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戦没画家靉光の生涯-ドロでだって絵は描ける-

2009年12月03日 | 読書日記など
『戦没画家靉光の生涯-ドロでだって絵は描ける-』
    窪島誠一郎・著/新日本出版社2008年

「あとがき」に書かれてあります。下「」引用。

「この本の前半は、すでに絶版になっている講談社現代新書『わが愛する夭折画家たち』(一九九二年刊)に書いた文章を大幅に手直しし、あらためて一本の「靉光伝」にまとめたものである。また、あとの半分の「夢しぐれ東長崎バイフー寮」は、一九九四年に劇団水曜座が初演し、つい先ごろ劇団文化座の手によって再演された演劇台本を、そのまま収録したものである。-略-」



本名と……。下「」引用。

「靉光--アイコウともアイミツともよまれるこの画家の本名は石村日郎(にちろう)といって、一九○七(明治四十)年六月二十四日広島県山縣郡壬生(みぶ)町に生まれ、大阪の天彩画塾に学んだのち上京、井上長三郎や野村守夫ら同時代の画家がかよう太平洋画会研究所に入所した。-略-」

孤高の画家……。下「」引用。

「総じて靉光という画家が(あるいはその絵が)、当時の画壇や社会のなかできわめて孤高の位置にあったことに不同意の人は寡(すく)ないようだ。」

差別があるからと言われても「靉光」と名乗った。下「」引用。

「もっとも、当の井上長三郎は、靉光が「アイコウ」(「アイミツ」)と名のることには反対だったそうで、その雅号が差別のきびしかった中国や朝鮮の人とまちがわれることをおそれていたという。
 げんに、画家の古賀春江(はるえ)が何かの展覧会で靉光の名をみて
「あれは支那人の画家か」
 と問うたという話は有名である。-略-」

「ドロでだって絵は描ける」 下「」引用。

「それにしても、「ドロでだって絵は描ける」とは何という靉光らしい言葉か。
 あれほど色彩、画肌には神経をすりへらしていた靉光が、反面、絵画というものに絵の具の効果だけではない、もっと自由な素材による可能性をみいだしていたというあかしだった。同時にその言葉は、絵というものが素材の選択や技法によってのみえがかれるのではなく、もっとふかい人間の内面性と造形性によって表現されるものだという信念をしめしたともいえる。げんに靉光は、ロウ画の発案、宋元画、水墨画への傾倒、中国画の模写などをつうじて、数多くの素材の研究や画法の開拓をおこなっている。そういう学習によって靉光は、たんに「洋画」というせまい領域にとらわれない多様な「絵画」の体得をめざしていたのである。
 そして、「ドロでだって絵は描ける」は、いたずらに絵の具の買いだめにはしる画家たちの油絵主義へにの反撥であり、当時にその時代における自らのきびしい作画姿勢のアッピールともいえる言葉だったのかもしれない。」

妥協できないことが死を早めた……。下「」引用。

「靉光さんが、もう少し世間と妥協の出来る性質の人だったら、或は死なずにすんでいたかも知れない。私もそうだが、その病院の中でさえ、まだ戦中の軍の秩序が温存され、上官の前には、皆が機嫌とりとお世辞を忘れなかった。また、そういうことで、結託していた。靉光さんは徹底そんなな真似の出来る人ではないし、また〈そんなことは終戦と共に了った筈だ〉という意識があったのではないかと想像する。だが、その意識はたちまち相手の反感を買い、それが靉光さんに撥ね返って、絶食療法という、こんな時の軍隊得意の方法を強いられて、彼は餓死せざるを得なかったのだ。」

戯曲「夢しぐれ東長崎バイフー寮--ドロでだって絵は描ける」が掲載されていた。












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