『原爆記 長師被爆30周年祈念』
長師被爆祈念誌刊行会s50年
今では、長崎大学になっています。原爆投下された時、長崎師範学校と呼ばれていました。
全寮制と戦時体制。下「」引用。
「師範学校はすでに早くから全国的な体制として全寮制がとられていた。そして私たちの寮ではいわゆる臨戦体制をとるため厳格な軍隊的な運営がなされていた。」
どうも、被害者としてしか書かれていない本です。
もし、あのような戦争を起こしたくないというのなら、本当に平和を望むならば、加害者としても書いていただきたかった。
--他の本ですが、師範学校など教師になる人たちは、特別の扱いをされ、徴兵されてもいい身分であったという。
そして、生徒たちに、軍隊はいいところだと教えたという。
今も昔も、教師とは人の上にたつものだと思っておられるようです。
それが、本当に正しいことかどうかも考えていただきたいものです。
今では、積極的な平和をもっている人たちは構造的暴力をもなくそうとされています。
共に生きる人生の先輩でいいようにボクは思います。
半分焼きナスになっていたという。下「」引用。
「農場の畑には、ナスもカボチャも実っている。もいで見て驚いた。ナスもカボチャも枝についたまま南に面した半分は焼けているのだ。ヤキナスであり、ヤキカボチャである。みんなきざんで味噌汁のみになった。」
すごい熱線であったということですね。
俘虜外国人の待遇がうらやましかったという。下「」引用。
「長崎市の東端、高くそびえる彦山の山腹に、ポーランド人の修道院がある。ここは男子だけの修道院で、見事なあごひげの修道士たちが、黒衣の上から太い麻縄の腰ひもを垂れた特異な風体で、山畑に麦を植え、牛やにわとりを飼い、勤労と祈りの静かな生活を送っていた。
そこが、いつのまにか、どこからともなく送られてきた外人たちの、抑留所となっていた。毎日、彼らのために、多量の肉や、牛乳が運びこまれていた。流石に温良従順な長崎市民も、乏しい配給に痩せ細っている眼の前に敵国人の豊かな食糧を見ては、次第に険悪な不平をならしはじめないではいなかった。」
異国の地で捕らわれの身になることがうらやましいのでしょうか?
食事も何十人、何百人集まれば、一人分にすれば少量でも多くなるのでは?
碑があるという。下「」引用。
「長崎大学正門の左、守衛室の後方に一つの慰霊碑がある。
この慰霊碑は、昭和十五年から昭和二十年までの間に長崎師範学校(現在の付属小学校敷地)に入学し、同校に学んでいて昭和二十年八月九日の原子爆弾により爆死した五十四名の亡き学友の御霊を祀った慰霊碑である。」
諌早に収容された被爆者。
憲兵が大きなおにぎりをくれるが、憲兵がこわくて食べられない。
再度いわれて、仕方なしに少しずつ口にほうりこんだという。
積極的な平和、構造的暴力を考えるとき。
教師は加害者になることが多いことも考慮していただきたい時代でもあります。
しかし、モラルのない人がいる時代、まじめな教師が困惑されているのも理解できます。
目 次
Index
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長師被爆祈念誌刊行会s50年
今では、長崎大学になっています。原爆投下された時、長崎師範学校と呼ばれていました。
全寮制と戦時体制。下「」引用。
「師範学校はすでに早くから全国的な体制として全寮制がとられていた。そして私たちの寮ではいわゆる臨戦体制をとるため厳格な軍隊的な運営がなされていた。」
どうも、被害者としてしか書かれていない本です。
もし、あのような戦争を起こしたくないというのなら、本当に平和を望むならば、加害者としても書いていただきたかった。
--他の本ですが、師範学校など教師になる人たちは、特別の扱いをされ、徴兵されてもいい身分であったという。
そして、生徒たちに、軍隊はいいところだと教えたという。
今も昔も、教師とは人の上にたつものだと思っておられるようです。
それが、本当に正しいことかどうかも考えていただきたいものです。
今では、積極的な平和をもっている人たちは構造的暴力をもなくそうとされています。
共に生きる人生の先輩でいいようにボクは思います。
半分焼きナスになっていたという。下「」引用。
「農場の畑には、ナスもカボチャも実っている。もいで見て驚いた。ナスもカボチャも枝についたまま南に面した半分は焼けているのだ。ヤキナスであり、ヤキカボチャである。みんなきざんで味噌汁のみになった。」
すごい熱線であったということですね。
俘虜外国人の待遇がうらやましかったという。下「」引用。
「長崎市の東端、高くそびえる彦山の山腹に、ポーランド人の修道院がある。ここは男子だけの修道院で、見事なあごひげの修道士たちが、黒衣の上から太い麻縄の腰ひもを垂れた特異な風体で、山畑に麦を植え、牛やにわとりを飼い、勤労と祈りの静かな生活を送っていた。
そこが、いつのまにか、どこからともなく送られてきた外人たちの、抑留所となっていた。毎日、彼らのために、多量の肉や、牛乳が運びこまれていた。流石に温良従順な長崎市民も、乏しい配給に痩せ細っている眼の前に敵国人の豊かな食糧を見ては、次第に険悪な不平をならしはじめないではいなかった。」
異国の地で捕らわれの身になることがうらやましいのでしょうか?
食事も何十人、何百人集まれば、一人分にすれば少量でも多くなるのでは?
碑があるという。下「」引用。
「長崎大学正門の左、守衛室の後方に一つの慰霊碑がある。
この慰霊碑は、昭和十五年から昭和二十年までの間に長崎師範学校(現在の付属小学校敷地)に入学し、同校に学んでいて昭和二十年八月九日の原子爆弾により爆死した五十四名の亡き学友の御霊を祀った慰霊碑である。」
諌早に収容された被爆者。
憲兵が大きなおにぎりをくれるが、憲兵がこわくて食べられない。
再度いわれて、仕方なしに少しずつ口にほうりこんだという。
積極的な平和、構造的暴力を考えるとき。
教師は加害者になることが多いことも考慮していただきたい時代でもあります。
しかし、モラルのない人がいる時代、まじめな教師が困惑されているのも理解できます。
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