磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

〈長崎の原爆シリーズ第6巻〉 あの子らの碑

2006年08月31日 | 読書日記など
『〈長崎の原爆シリーズ第6巻〉
   あの子らの碑』
    坂口便・作/村上新一郎・画/
      あらき書店s57年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「平和への願いをほこめて贈る 長崎の原爆シリーズ第6弾
山里小学校の石碑、それはただもえあがる炎の中にひとりの
少女が両手を固く胸の前に合わせて合唱しているのです。
−泣くこともできないナガサキの子どもたち、この悲しみをだれが聞けばいいのでしょうか。−」



あの子らの碑」は子どもが上で遊んでも安全なようにと永井隆博士は考えられていたようです。


如己堂で、病床にいる永井博士。

そこに泉広人(いずみひろと)という学校の先生が訪問。

最初の日は調子が悪そうで、泉先生は帰ります。

そして二回目、ユーモアを交えながら、
永井博士と話す。


そして、永井博士は提案。下「」引用。

「−−原爆のひどさは、まだ国民にはのみこめていないようですね。原子兵器や近代戦の恐ろしさについても、あんがい知らない人が多いのです。もちろん、じゅうぶんに知らされていないからだともいえます。そこでわたしは思うのですが、原爆を体験して生き残った山里の子どもたちに、その被害のほんとうの姿をつづらせて、一冊の本として世に出したらどうでしょう。ちかごろ、ぼつぼつ原爆の記録が出まわるようになりましたが、子どもの書いたものはまだあまりありません。きっと喜ばれると思いますがねえ……」
 博士は、そこまで言って、ふうっと大きな息をつきました。」


学校に帰り泉先生は、職員会議で提案。
そして、「原子雲の下に生きて」という本を出版。

出版記念会も開かれ、原稿料は子どもたちへ。

それから、「あの子らの碑」をつくる提案を永井博士。

除幕式ははなやかであったようです。

「広島の折づるの会」の人たちから、千羽鶴が贈られてきた話なども書かれてありました。



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J-WAVE来日40周年ザ・ビートルズデイ

2006年08月31日 | 読書日記など


9 : 25 ボニーピンク、今でも口づさまれる曲。すごいです。ヘイ・ジュードがかかると、家に帰らなきゃと思う。学校でその曲がかかっていたという。誰にも口づさめる曲をかかないといけないなあーと思う。マーティンはイン・マイ・ライフの中に一曲参加させてもらい、レコーディングした。ブラック・バードがいいというと、マーティンもボニー・ピンクには合っているといい、用意していたという。一番の思い出の曲はブラック・バードを選びます。

10 :0 8 愛子登場。小学校四年生の時にきちんときいた。キーホルダーを押すとなるのを持っていたけど、お父さんから「黙ってきけ」と渡されたテープがビートルズだったという。ルーシー・イン・ザ・ダイアモンドをリクエスト。



【笑える投書】
[ビートルズ・ベスト盤]
夜遅くまでかかって、ビートルズのベスト盤をつくったという友が、90分のを渡してくれた。ベスト盤で90分かよ! それならコンプリート盤だろう? *しかし、ビートルズならそうなるのも仕方がないね。(^○^)

でも、赤箱、青箱もベスト盤だったと思うけど……。(-_-;)


【自慢の投書】
[黄金の右手]
小学生のとき、軽井沢でジョン・レノン一家にあって、握手をしてもらったという。避暑地のルールとして子どもでも、写真は頼めなかったという。

【素敵なフレーズ】
「何十年も新曲だしていないのに この人気」


【ビートルズはじめて物語】
・ライブでモニターをはじめて使用したのもザ・ビートルズ。
観客の声で聞こえないので、自分たちに向けたスピーカーが必要だった。
・ヘビメタも、プログレもザ・ビートルズが最初。
・ジャーンという無意味な音!? ハードディズの曲の最初の音。
あれをリフというそうだが、それを始めたのはジョン・レノン。
・スタジアムで公演したのもビートルズが最初。


【NHKの番組を宣伝】
・テレビマンユニオンという制作会社のディレクターが出演。
・BS2の番組。
・ビートルズという存在が大きすぎて、
語れないという方が多く出演拒否されたという。

くるり登場】
・スウィングしているいいバンド。
・ビートルズはタイバンしたくないバンド。
 「われわれはバイキンです」
・いかりや長介のベースがジョンのギターにぶつかった。
 長さんも羨ましいし、ジョンさんも羨ましい。
 くるりはドリフのファンでもある。

GOING UNDER GROUNDの松本素生(Vo&Gt)】
・ジョン・レノンの服装が格好いいと思った。眼鏡ありだろう。
・ジョン・レノンになりたくって、髪形やヒゲを伸ばしたりした。
 しかし、似合わなかったので、今のスタイルになった。
・15歳でゴーイングをつくった。
 ビートルズのコピーされたものをさらにコピーしていた。
・ジョン・レノンがギターを持って歌っていたのを見て、
 かっこいいと思った。
【生演奏・一ふし】
・ストロベリーフィールズ
[磯野鱧男・感想]なかなか上手。歌いこんでます。
・おやじから青盤をもらった。

【ビートルズ・トリビア1966】
第1位志村けんは学校を休み観客席にいた。
他にドリフのボーカルは仲本工事だった。

BEAT CRUSADERS
【生演奏】
・インスタント・カーマ(ジョン・レノンの曲)
 ツィン・ギター!? がよかった。(^^)




[ドリフをよく思いだすザ・ビートルズ]
NHK番組だったと思うけど、ルームサービスの係の方が、窓をふき掃除しているとき、手がでると、外にいる人たちの「キャー!」という叫び声がしたそうです。何か、ドリフのコントのようで、大笑いしてしまいました。





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原爆瓦 世界史をつくる十代たち

2006年08月31日 | 読書日記など
『原爆瓦 世界史をつくる十代たち』
   山口勇子・著/汐文社1982年

原爆瓦をつくってみようという新聞記事を読んだ記憶があります。
そのずっと前に、こんな本を書かれていたようです。



1982年2月11日、「第五回広島県高校生平和ゼミナール(平和学校)」第二日目の大亀先生による理科の授業。

場所は広島市福島西隣保館の一室。下「」引用。

「これから始まる実験、それは原爆瓦を作る実験なのだ。これまでもこの実験は、少数の生徒を対象として行なわれたことは何回かある。しかし、今回は平和学校の授業として初めて取り上げられたのだ。
「こんな簡単なこと、実験の中にも入らんと思うがねえ」
 お兄さん先生はいくら照れくさそうだが、どうしてなかなか。原爆の熱線による瓦の瞬間の変化が、いまこの目の前で再現されようとしているのだから。」


熱量をもとめる計算。見当もつかない数字となったという。

作者の被爆と原爆瓦のことが書かれていました。
爆心地から10キロ離れた疎開先で原爆を見たという。
そして、翌日、両親のいる広島市へ。
靴底が溶けて、瓦の破片がくっついたという。
そして、両親の死……。
原爆瓦をみると、当時のことを思い起こされたようです。


福田首相に250通の手紙が送られたという。
それは1981年8月6日、ノーベル平和賞受賞者・ノエルベーカーを招いたとき、中学生に何ができるかと質問。

ノエルベーカーはこう答えたという。下「」引用。

「総理大臣に、国連に出かけて、核兵器廃絶を訴えてほしいと、手紙を書きなさい」



長崎市に出向いたときも、原爆瓦を捜しておられます。下「」引用。

「「やっぱり川にあるのかしら」
「広島は川の町、長崎は坂の町、じゃから掘るのは坂道か」
 冗談半分のことばが、あたったのだ。坂道ではなかったが、道端で掘りあてたのである。分科会を終えて爆心地の松山町、市営陸上競技場に行った。その外側の空地で、広島で掘り馴染んでよく知っている、あのぶつぶつの褐色のかけらをみつけたのだ。」


ボクの祖父は瓦屋でした。
名前ではなく屋号で呼ぶ地方だったので、
「瓦屋」と呼ばれていたそうです。
しかし、自宅は藁葺き屋根でした。


平成2年8月5日、NHKで「ひろしまこの人〜それは原爆瓦から始まった・大亀信行〜」というのが放送。





【関連サイト記事】
YMCA原爆瓦記念柱碑(広島県高校生平和ゼミナール・鎮魂碑)
<原爆犠牲ヒロシマの碑>
第13回ドキュメンタリー大賞
長崎原爆資料館 被災資料 貸出し




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166それは人々の生活にふりかかってきた……

2006年08月31日 | Ra.
ラヂオアクティヴィティ[Ra.]
第二部・国境なき恐怖

十一、チェルノブイリ・クライシス

166それは人々の生活にふりかかってきた……



レポーターの顔が画面に映っている。
「原発の職員たちは、このことを極秘にすることを強制されました。それは、家族にさえ話してはならないという命令だったのです。自分の子どもが外で遊んでいても、注意することさえできなかったのです」

学校の写真が画面にうつる。楽しそうな子どもたち。
「学校では、とても良い天気で、窓という窓をすべて開け放っていたが、十時前後には閉めてしまった。生徒にヨード剤が配られ、それを飲んだ子が吐きもどす騒ぎもありました。ある女の子は、父親が発電所で死んだと友だちから知らされて泣きだしました」

暗い病室が映っている。そして中年女性が話し出す。
「ある母親は、いまでも最も許せないと思うのは、事故のあった二十六日朝、プリピャチ市の指導者が、事故はありませんでしたと、子供たちを登校させて授業を続けさせたことですと話した。教師の一人が、事故の影響を心配して、子供たちにマスクをつけさせようとしたら、学校長がこれをやめさせたともいう話しもあります」

街の風景。

「若い母親が赤ん坊を乳母車に乗せ、小さな子どもが砂場で遊んでいた。アリョーナが自分のアパートの角までくると、バルコニーで洗濯物を干している母親の姿が見えました」

結婚式の写真。

「その日の午後おそく、ベン博士はまた川向こうをながめ、橋の近くのカフェに視線を落としました。若い花嫁花婿が家族や友人にかこまれてすわり、結婚祝いをしていました。ベンは病院を抜けだして、川を渡ってカフェに行き、放射線を被曝しないように警告した。若い二人は微笑んだ。そして、澄みきった青空、あたたかな太陽、ゆるやかな流れる川を見ました。ベンは「危険ですよ」とくりかえしてから、駆け足で病院にもどりました。病棟の二階の窓からもういちど見おろすと、まだ結婚祝いの宴会が続いていて、みんなは歓声をあげながら幸せなカップルに乾杯していたという」

画面にバスが何台も農村を走っている。もうフィルムは古い感じだ。

「プリピャチ市民の避難のために、千二百台のバスが必要ということになった。そのほか、二百台のトラックと救急車も必要でした。避難の広報がラジオであったのは十二時、その時、委員が人々に忠告したのは、この退避は三日間だけで、よぶんな荷物はもたなくていい、三日間の食べ物と身のまわりのものだけでよろしい、ということでした。この布告は四回出されました。しかし、そこは人の住むところではなくなっていたのです」

非難勧告され、あわてている様子をテレビ画面では映し出している。

「避難の遅れが、決定的な痕跡を子どもたちの体に残すことになったのです。なんと、市内の放射線量が最悪状態の時に、避難が決行されることになったのです。前日の四月二十六日早朝、プリピャチ市上空を放射能の雲が通過していったのです。この放射能はあまりにも強烈で、ほとんど測定不可能だったと、Z・メドベジェーフは述べます。ソ連の報告書では午前九時の市内の放射線量は、高いところでは毎時百四十ミリレントゲンでした。しかし、この値でさえ実に東京の一万四千倍なのです。この線量だと、まだ緊急避難は必要ないというのが、医療部会の意見でした。しかし実際には、避難命令を出すべきはこの時点でした。風はひんぱんに向きと強さをかえ、プリピャチ市の放射線量は急激に増加し始めました。そして避難が開始された四月二十七日の午前七時には、放射線量は百八十から六百ミリレンドケンとなり、午後二時には放射線量は最高値を示し、毎時一レントゲンを超えたのです」

放射能を測定しているだけでは、避難はうまくできないのである。予測をたてることも重要なことだと視聴者は思った。

「こうして避難は「放射線エアロゾルが市内をおおっているという最悪の条件下で実施されたのです。だれもが放射性の『ホット・パーティクル(放射線核種)』が浸透している空気を、いやというほど吸わされるという結果になったのです。かりにその朝早く避難が実施されていたならば、市民の健康障害がはるかに軽度ですんだであろうことは明らかです。とくにリスクが高かったのは、子どもと妊産婦だったといいます」

画面には、子どもや妊婦が、足取りも重く避難している様子。

「そして、避難させられた先というのは、プリピャチ市に比べて汚染が低いというわけでもないところでした。バスの中にいても、すき間だらけで道も悪かったため、避難先に着くまでにたくさんのほこりを全身にあびてしまいました。人々が避難先に落ち着いたのは、二十八日の午前二時ぐらいだったと聞きます」
画面では、埃が日の光でただよっている。そして、疲労困ぱいした人物が映る。

「バスで逃げた人たちは、どうだったのでしょう。かなりの人間の腕や足、全身に現われはじめた紫色の斑点に恐怖を覚えはじめました。血液が体内で破壊され、皮膚にそのおそろしい症状が映し出されたのです。髪が抜け、体のあちこちに異常な出血を起こしていたのです。ある男性は耳に、ある女性は歯茎に、ある子どもは全身に、不気味な出血が見られました。なかでも内臓の出血が最も顕著で、これが彼らの衣服を汚していたのです。それを我慢し続け、誰もが他人に気づかれないように必死で隠していたのです。ほとんどの者が、同じように肌を刺す痛みにこらえ、目がまわるような吐き気に襲われていたのです。乗るバスは年齢によって選別され、バスは途中でとまると、様態の悪いものと、そうでないものとに選別されました。様態の深刻な子どもたちでさえ、親から離されていたのです」








閑話休題

だれが、こんなことが起きると予期していたことでしょうね。

彼らにとっては、ついになってしまったのです。

「ヒロシマは、わたしたちの未来だ」という
言葉が現実となったのです。

そして、今では「チェルノブイリは私の未来」と
語る人たちもいます。







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〈長崎の原爆シリーズ第5巻〉土のなかの顔

2006年08月30日 | 読書日記など
『〈長崎の原爆シリーズ第5巻〉
   土のなかの顔』
    坂口便・作/村上新一郎・画/
       あらき書店s57年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「平和への願いをこめて贈る 長崎の原爆シリーズ第五弾
おかあさんを焼いたあと地…その黒い土のなかに、ほうっと
おかあさんの顔が浮いて見えました。「おかあさん…」
−泣くこともできないナガサキの子どもたち、この悲しみをだれが聞けばいいのでしょうか。−」



小さなタイトルは「一 死の運動場」です。
まさに、そんな感じです。

先生たちも亡くなられています。
最初の日は六人で、8月20日までに26人が亡くなられたようです。

“ヴィンセンシオ会”というのは永井隆博士も入会されていたと思います。下「」引用。

「中川さんは、おばあちゃんから壕の中の話を聞くと、すぐに自分の壕からお湯のみやいくらかの食物を持ってきてくれたり、どこからか古ダタミを運んできてくれたりしました。
 家を焼かれた碑とは壕の中で暮さねばなりませんでしたから、土の上にじかにいるよりタタミ一枚でもあったほうが、とてもありがたいことでした。中川さんがこんな親切だったのは、心のやさしいヴィンセシオ会という“キリストの教えを固く守って、貧しい人々のために奉仕する会”にはいっていたからでもありましょう。」


神を信じている人たちが、このようであればボクでも理解できます。神のために戦争をおこさないといけないという方々は理解できません。

母親を焼いた所で遊んでいる上級生。
孝一はその上級生たちに向っていきます。
しかし、ひどいめにあわされます。
悲しい思いでいっぱいになったことでしょう。下「」引用。

「じっと見つめていると、その黒い土のなかに、ぼうっとおかあさんの顔が浮いて見えました。
「おかあさん……」
 孝一の眼の底からまた、熱いものがこみ上げてきました。」



「土の中の顔」作詞・さかぐちたより(坂口便)の詩に曲をつけて歌っておられます。
「長崎平和フォーラム」






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