『日本の原爆-その開発と挫折の道程-』
保阪正康・著/新潮社2012年
初の投下でブツブツ……。下「」引用。
「彼らのなかにはこういう光景を見て恐怖に駆られ、とりとめもないことを口走る者もいた。スウィーニーの機に乗っていたベテランの機銃手は、何やらぶつぶつ呟き始め、口から溢れ出る言葉は、恐怖のために何を言っているのか分らなかった。しかしその意味は、こんな大量殺戮兵器があるのか、今、自分はそれを人類で初めて使う役を担ってしまったとの叫びだったのである。
実際にスウィーニーも、エノラゲイが原子爆弾を投下したときの心理を、「もう遅い。……もう引き返すことはできないのだ」と書いている。「私たちのこの爆弾が--その目標に対して、そして私たちたに対して--どんな影響を及ぼすことになるのか、完全に把握している者は誰一人いなかったということだ」と書き残している。」
INDEX
福島と原爆……。下「」引用。
「-略-東京電力福島第一原子力発電所の事故に、この原爆製造計画の不透明で曖昧な総括が尾を引いていると思うからだ。両者に通じているのは隠蔽という事実であると考えた。」
長岡半太郎も理研の研究員の一人。下「」引用。
「長岡は確かに貴族院議員であったが、やはり理研の研究員の一人(理事)だった。日常的に理研に通いつめては、仁科ら研究者たちと交流を深めている。それゆえに仁科が陸軍の依頼で進めている「ニ号研究」(-略-)についても熟知していた。そのために長岡は「今次の戦争では製造できない」という前提なのに、田中館はとんでもないことを言っている、東條らに媚びへつらっているとの怒りを深めていったと見ることができるだろう。」
ウランがない。下「」引用。
「ウラン爆弾(つまり原子爆弾)など製造不可能と言っているかと思うと、一転して、技術的に製造可能と言い出したりする。研究費の確保という理由はあるにせよ、それだけでは「二枚舌」を納得することはできない。その本音はどこにあるのか。
ひとつに昭和十七年十二月から十八年二月ごろまでの間、もうひとつは昭和十八年の五月か六月、この期に科学者・仁科芳雄は、本来科学者としてみるのなら「原子爆弾など徹底、今次の戦争ではできない」と考えていた。前述したように、戦後になって仁科は、「日本にはウランがないからできるわけがない」と言っていたが、それはこのふたつの期間でも本心であったはずだ。-略-」
科学者の世界は閉鎖社会。
日本のどこに解放された社会があるのか? ボクは知らない……。
裕福な家庭の子弟。下「」引用。
「たとえばこのころの理研では、特に仁科研究室にいる原子物理学者を始め、有力な若手研究者たちはいずれも裕福な家庭の子弟が多かったという。頭脳に秀でているうえに、経済的にも困っていない家庭の子息だからこそ、本来ならすぐに実利に結びつかない原子物理学に取り組めたのだろう。それが戦争という時代にあって、突然、彼らの向き合っていた学問が「兵器」としての脚光を浴びることになった。」
ドイツではなく日本に……。下「」引用。
「ドイツではなく日本に投下したいという政治・軍事指導者、自らの学問的成果を確認するためにとにかく投下したいと考える原子物理学者、加えて二十世紀後半までの歴史が抱えていた民族的感情も、投下に到るプロセスの理由であることを知っておく必要があるだろう。」
チャーチル。下「」引用。
「原爆投下後はさり気なく日本の敗因にすり替えたのだが、そこにチャーチル自身の「原爆投下の責任を負いたくない」との思惑が見え隠れしている。その言い替えは、第一次世界大戦で海軍相を体験したチャーチルらしい言である。日本は海軍力ですでにアメリカ、イギリスに敗けていて、原爆投下が勝利につながったなどという論は、それほどの意味はないと指摘しているのだ。」
戦犯……。下「」引用。
「さらに長岡半太郎は「原爆製造計画」により戦犯に擬せられる一幕もあった。門外漢には、「ニ号研究」や「F号研究」など原爆製造開発に関わる研究は許さないとの示達のように思える。」
index
INDEX
INDEX