最近気がついたのだけど、私がむかし中国語(北京語)を学んだとき、
感覚的には、ピアノの練習の延長だったように思える。
日本語にはない発音を覚える時は、
耳で聞いて、口や舌のかたちをつくって、出してみる。
ひたすら聴いて、音を出す。
そして、中国語特有の声調を練習するとき、
どうしてもイントネーションがつかめない場合、
そういえば、自分なりの五線譜におとして練習した。
「ここは、ミファのスラー」といったように。
そのおかげか、中国語の覚えは、比較的よかったような気がする。
ところが、広東語をやってみたとき、
楽譜になおすと、半音が多くて、追いつかなくなった。
しかも、言語の印象や文脈は「長調」なのに、
なぜか音の流れは「短調」のオチがあることがあって、
なんだか、気持ちがモヤモヤした。
もしかしたら、広東語を挫折した理由はそれかもしれない。
英語はもとより、文字から学習がスタートしたからヤル気がなかった。
アルファベットなんて、造形的にしびれるほど美しいわけではないのだから、
読む、書く、からスタートしたら、面白くなくて当然だ。
やっぱり言語は、耳と口からスタートしなければ。
感覚的には、ピアノの練習の延長だったように思える。
日本語にはない発音を覚える時は、
耳で聞いて、口や舌のかたちをつくって、出してみる。
ひたすら聴いて、音を出す。
そして、中国語特有の声調を練習するとき、
どうしてもイントネーションがつかめない場合、
そういえば、自分なりの五線譜におとして練習した。
「ここは、ミファのスラー」といったように。
そのおかげか、中国語の覚えは、比較的よかったような気がする。
ところが、広東語をやってみたとき、
楽譜になおすと、半音が多くて、追いつかなくなった。
しかも、言語の印象や文脈は「長調」なのに、
なぜか音の流れは「短調」のオチがあることがあって、
なんだか、気持ちがモヤモヤした。
もしかしたら、広東語を挫折した理由はそれかもしれない。
英語はもとより、文字から学習がスタートしたからヤル気がなかった。
アルファベットなんて、造形的にしびれるほど美しいわけではないのだから、
読む、書く、からスタートしたら、面白くなくて当然だ。
やっぱり言語は、耳と口からスタートしなければ。