豪徳寺を出てから世田谷線沿線を散策してみることにしました。
まず向かったのが世田谷八幡宮です。
所在地:東京都世田谷区宮坂1−23−20
概要
源義家が11世紀後半の後三年の役の勝利を祝って創建したと伝えられ、のち天生5年(1587)に世田谷城主七代目の吉良頼康が再興した。ここの奉納相撲は「江戸三大相撲」のひとつといわれ、現在も秋季大祭に行われている。
世田谷八幡宮鳥居
世田谷八幡宮拝殿
世田谷八幡宮神楽殿
世田谷八幡宮厳島神社
世田谷八幡宮相撲土俵
こちらが概要にあった土俵です。私も上がってシコを踏んでみました。
ハゲだから髷が結えないか・・・涙。
さて、世田谷八幡宮から南に少しあるくと勝光院があります。
延命山 勝光院
所在地:東京都世田谷区桜1−26−35
概要
勝光院は初め金谿山竜凰寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同10年客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
同19年、徳川家康から寺領30石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千手観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。(世田谷区教育委員会掲示より)
勝光院山門
門の左右には立派な木が2本立っています。
勝光院本堂
勝光院梵鐘
本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。
梵鐘の形姿は、優美で均整がとり、各地に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
本梵鐘は、吉高いの力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この次期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。
近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は貴重な遺品である。(世田谷区教育委員会掲示より)
勝光院客殿
吉良家墓所
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。(世田谷区教育委員会掲示より)
吉良氏とは忠臣蔵の吉良上野介と関係があるんだろうな~と思いながらその吉良氏のお城跡である世田谷城跡公園へ歩きました。
所在地:東京都世田谷区豪徳寺2−14−1
概要
世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであると言われています。
以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたため、廃城となりました。
世田谷区教育委員会掲示板
空堀を上から眺める。
空堀を歩いてみる。昔はもっと広いお城だったんでしょうね。
むむっ!蚊がいる。気を付けなくては・・・。
そして次にやってきたのが世田谷代官屋敷。
所在地:東京都世田谷区世田谷1−29−18
世田谷代官屋敷表門
表門からは入れず左側の入口から入ると立派な巨木、たぶの木(樹齢二百年)がありました。
概要
世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以降、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、昭和27年11月3日「都史跡」に指定されました。同時に同家所蔵の古文書は一括して「都重宝(現在都指定有形文化財)」に指定されています。
母屋正面
土間から室内を見る。
庭先
母屋南側
2階建てなんですね。
季節がら金木犀の香りがただよっていました。この他にもさまざまな植物が植えられていました。
白州跡
こちらでお代官さまが罪人等を吟味したり、人々の訴え聞いたのででしょう?
白州通用門
このあと松陰神社へ向かいました。