で固まりつつある疑念をオーナーにぶつけた。
「どうみても、ここで轢かれたとは思えませんでしょう?」
「うーん、どうしたんでしょうなあ」
「すでに死んでいた奴を運んできて、投げ捨てたんじゃないですか」
「いたずらですか」
「というか、変質者が殺した可能性も・・・・」
「気味悪いですな」
「それに、この腸はこれ見よがしにまっすぐ置いてありますよ。カラスの仕業じゃないでしょう」
「そういえば、いつか矢の刺さった白鳥のニュースがありましたな。・・・・それに足を切られた猫の話も」
オーナーの顔に、やっと真剣な表情が浮かんだ。
「ひょっとしたら、警察に届けた方がいいかもしれませんね」「うーん。・・・・とりあえず、区役所に電話してみますわ」
「はあ、そうしてください。じゃあ、わたしは出かけなくちゃならないんで・・・・」
宮脇は、やっと難を逃れた気分で運転席に乗り込んだ。
環状八号線から川越街道に出て、目的地に向かった。
小仙波の交差点から左に入って、旧市街に近づくのだ。
幸町近くの蔵造りの家が目印で、その奥の乾物屋が傷んだ廂を直したいという。
「火事を出しちゃいけん、古風でなけりゃいけん、ほんとに住むには窮屈な街だよ」
表通りは観光客が行き交うが、一本通りをはさんだ裏手には大した恩恵も及んでこない。
市の条例にしばられて重要伝統的建造物群保存地区に住む苦労を、今日もさまざまな場面で聞かされた。
手を休めて相槌を打つのも、割高な工賃の一部である。
とはいえ、修繕仕事だから高は知れているが・・・・。
それでも、信用というものはありがたいもので、口コミで注文がつながっている。
この日も、街並みに同化し目立たない色合いに仕上げた廂を、主人もおかみさんも喜んでくれた。
日ごろから程度の良い古材を用意しておくからできる仕事で、鉋や手斧といった道具も宮大工同様の拵えが必要だ。
釘一本でも、旧家の解体で出た舟釘や特殊な目かす釘を分けてもらう。
目端を利かして、準備に怠りのないようにしている。
最近はインターネットを介して宮脇の存在を知り、遠くから依頼してくる客もいる。
細々とだが食うには困らないし、あれこれ講釈を垂れながら仕事を続けられるのが何よりだった。
「ありがとうございました。垂木を代えておきましたんで、しばらくは修理の必要もないと思います」
「ご苦労様でした。雨はあがったようですが、帰り道にお気を付けください」
まだ暗くなる時刻ではないが、それでなくとも上りの川越街道は混雑がはげしい。
宮脇は途中から254号を外れ、田無から新青梅街道へ抜けるルートを選んだ。
関越自動車道を降りてきたのか、高速道路でのスピード感覚を修正できない一団が合流してきた。
中でもガラスの内側を視えなくしたワゴン車が、宮脇の背後から煽るように接近してきた。
(馬鹿な奴だ。いくら急いだって先が詰まっているのに・・・・)
どうせ若いドライバーが、いらいらの解消を図っているのだろうと、相手にしない運転を続けていた。
事故が起きたのは、秋津のあたりを走っているときだった。
曇天のもと、行き交う車両はみな早めの点灯をしている。
その光の干渉を縫うように、何かの影が横切ったのだ。
宮脇は反射的にブレーキを踏んだ。
とたんに、背後から後続のワゴン車が追突してきた。
(あ、やりやがった・・・・)
背中に受けた衝撃を推し量りながら、ハザードランプを点けてその場に停車した。
ドアを開けて後方を見ると、案の定若い男が運転席から降りて近づいてきた。
サングラスをかけ、体を揺らして、どのように切りだすか思案する様子に見えた。
「おっちゃん、なんの恨みがあるねん?」
開けかけたドアに手を置いて、宮脇の顔を覗きこんだ。
「冗談じゃない、追突したのはそっちじゃないか」
怒っているのはこっちだと、わからせるように語気を強めた。
「人が飛び出したわけでもないのに、急ブレーキはないんちゃう?」
「猫が横切ったんだから、仕方がないだろう。オカマ掘るほどスピ-ド出してるそっちの責任だよ」
ふーんというように、男は顎をあげた。
「そうかい、埒が明かんようなら納得いくまで詰めましょか」
宮脇は、まず警察に通報しようと携帯電話に手を伸ばした。
このままここにおっちゃ通行の妨げや。110番より、この先の横道に入って相談しましょ」
自分のワゴン車に戻って、宮脇の小型トラックを追い越して行った。
一瞬、逃げられるのかなと思ったが、そうではなかった。
このあたりの道路沿いは、途切れることなく民家や商店が並んでいるが、少し脇へ入ると畑が広がっている。
誘導されるようにして、宮脇もワゴン車の後を追った。
ブレーキランプが点いたので、停車して相手の様子をうかがった。
再び運転席から男が降りて、ゆっくりと近づいてきた。
宮脇もクルマを降り、勢いで負けないように肩をひいてサングラスの若者を迎えた。
「おっちゃん、バンパーがいかれてもうた。なんとかしてほしいわ」
目で見て確かめるように、男が手ぶりでうながした。
歩きかけた宮脇を待ち構えるように、スライドドアが開いて二人の仲間が降り立った。
いやな予感がしたが、宮脇はつい誘導されてワゴン車の前にまわった。
バンパーは曲がった様子もなく、ただ宮脇のトラックの塗料が付着していた。
(なんだよ、こっちの方が被害が大きいじゃないか)
むっとした表情で振り返った瞬間、いきなり若者の蹴りが顔面に炸裂した。
ガーンと脳天が揺れて、宮脇は畑道に転がった。
転がったところを、さらに厚底の靴で踏みつけられた。
「このジジイ、ぶっ殺してやる!」
誰かの叫ぶ声が聴こえた。
薄れゆく意識の底で、後悔の念がただよった。
理は自分の方にある。
しかし、納得しない若者は暴挙に走った。
歳甲斐もなく突っ張ってしまった自分の行為を、宮脇は悔やんだ。
どんなに相手を非難しようとも、打ちのめされた現実は覆らないのだ。
さらに攻撃が続けば、殺されるかもしれない。
恐怖が、彼の脊髄を通り抜けた。
頭に血が上った連中は、ただひたすら恨みを晴らそうとするだろう。
理不尽で、卑怯と思っても、地べたに血を流す自分は現実なのだ。
ふと、彼の前を横切ったのが、駐車場で見た猫の幻影ではないかと疑いを持った。
朝の出がけに、コンクリート面に横たわっていた骸が、生の残像をもとめて跳躍したのかもしれない。
腹を蹴られた衝撃で、吐瀉物が噴射した。
三時の休憩で出された身欠きニシンも、きゅうりの古漬けも、それぞれの形で彼の傍らに染みを作ったはずだ。
宮脇が有難がった産品も、胃から飛び出してしまえばさしたる違いはない。
怒りも、怨嗟も無力。そこに在る事実だけが現実なのだ。
(生きるとは、こういうことか・・・・)
誰かが気がついて通報してくれなければ、猫の骸と同じように白白と冷えていくのだと悟った。
(おわり)
何やら背筋が凍るような物語。
何が正しくて、何が悪いのかは、分からずじまいながらも、善良そうな主人公の肩を持ちたくもなります。
とはいえ、世は理不尽だらけ。
きっぱりとシロだのクロだのとは、単純に決しきれないもの。
作者は、その辺の判断を読者任せにしているようにも思えました。
それにしましても、毎度のことながら精緻な文章や言葉遣いにあらためて感嘆します。
こんな単語があったんだあと、しばし呆然とさせられ、読み返してみたり。
この超短編シリーズには毎度、惹き込まれてしまいます。
感謝申し上げながら、返信欄をお借りしての余分なひと言をお許しください。
津波の際の教訓として三陸地方に残された言い伝えは、すでに多くの人が知っていることがらです。
近頃、津波に限らず人が生き延びることの困難を実感しています。
頼るべき政治は機能せず、合わせて法律も行政も硬直化している気がします。
瀕死の被災者が叫べど声は届かず、大動脈に血は廻らなくなっているのです。
細々と末梢血管だけが働いて壊死を回避していますが、長年信じていた国家という組織は、やはり善良なるものに対する期待からは程遠い、幻想にすぎなかったのかもしれません。
他者に頼るな、自分の身は自分で守れ!
原発事故の過小評価、情報隠ぺいも含め、最悪の事態を予測して「避ける、逃げる」生き方、すなわちあのおばあちゃんの「命てんでんこ」を実践しなければならない事態なのだと痛感しています。
{/dododo