一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
いつの間にか
いつの間にかたどり着いている。そんなことってありませんか。
私はどんなことをしてもたどり着きたい。越えて向こうに行きたい。そんな思いでがむしゃらにやってきたことが正直なんの達成感もないにも関わらずにいつのまにかたどり着いていたなんてことが多々あります。
確かにそれには毎日の努力を怠らずになんとか一日一日を頑張ってきた結果の上だからそうなったということがあるのですが、あんなにほしくて望んでいた境地がたどり着いてみたらそうでもなかったという「あれ」みたいな部分もあるのも事実です。
これは自分の思いと現実が少しずれているからおこるのかもしれません。
そう考えると「自分が思っているほど自分は悪くなかった」とか反対に「自分が思っているほど自分は良くはなかった」みたいなことが起こっているはずです。
知らず知らずにうちに誰かを傷つけているのかもしれない。いやもしかしたらしらずしらずのうちに誰かを喜ばせていることだってあるはず。
仏教ではお経を上げる前にかならず懺悔文という文句を唱えます。
・私は今まで知ろうと知らずと沢山の罪を犯してきました。それは自分が愚かで間抜けで罪深いからです。この悟ることのできていない自らを戒める為にもここにすべての罪穢れを懺悔させていただきます。
信仰とは懺悔にはじまり感謝に終わるといいます。「助けてください」「どうか願い事を叶えてください」と血のにじむような思いで願い続けていても神仏に届かせるには懺悔と感謝にはかないません。
ただ「いつの間にか」を願うのであれば恰好つけずにがむしゃらになることも必要です。親は優等生の子よりもどこか手のかかる子が愛おしいように神仏もあの手この手なんとかしてくれるはずですから。
私はどんなことをしてもたどり着きたい。越えて向こうに行きたい。そんな思いでがむしゃらにやってきたことが正直なんの達成感もないにも関わらずにいつのまにかたどり着いていたなんてことが多々あります。
確かにそれには毎日の努力を怠らずになんとか一日一日を頑張ってきた結果の上だからそうなったということがあるのですが、あんなにほしくて望んでいた境地がたどり着いてみたらそうでもなかったという「あれ」みたいな部分もあるのも事実です。
これは自分の思いと現実が少しずれているからおこるのかもしれません。
そう考えると「自分が思っているほど自分は悪くなかった」とか反対に「自分が思っているほど自分は良くはなかった」みたいなことが起こっているはずです。
知らず知らずにうちに誰かを傷つけているのかもしれない。いやもしかしたらしらずしらずのうちに誰かを喜ばせていることだってあるはず。
仏教ではお経を上げる前にかならず懺悔文という文句を唱えます。
・私は今まで知ろうと知らずと沢山の罪を犯してきました。それは自分が愚かで間抜けで罪深いからです。この悟ることのできていない自らを戒める為にもここにすべての罪穢れを懺悔させていただきます。
信仰とは懺悔にはじまり感謝に終わるといいます。「助けてください」「どうか願い事を叶えてください」と血のにじむような思いで願い続けていても神仏に届かせるには懺悔と感謝にはかないません。
ただ「いつの間にか」を願うのであれば恰好つけずにがむしゃらになることも必要です。親は優等生の子よりもどこか手のかかる子が愛おしいように神仏もあの手この手なんとかしてくれるはずですから。
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