一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
肉体は借り物
この身体を乗り物と考えるならば「生きろ、生きろ、もっと生きろ」と唱えるべきです。何故なら物体は生気を吹き込むことによって活性化して乗り手である私達とより一体化して思い通りに動くからです。
スポーツ選手も何度も練習を重ねて本番に臨む時にまるで自然に身体が次のリアクションをしっているかのように動くようになります。まさに無の境地です。伝達する側とされる側が感応して無碍の状態になるのです。
もちろん普段の私達の日常でもこの姿勢は大切です。身体に「ダメだ。怠い。つらい。無理だ」と発信してばかりいればもともとそれほどでなくても急激に悪化してしまいます。反対にどう考えてもそんな身体では無理なことも精神の力で医師がおどろくような生命力を発揮することが可能なのです。
靴を新しく買って、今までもう少しはけるだろうと思って我慢して使っていたものと交換すると古い方の靴は急激にボロくなるような気がします。家もどんなあばら家でも人が住んでいればなんとかなりますが、住まなくなればよくこんな家に住んでいたと思うばかりの痛みの激しい屋敷に様変わりするのです。
この肉体も望んで生かそうと使っているかぎりはそうはへこたれないでしょう。しかしまるでどうでもいいように扱えばとたんに具合が悪くなってしまいます。
肉体が自分だと勘違いしているから甘えがおきてしまうのです。自分という魂が今世の修行の為に貸してもらっていると思えばより大切に愛おしく扱うようになるに違いありません。
スポーツ選手も何度も練習を重ねて本番に臨む時にまるで自然に身体が次のリアクションをしっているかのように動くようになります。まさに無の境地です。伝達する側とされる側が感応して無碍の状態になるのです。
もちろん普段の私達の日常でもこの姿勢は大切です。身体に「ダメだ。怠い。つらい。無理だ」と発信してばかりいればもともとそれほどでなくても急激に悪化してしまいます。反対にどう考えてもそんな身体では無理なことも精神の力で医師がおどろくような生命力を発揮することが可能なのです。
靴を新しく買って、今までもう少しはけるだろうと思って我慢して使っていたものと交換すると古い方の靴は急激にボロくなるような気がします。家もどんなあばら家でも人が住んでいればなんとかなりますが、住まなくなればよくこんな家に住んでいたと思うばかりの痛みの激しい屋敷に様変わりするのです。
この肉体も望んで生かそうと使っているかぎりはそうはへこたれないでしょう。しかしまるでどうでもいいように扱えばとたんに具合が悪くなってしまいます。
肉体が自分だと勘違いしているから甘えがおきてしまうのです。自分という魂が今世の修行の為に貸してもらっていると思えばより大切に愛おしく扱うようになるに違いありません。
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