スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

東急世田谷線沿線を歴史散策

2014-09-30 22:04:25 | まち歩き

豪徳寺を出てから世田谷線沿線を散策してみることにしました。

まず向かったのが世田谷八幡宮です。

所在地:東京都世田谷区宮坂1−23−20

概要

源義家が11世紀後半の後三年の役の勝利を祝って創建したと伝えられ、のち天生5年(1587)に世田谷城主七代目の吉良頼康が再興した。ここの奉納相撲は「江戸三大相撲」のひとつといわれ、現在も秋季大祭に行われている。

世田谷八幡宮鳥居

世田谷八幡宮拝殿

世田谷八幡宮神楽殿

世田谷八幡宮厳島神社

世田谷八幡宮相撲土俵

こちらが概要にあった土俵です。私も上がってシコを踏んでみました。

ハゲだから髷が結えないか・・・涙。

さて、世田谷八幡宮から南に少しあるくと勝光院があります。

延命山 勝光院

所在地:東京都世田谷区桜1−26−35

概要


勝光院は初め金谿山竜凰寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同10年客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
同19年、徳川家康から寺領30石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千手観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。(世田谷区教育委員会掲示より)

勝光院山門

門の左右には立派な木が2本立っています。

勝光院本堂

勝光院梵鐘

本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。
梵鐘の形姿は、優美で均整がとり、各地に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
本梵鐘は、吉高いの力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この次期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。
近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は貴重な遺品である。(世田谷区教育委員会掲示より)

勝光院客殿

吉良家墓所

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。(世田谷区教育委員会掲示より)

吉良氏とは忠臣蔵の吉良上野介と関係があるんだろうな~と思いながらその吉良氏のお城跡である世田谷城跡公園へ歩きました。

所在地:東京都世田谷区豪徳寺2−14−1

概要

世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであると言われています。
以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたため、廃城となりました。

世田谷区教育委員会掲示板

空堀を上から眺める。

空堀を歩いてみる。昔はもっと広いお城だったんでしょうね。

むむっ!蚊がいる。気を付けなくては・・・。

そして次にやってきたのが世田谷代官屋敷。

所在地:東京都世田谷区世田谷1−29−18

世田谷代官屋敷表門

表門からは入れず左側の入口から入ると立派な巨木、たぶの木(樹齢二百年)がありました。

概要

世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以降、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、昭和27年11月3日「都史跡」に指定されました。同時に同家所蔵の古文書は一括して「都重宝(現在都指定有形文化財)」に指定されています。

母屋正面

土間から室内を見る。

庭先

母屋南側

2階建てなんですね。

季節がら金木犀の香りがただよっていました。この他にもさまざまな植物が植えられていました。

白州跡

こちらでお代官さまが罪人等を吟味したり、人々の訴え聞いたのででしょう?

白州通用門

このあと松陰神社へ向かいました。


大谿山 豪徳寺

2014-09-28 22:50:37 | まち歩き

今日は先日観た映画「柘榴坂の仇討」にも登場し、桜田門外の変で暗殺された第十三代彦根藩主井伊掃部守直弼のお墓がある世田谷区にある「大谿山 豪徳寺」を訪れてみました。

所在地:世田谷区豪徳寺2-24-7

概要

 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山門奄宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝靡印塔が残されている。(世田谷区教育委員会掲示より) 

豪徳寺山門

山門をくぐると楓の木が目立ちました。秋も深まると紅葉がとてもきれいだとお寺の方に教えていただきました。

豪徳寺仏殿

豪徳寺梵鐘

延宝七年に完成して今日まで移動せずに当寺に伝えれてきたそうです。

豪徳寺東門

豪徳寺書院

豪徳寺本堂

招き猫の看板がありますね。足元には石で出来た招き猫がありました。

私もせっかくなので一番小さな豆サイズの招き猫を買いました。

松福庵(招福庵)の向かって右側にあった赤い門。

初代藩主である井伊直孝は飼い猫によって当寺へ招き入れたという招き猫の伝説があり、この飼い猫は松福庵(招福庵)に祀られています。

松福庵(招福庵)

うわ~、たくさんの招き猫ですね~。願いが叶うとこちらに奉納するんだそうです。

いったい、何匹奉納されているんでしょうか?

ちなみに彦根城のご当地キャラ、ひこにゃんのモデルです。

豪徳寺にもはるばるやって来たらしく写真が飾られていました。

豪徳寺三重塔

な~んと、なんと、中腹には仏様と招き猫が祀られています~。

そして彦根藩主井伊家墓所へ向かいました。こちらは国指定史跡です。

画像左の説明文を打ち込もうかと思ったのですが最初の掲示版の解説文を打ち込むので力尽きました・・・(苦笑)。歴代藩主、正室、世子、側室のお墓が並びます。

都史跡 伊井直弼墓 東京都教育委員会掲示板

こちらが第十三代彦根藩主井伊掃部守直弼墓。

映画「柘榴坂の仇討」ではうぐいすの鳴き声を黙って待つなど「ちゃかぽん」とあだ名されていたように風流人のように描かれていた感が強かったです。

今の世の中をどう思われ眠られているのでしょうか?

豪徳寺を出たあと近隣の史跡を巡ってみました。 

 


幸手権現堂桜堤「第9回曼珠沙華祭り」2014.9.26

2014-09-26 22:28:01 | 季節の花

今日は埼玉県幸手市にある権現堂桜堤へ行ってきました。

関東では桜の名所として有名で約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇り、堤周辺には菜の花が植えられて淡い薄紅色と黄色のコントラストが絶妙で以前から1度行きたいな~と思っていた場所でした。桜や名の花だけでなく1月には水仙、6月にはあじさいも咲き誇るそうです。

そして今日の目的は曼珠沙華です~。

白い曼珠沙華も結構、咲いているのを見かけました。

こちらはピンクの曼珠沙華です。2~3株しか見かけませんでした。

なんでも「鹿児島美人」という品種だそうです。

しかし凄い朱色ですね。ありふれた表現をすれば「じゅうたん」ですね。

黒アゲハが蜜を吸っていました。よく見かけるアゲハ蝶やエメラルドグリーンの羽根をしたアゲハも飛び交っていました。

埼玉県で曼珠沙華といえば以前に記事にしましたが日高市の巾着田が有名ですね。

でも、巾着田は3~4回行ったので違う曼珠沙華の群生地を探したところ、幾つか候補を見つけたのですが今回はこちらへやって来ました。

本数でいうと巾着田の約500万本に比べこちらは約100万本だそうですがそれでもとても見応えがありました。

下から覗き込むように撮影。今日は青空が綺麗で少し暑いくらいで、夏の名残りか蝉たちが鳴いていました。

フジバカマが咲いています。

秋の七草の一つで、万葉の時代から人々に親しまれてきたお花です。

あっ、あとねヤギさんもいましたよ。

なんか・・・どこかでお会いしたことあります?

・・・って誰?(笑)。

お池があり水草が生えています。ホテイアオイとかの仲間ですかね?

薄紫のかわいいお花が咲いていました。

端から端まで約1kmを散策しながら撮影しました。

HPなどでは10月上旬までが見頃とあるようですがもう少し短いかもしれませんのでもし行かれようかと思っていられる方はお早めに足を運ばれたほうがいいかもしれません。


映画「柘榴坂の仇討」

2014-09-23 23:24:38 | 映画

今日は映画「石榴坂の仇」を観てきました。

私の好きな俳優、中井貴一さんが出演されているからです。

気になったのは妻に働かせて自分は主君の仇を13年も探し歩いているわりに中井さん演じる志村金吾はそれほどやつれてはいなかったような・・・。奥さん、小料理屋でがんばったのねん。

雪降る中に一輪の椿。仇討とはいっても静かなお話でした。

 


国営昭和記念公園コスモスまつり2014.9.19

2014-09-22 00:26:55 | 季節の花

gooブログに引っ越し初めて更新してみました。

基本は同じですがやはり編集画面が違いますね。

さて、今日のブログネタは立川市の国営昭和記念公園コスモスまつり2014です。

コスモス畑に行くまでにパンパスグラスが見えてきました。

早くいえばデカいススキです。

コスモス畑へ辿り着きました。

 咲いていたのはこちらハッピーリングという品種のコスモスです。

 オーソドックスなコスモスが咲き始めるのはまだまだこれからのようです。

コスモスと青空を撮影したかったのですがこの日は曇りがちでした。

      

コスモスの次は曼珠沙華が咲いている場所まで歩きました。

道の両脇に咲いています。そういえば我が家のはまだ咲いていないな~。

陽当りの関係ですかね~?

白い曼珠沙華も数輪咲いていました。

      

公園内を歩いていたら赤い萩が咲いていました。今年の開花は例年より少し早かったんですかね~?

引っ越して初めて、更新してみました。画像が思うように貼れないです。

まぁ~だんだんと慣れていけたらよいかと思っていますのでよろしくお願いいたします~。