鈴虫が鳴いている
姿を見せずに鳴いている
おとこが一人泣いている
声を出さずに泣いている
物憂げに啼いていたカラスは
とうに ねぐらに帰って行った
ニュースの画面はもう白茶けたままだ
女の座っていたクッションの窪みに影が忍び寄る
外の草むらでスズムシが鳴いている
背中の翅をこすり合わせて音たてている
. . . 本文を読む
うっすらと頬をピンクに染めて
桃色昼咲き月見草は民宿の娘のようだ
御宿の夏は潮の香りが満ち
客の帰りを待って花も娘も華やぐ
恋の期待と青春の哀愁が
どこからともなく流れてくる
月の砂漠で出会いがあったとか
漁船の陰で逢瀬があったわけでもなく
夕凪が運ぶ潮の疼きが已まないのだ
暮れなずむ砂浜は墨色に埋もれ
外側には濃緑の松林が立ちはだかる
海水浴 . . . 本文を読む
広い空き地へ飛んできて
いつの間にか風に揺れているエノコログサ
あなたの名前は犬ころ草なの?
摘んで帰って柴犬のコロクでもからかおうか
二年間は二匹と二人の家庭があった
雅代の連れてきた子猫と僕のコロクの共同生活だ
新しもの好きの雅代の猫はラグドール
気取った名前はジョセフィーヌだった
ジョセフィーヌを相手に猫じゃらし
雅代と二人でコチョコチョ遊ん . . . 本文を読む
世の中には 想像もつかないものがあるものだ
ニコヤカグモと名づけられた けったいな蜘蛛のことだ
蜘蛛族には風変わりな連中が多いが
こいつを見たときは思わず手を拍った
大手をひろげ 大口あけて笑うヤツ
ちっちゃな目と 麻呂のような眉
思いっきり間延びしているから
ヨシモト一の お笑い芸人のよう
世界中の蜘蛛のうち 99.9パーセントが肉食系
だけ . . . 本文を読む
図書館を出て 高架線沿いの道を歩いていると
黄色に色づいたプラタナスの葉が ハラハラと肩に降りかかった
ああ こんなに秋は深まっていたのか
都会にありながら 繊細さを忘れない植物に溜め息を漏らした
ガタンガタンと音がして 電車が近づいたのはその時だ
見上げる目に映ったのは やわらかい緑色の車体だった
(あれ?) いつも見る光景と何処か違うのだ
. . . 本文を読む
東千代之介が特定郵便局長を演じたテレビドラマ
あれはなんという作品だったかと記憶が疼く
簡単に見つかるだろうと検索してみたが
手持ちのキーワードでは全然ヒットしないのだ
何年前のテレビドラマだったかというと
20~30年前だろうと漠然としている
舞台となった特定郵便局は地方色濃厚で
坂の多い街だった気がするがそれも不確かだ
このままでは自分が何を描き . . . 本文を読む
男は十に余る砥石を残していった
研ぎ師といった特別の技術者ではないが
ハガネを研ぐ話になると身を乗り出す
刃物を見定めるように話を聴く男だった
海に近い城下町の荒物屋に奉公し
店主の娘と所帯を持って30年
訪れる客の持ち込む包丁や鎌を研ぎ直し
刃の減り具合から蘊蓄を傾けるのが常だった
戦国時代に先祖が研ぎ技を認められ
四辻そばの匠町に長屋の一つを与 . . . 本文を読む
ある男が女の心を盗んで逃げた
盗まれた女は盗まれたとは気づかずに
あちらこちらの波止場をさがし回った
マドロスさんが咥えるパイプの煙を追って
女は男のキャプテンハットに惚れていた
長崎の港で男の特徴を並べると
あんた船員帽とセーラー服を捜してるの、と
声の潰れた酒場の女に呆れられた
あんたの好きな海軍の制服を着た人は
神戸にいるかもしれないわよ
. . . 本文を読む
まあ いいってことよ
みんな急いでいるんだろう?
円筒の箸立てから無造作に引き抜いて
ぱちんとオイラを二つにするわけさ
中にはオイラの片身を口にくわえ
無理やり引き離す横着者もいる
オイラだって多少は抵抗するもんだから
割られたとたんに唇を蹴飛ばすこともある
おッ痛てえ こいつ根性ワルイわ
二つになったオイラに文句を言う輩もいる
均等に割れずに片 . . . 本文を読む
群馬県に月夜野という町がある
猿ヶ京に近いのどかな平野の里だ
ぼくたちの目的地はもっと先なのだが
そこへ通りかかった時には日が傾いていた
仕事が延びて出発が遅れたこともある
ガリ版印刷の権威でもある師匠は
依頼された俳句雑誌の表紙に命を懸けていて
緻密な三色刷りのわずかなズレにも拘った
納品が済んでさてと腰を上げたのが一時過ぎ
師弟三人がバタバタと . . . 本文を読む
その集落は凍え切っていた家の屋根も杉板の塀も雨にさらされ悄然と田舎道を眺めている通り過ぎる者など 滅多にいない沈みきった集落の道を通るのはうなだれた一匹の野良犬だけどこから来て どこへ向かうのか誰も知らない 知ろうともしない千切れかけた野良犬の尻尾以外には集落の入り口には縄に吊るした端布の幣束いま結界を越えるのは郵便配達のバイク門口に来て 手紙の宛名を確かめる息を潜めている者がそこにいる集落は人の . . . 本文を読む
寒い さむ~い冬だけどなぜか冷やし中華が食べたいお気に入りのあの店では5月に入らないと提供されないがう~ん それでも食べたいあの整然と積み上げた中華麺を赤 黄 緑 の具と混ぜ合わせ皿に添えたカラシに鼻ツンツンさせながら紅ショウガ 錦糸卵 キュウリの他に透き通った白のクラゲは特別ゲスト甘酢とカラシが混ざり合い冷え冷えの麺を引き立てるああ 冷やし中華が食べたいコリコリと歯に当たるクラゲを食べたいあの食 . . . 本文を読む
職場の4階の窓から首都高のインターチェンジが見える郊外から吸い寄せられたクルマを立体交差で振り分けるランプだその無機質な建造物を見ながらぼくたちの朝礼は白々しく始まる課長の面白くもない話はどれも印刷された服務規律の焼き直し上の空で通過するクルマを追う視界の下部で伝令の侵入が見える総務課の職員が急な情報をたずさえいま課長に耳打ちしたところだ首を傾けて聞いていた課長が一つうなずいて朝礼に戻った本日無断 . . . 本文を読む
忍び寄る冬の夕暮れ時畝の陰から急に立ち上がる風のように無防備な胸元に潜り込む「うた」がある叱られて 叱られてあの子は町までお使いに・・・・何て悲しいうただろう あの童謡は叱られたことも悲しい叱られた理由がわかることもきっと 悲しみのもとなのだあれは 夏休みのはじめぼくはお腹をこわして臥せっていただが 耳には祭囃子が聞こえてくるお祭りを見たい 反対する親に懇願した夜店で 何も買ったりしないから握った . . . 本文を読む
倉淵から長野原へ向けてクルマを走らせていると辺りは次第に暗くなってきたかやぶきの郷への分岐を過ぎいよいよ須賀尾峠へ差し掛かる頃だ左右の樹木で視界が遮られる下りにかかるといっそう暗さが増す樹林に隠された丸岩城址も遠くない真田と北条の攻防もすでに薄闇の中すれ違う対向車もない未舗装路ライトを上向きにして慎重に車を転がしていたとつぜん前方で何かが動いたスピードを緩めて目を凝らすとなんと3頭の鹿がこちらを見 . . . 本文を読む