『ホットスポット-ネットワークでつくる放射能汚染地図-』
ETV特集取材班・著/講談社2012年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「文化庁芸術祭大賞
早稲田ジャーナリズム大賞
日本ジャーナリスト会議大賞 受賞
どこに、どんな放射性物質がまき散らされたのか
なぜETV特集取材班は詳細な測定ができたのか
なぜ政府は放射能汚染の実態を住民に伝えなかったのか
いますべてが明かされる」
反響と視聴率。下「」引用。
「シリーズの視聴率は高い時で一・八%という、テレビプロデューサーとしていかがなものかという低さであった。しかしネットで評判が広がり反響は桁外れに大きくなった。特に第一回の放送後には一六○○件を超す電話やメールが殺到した。当時、視聴者がいかに放射能汚染の情報に枯渇し、事実を知りたいという欲求が高まっていたかのあらわれだったと思う。-略-」
木村真三と岡野眞治。下「」引用。
「とはいえ、目に見えずにおいもしない放射能の世界に飛び込み、独自調査を刊行するには勇気が必要だった。それを可能にしてくれたのがり、放射線衛生学が専門の木村真三さんなと、日本における放射線測定の第一人者である岡野眞治さんの老若二人の科学者だった。研究所を辞職してまでも福島で測定を行った木村さんの行動力は番組の原動力になった。また、ある人いわく「放射能の調査に関しては岡野さんたった一人で、米軍に対抗できる」というほどの圧倒的な知識と経験、そして測定機材を自分で作ってしまうという、-略-短期間に汚染地図を作成することはできなかった。しかし、それだけでなく放射線について熟知している二人は、測定器をまるで暗闇の暗視スコープのように使い、被ばくの危険からスタッフを守ってもくれた。」
志願してきたディレクター。下「」引用。
「中に若い池座(いけざ)雅之ディレクターが混じっているのが意外だった。池座は前々年にら広島曲から東京に上がったばかりで、チェルノブイリに関心があるため私のもとをよく訪ね、木村真三さんにも紹介していた。しかし所属班も異なり、ほかの面々とは一面識もないのにその場にいたので不思議に思って尋ねると、「木村さんから電話を聞いて、ぜひ自分も番組に参加したいと思って……」という。つまり彼は志願してたようだった。」
木村真三……。下「」引用。
「夕方六時に木村真三さんが到着した。その日、大森からの電話のあと、打ち合わせに参加するために放送センターに来るようにお願いしてあったからだ。木村さんは放射線測定器やポケット線量計、防護用具などがつまった鞄を両手にぶら下げ、会議室に入ってきた。
まずはETV特集班の面々に木村さんを紹介して、打ち合わせが始まった。だがすぐに一同は仰天するとになる。
「現地に行くとして、いつごろかな?」と大森が尋ねると、木村さんは、「できるだけ早く行きましょう。明日の朝出発しましょう」と答えたのである。
一二日の一号機に始まり、その日一四日には三号機で水素爆発が起こっていた。そして会議室の脇のテレビでは二号機でも原子炉圧力容器内の水位が下がり始めていること、事故前から停止していた四号機でも使用済み燃料プールで異常が発生していることが報じられていた。おまけに東電や原子力安全・保安院は否定するが、すでに炉心溶融が始まり、場合によっては巨大な水蒸気爆発が起こる可能性があることがネット上でさかんに噂されていた。-略-
正直に言うと私の中でも次第に不安が募っていた。取材中に大爆発が起こり、致命的な被ばく(注1)をして病院に運ばれる……の図も脳裏に浮かぶ。しかし木村さんの意志は曲がらなかった。
「いま行って、すぐに土壌サンプルをやらないと、立ち入り禁止になって入れなくなって、データは採れなくなりますよ。それに早く採らないと半減期(注2)が短いために消えてしまう放射性核種もあるんです。僕は東海村JCO臨界事故のときには行政手続きに一週間かかり、出遅れて失敗したんです。あれから一二年間後悔ばかりでした。今度こそ、後悔したくないんです」
そして、木村は辞表。下「」引用。
「木村さんはその日の深夜、研究所に戻り、辞表を書いて総務課長の机の上に置いた。辞表の書き方がわからないので、インターネットで調べ、そこにあった雛形どおり、理由は「一身上の都合で」とした。これならば上司は不受理とすることはできない。辞表が受理されるまでの間は休暇をとることも書き添えておいた。」
妻には事後報告だったという。
著者の娘「パパはこの日のために」 下「」引用。
「私は自宅に電話して娘に明日から福島に行くことを告げた。娘は一瞬声を詰まらせたが「仕方がないね。パパはこの日のためにやってきたんだものね」と理解を示してくれた。しかし、すでに身の回りでも原発事故の放射能が襲ってくる危機は噂されていて不安なので、私の留守中は友人に家に泊まってもらうという。」
木村、メールを送る。下「」引用。
「「原発が爆発した以上、今すぐ現地へ入らないといけない。ただ僕一人では無理です。皆さんが現地入りできない場合は、僕が先鋒となりますから、後方支援をぜひお願いします」という内容で、仲間の奮起を促す“檄文”でもありました。研究所に着くまでに、小出さんや高辻さんから次々と返信がありました。いずれも「自分はすぐには入れないが、できることは何でもする」というものでした。後に彼らは、僕が現地で採取してきた土壌や松葉、水などのサンプルの放射線測定を引き受けてくれます。彼らの測定結果がなければ、僕の現地調査の意味は半減してしまったはずです。放射能汚染地図の製作は、この研究者のネットワークの存在があってはじめて可能だったのです。」
協力者・広島大学……。下「」引用。
「三月一九日、池座は、「株分け」したサンプルを広島大学の遠藤暁准教授と静間(しずま)清教授のもとに運んだ。遠藤さんは木村真三さんの長年の友人で、木村さんが五年前に放射線医学総合研究所を辞めたあと、一年半塗装工として働いていたときにも連絡を絶やさず付きあってくれた、「本当の仲間」だという。静間さんは、原爆投下後に広島に降った「黒い雨」の共同研究などに携わった環境放射能研究の専門家で、今回は主に採取した植物や水の放射能測定を担当した。-略-」
もくじ
東大に協力者はいないのかな?
各大学と、クロスチェック。下「」引用。
「木村真三さんが福島で採取したサンプルは、こうして京都大学、広島大学、長崎大学、金沢大学などに送られ、それぞれが測定した結果を互いに交換して、チェック、検討の上で修正が加えられていった。これはクロスチェックと呼ばれ、分析データの精度を高めるために用いられる手法だという。」
目 次
「放射能汚染地図をつくるため、岡野眞治博士に会う」
「俊鶻(しゅんこつ)丸」でも活躍した岡野。
チェルノブイリ事故で放射能汚染地図を作成した岡野。下「」引用。
「岡野さんは、ヨウ化ナトリウム(NaI)の検出体を使って環境中の放射線量を正確に計測するガンマ線 シンチレーションカウンターと、六秒ごとに計測されるた放射線量とGPSによる位置情報を記録する装置、さらにどんな放射性核種があるかを判明するスペクトロメーターを結びつけた独自の放射線測定記録システムを開発していた。
このシステムを列車や車に持ち込み、ある地点からありる地点へ移動する間測定し続けることで、その間の放射線量の推移と、どんな放射性核種がそこに存在するかを記録に残すことができる。チェルノブイリ事故の年に作った番組でも、翌年の私の番組でも、NHKはこのシステムを使ってヨーロッパの放射能汚染地図を作成した。
私はそのことを知っていた。だから今回の番組取材の当初から岡野さんのことが気にかかっていた。」
「鉄腕アトム」と著者。下「」引用。
「私は一九五七年の生まれだ。東海村の原子炉が、初めて臨界に達した年、すなわち日本に初めて原子の火が灯った年に私はは生まれだ。幼少のころのヒーローは鉄腕アトムだった。アトムは、その胸にある原子炉が生み出す一○万馬力で空を飛び、悪をやっつける。その妹はウランちゃんだ。科学が未来を切り開くと信じていた時代。原子力はその象徴だった。そういう時代に生まれ育った私自身、原発の安全神話に、無自覚のまま、どっぷりと浸かっていたのではなかったろうか。」
原子の火が灯ったのは1945年8月6日、広島の上空だろう……。
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米軍基地と原発。下「」引用。
「米軍基地も原発も、振興策とセットになって地方に押し付けられきた。原発事故は、安全神話という幻想とともに、日本の政治と経済の歪みそのものをあぶりだしたのだ。」
「原発から遠ざかるほど放射線量が上がった」
「死の谷」 下「」引用。
「お昼過ぎになった。私たちはいよいよ、今回の測定記録の主目的地である「死の谷」を目指して、国道一一四号線を浪江町の街中から北西方向へ向かった。
車が山間部に近づくにつれて、モニターの中のバーグラフの伸びは大きくなる。川に沿った狭い谷に指し掛かると、毎時一○マイクロシーベルトの検出限界を超えた。するとそれまで表示されていたスペクトルが出なくなる。トンネルに入ると外界から遮断されるため放射線量が下がって、スペクトルも回復するが、出たとたんに再び上がって振り切れる。-略-つまりここはす高濃度の放射能汚染地帯、それも、局部的な汚染であるホットスポットというよりも、広い面積が汚染されたホットエリアと呼ぶべき場所だった。ではこのホットエリアである「死の谷」はどのようにして形成されたのであろうか。-略-」
「ホットスポット、飯舘村へ」 下「」引用。
「このとき、私たちが飯舘村に向かったのはほとんど偶然だった。当時を振り返ると、このころの私たちは飯舘村について何も知らなかったといっていい。すでに、文部科学省などの発表によって、飯舘村で高い放射能が検出されていることだけはわかっていた。-略-」
「ポスト・フクシマ」 下「」引用。
「さらに今中さんは「ポスト・チェルノブイリ」「チェルノブイリ後」という言葉があるように、私たちは「ポスト・フクシマ」というべき時を迎えている、という。私たちはすでに「放射能汚染の時代」に入っているものであり、そうである以上は汚染の現実を直視して未来の選択をするべきだ、というのだ。
「これから福島の汚染地帯でどうするのか。避難した人、どうしても家に帰りたい人、戻るのが嫌だという人もいるだろうし。まず向き合うためには汚染データを、まさに一軒ずつ採る必要がある。村、家はたして住むのに適しているのか、その判断が問われているわけです。まず考えるベースは汚染レベル、次に放射能汚染によってどれくらい被ばくするのか、これもきちんと評価していかねばならないんです」
そして、表情は温和だが、厳しい言葉で締めくくった。
「住んでいる人、住んでいた人が決めるような形で情報や知恵を提供する責任が、本来は東京電力にあります。そして原子力政策を進めてきた日本政府にもあるのです」」
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除染は未知の分野だった木村真三。
「避難の権利」 下「」引用。
「チェルノブイリ周辺の国で法律上認められる「避難の権利」を導入し、「自主」避難するものにも地元に残るものにも、同等の賠償を受ける権利や、学童の「集団疎開」を求める動きもあるが難航している。」
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