スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

品川寺(ほうせんじ)

2012-09-27 23:40:00 | まち歩き

品川寺 (ほんせんじ)は、東京都品川区南品川三丁目 にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は海照山。本尊は水月観音と聖観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第31番である。

すでに巨大なお地蔵さまが見えます。

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江戸六地蔵の第一番目のお地蔵さまだそうです。

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歴史

寺伝によると、弘法大師 空海を開山とし、大同年間 (806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457 年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立さ れ、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃す るが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興さ れ、現在の寺号となった。スイスジュネーヴ市と深い 縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地 蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。

明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将 軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出す る。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867 年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝える が、その後所在不明となっていた。大正8年(1919 年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイ ス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されている ことを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原 喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議 会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930 年)、同市の好意により品川寺に返還された。平成3 年(1991年)には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵 鐘が贈られた。品川区とジュネーヴ市は平成3年に友 好都市となったが、交流の契機となったのはこの梵鐘 である。

山門

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山門をくぐると右手に大きな銀杏の木があります。銀杏がたくさん実っていました。

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本殿

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梵鐘

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荏原神社(東京都品川区)

2012-09-27 23:00:00 | まち歩き

荏原神社(えばらじんじゃ)は、 東京都品川区北品川にある神社である。旧社格は元准勅祭社。郷社。旧称を天王社、貴布彌大明神という。荏原神社は「南の天王」と呼ばれる [1] 。また東海七福神の中の1社とし て恵比須を祀る。

祭神

以下の5柱の神を祀る。

右座 豊受姫之神 右座 天照皇大神 右座 須佐男之尊 中央 高龗神 左座 手力雄之尊

和銅2年(709年)9月9日、 大和国丹生川上神社より 高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに 始まる。

長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大 神を勧請。

宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛 頭天王を勧請。

康平5年(1062年)、源頼義・義家は奥州安倍氏征伐 に際し当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を 浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職 は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行 う)。

以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を 受け、品川の総鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷 座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじん じゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。

明治元年(1868年)勅祭社に准ぜられた(准勅祭社と いう)が、同3年改めて郷社に列した。

明治8年、品川貴船社の名を改めて、 荏原郡の名をつ けて「荏原神社」に改称。

荏原神社は初めて訪れました。

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鎮守橋

歩いてきた方角からだと遠回りになりますが鎮守橋を渡ってから境内へ行くことにしました。

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なんとなく川の流れが昔と変わったから橋の位置が神社の位置が鎮守橋真正面にならなかったのかな?と感じました。

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鳥居

あれ?どなたかいらっしゃる~。

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恵比寿さまじゃないですか。

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手水舎

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拝殿

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狛犬

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彫刻も立派です。

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舞台周辺で工事が行われていて近寄れませんでした。

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品川神社~その3~「品川富士」

2012-09-27 22:00:00 | 富士塚

富士塚No.18

品川神社の一の鳥居をくぐり階段を上がると中腹左手に富士塚への登山道があります。この富士塚は私が初めて登った富士塚であり、富士塚というものを知ったきっかけになった富士塚です。

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登山道入口右口に猿田彦神社があります。

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二合目には石像があります。身禄行者でしょうか?

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それでは登山道を行きます。え~、すでに一合目~三合目が見えます。

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三、四、五合目まで見えます。ここを登り終えると五合目は本物の富士山が駐車場になっているようにひとまず平になっています。

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そして、六合目からは険しくなります。とはいっても九合目まで見えています。

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ちなみに五合目から山頂を見上げる冨士塚どくとくの石碑があります。また階段なしでは道具を使わないとまず登れないでしょう。

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山頂に辿りつきました。 山頂はコンクリートで平らに固められていて結構な広さです。 目の前には京急に高架橋で電車が行きかいます。

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遠くにはレインボーブリッジが見えます。

眼下には道路があり車が行きかい、人が歩いているのが小さく見えます。

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登ってきた登山道です。落ちたら大変です・・・。
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中腹を見ると祠があります。         Dscf2494_360x270

品川神社の境内を見下ろします。左手に見えるのは浅間神社です。

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それでは下山します。こちらもまた急な階段となっています。

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無事、下山しました。

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裏側へ回りました。五合目の平地です。富士登山の石碑があります。

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ぶじかえる・・・無事帰る?洒落ですか・・・(汗)。はい、無事に下山できました。

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そして富士塚の裏側にある浅間神社に参拝しました。

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帰りに京急の電車の中から撮影してみましたが逆光のうえ、電車は走っているので下手くそな私はうまく撮影できませんでした。

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品川神社~その2~ 「阿那稲荷神社、清滝弁財天」

2012-09-26 23:00:00 | まち歩き

さて、ここでは品川神社の末社である阿那稲荷神社と清滝弁財天をご紹介したいと思います。品川神社拝殿の右側に鳥居が並びます。

阿那稲荷神社上社

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どちらのお稲荷さまも結構な確立で奥に参道が続き、不思議な別の空間へ行くような感覚になるのは私だけでしょうか?こちらも右側へ参道が続きさらに折れて進めます。右側に小さな祠がありました。

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阿那稲荷神社の下社。中に入ると清滝弁財天もあります。

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左手に阿那稲荷神社があり奥には出口が・・・また奥へ続くのかと思いきや行き止まりでした。

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そして一番気になったのがこちら「一粒萬倍の泉」。

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  品川神社の境内には、”恵みの霊”を祀る阿那稲 荷神社があります。阿那稲荷神社は上社・下社の二 社制をとり、上社には「天の恵みの霊」が、下社に は「地の恵みの霊」が祀られています。 その下社には、「一粒萬倍の泉」と呼ばれる霊水 が湧いています。この霊水でお金や印鑑を洗った り、この水を持ち帰ってお店や家の入口、四隅に注 いだりすると商売繁盛すると言い伝えられています。葵の御紋が刻まれていますね。とりあえず財布の中の小銭を洗ってみました(笑)。


品川神社~その1~

2012-09-26 22:00:00 | まち歩き

社号 品川神社

祭神 天比理乃咩命

配祀 素盞嗚尊、宇賀之売命

立派な鳥居です。ちなみに秋の全国交通安全運動実施中です。

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急な階段です。気を付けて登らないと大変なことになりそうです。

ちなみに交通安全にも気を付けましょう!
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入口左には大黒様がいらっしゃいます。

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階段を上り境内へ。鳥居がいくつもあります。
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舞殿
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拝殿

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狛犬
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末社 阿那稲荷社、御嶽神社、清滝弁財天社、浅間神社、猿田彦神社

御嶽神社

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祖霊社
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例祭日 6月7日に近い金曜~日曜日

住所 品川区北品川3-7-15

備考 元准勅祭社、東京十社、郷社、東海七福神の大黒天

由緒

社伝によれば、後鳥羽天皇の文治3年(1185)に 源頼朝が安房国州崎明神を勧請した。 元応(1319)当国の守護二階堂出羽入道道蘊 が、当社の神威を感じて本社を新たに造立した。 応永年中(1394)当郷の住人鈴木正清入道幸純 が当社を深く崇敬して、永享4年(1429)社殿の 造営を行った。 長禄年中(1457)太田道灌が江戸城に入り、文 明10年(1478)6月に、自ら牛頭天王を勧請し て神事を怠慢なくつづけた。 後北条氏も崇敬し、数度にわたり修理を加えら れた。 天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸城に入 り、翌19年11月品川大明神へ5石の朱印社領地 を賜った。後に南貴船社(荏原神社)と朱印争い をおこし、2石5斗ずつに分けたのである。 寛永14年(1637)に東海寺建立のとき、当社地 の内南の方が御用地となり、代替地1813坪を門 前地として賜った。其の時、東海寺の鬼門にあた る為、同寺鎮守となり、以来本社以下神主宅まで 幕府によって修造され幕末に至った。 現在元禄7年焼失の時、造営奉行戸田能登守忠直 が、社伝等悉く造営した。社前に建てた制札が残されている。(品川区の文化財より)

なお、こちらには板垣退助のお墓があります。神道でお葬式をあげたのでしょうか?
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