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こんな私は

だいたいこうして毎日ブログを書いているなんて数年前までは思いもしませんでした。それにブログっていうのは文章ではなくて写真とかを載せて短い思いをつづるのが普通みたいなので、私のは活字が多すぎると言えるでしょう。それにコメントも私の勝手で返さないのですから。

例えば今、明治から昭和の時代の文豪や詩人の方々がこれらネット社会をフルに利用できていたらどうだったろうなーと思います。もっと沢山の素晴らしい才能が開花されたか、その反対にあまりにも多すぎる個々の才能の中に埋もれてしまっただろうか。

先日あるテレビ番組で、仕事を極めた絶頂に退職して自分探しにでる女性の姿が印象にのこりました。私は彼女の生き方は普通の人にはできない素晴らしいものだと感心しました。しかし「自分のすべてをかけて注げる。これが自分だというものがほしい。一滴も残らず自分を出し切る。せっかくの人生、私はそうやって生ききりたい」と話す姿に正直、羨ましさは感じなかったのです。それは、私の中ではもうすでに出し切らなければいけないものと、その過程と結果。そして風景のおおよその検討がついてしまっているからです。

このまま病気もしないで真面目にコツコツと、逃げずに進んでいけばおおよそ目指すことは出来上がるような気がします。私の生活は地味なものです。派手なものはほとんどないと言っていいでしょう。おかげさまで普通に生活できるだけの仕事にも恵まれています。こんな世の中ですから、それが今はとても誇らしく思えます。
高飛車になってうぬぼれて、えらくならずにいられたら人生の半分は成功したことになります。あとはどれだけ誰かのお役に立てるかです。年齢が行けば身体も利かなくなるし、脳みそも固くなります。それを年の功のように柔和になれさえすれば儲けものです。

さて本当にこのような思った通りに生きていけるでしょうか。ただ単にテレビに輝いて映る彼女に嫉妬しているだけかもしれません。
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心快晴

同じことを言われても感じるのは自分次第です。

私が学生時代、どちらかというとムードメーカーでした。集団を引っ張る力はないですが、周りに安心感を与える存在だったのです。時には少し面白くないこともありました。自分をストレスを発散する標的みたいにされて小ばかにされたり、上げ足を取られたりすることがもあったからです。
普段の私ならばそれさえもプラスに転換して周りに笑いを誘い安心させました。しかし時々ふさぎ込むこともあったので周りがウザったくなったり、うまく返せない自分に嫌悪感をいだきふさぎ込むこともありました。
元来、とても気難しいところもあって一度機嫌を損ねるとなかなかもとに戻りませんでした。頑固というか男らしくさっぱりしてないというか。

だいたい、自分の心もうまく扱えないくせに誰かの非を自分がうまくいってないからって無理やり引っ張り出そうとするのは間違っています。
「あいつはああ言った。赦せない。どう考えても自分は悪くない。悪いのは向こうの方だ。よーく考えればわかるはず。自分はお人好しなんだ。今までだった大分我慢してきた。だから今度は私は悪くない」

そんな風に自分の心は晴天どころか無理やりどんより曇り空に置き換えて、自分擁護にひた走りました。
若い頃のなんとも言えない思い出です。しかしその傾向はまだ社会人になってもそれほどひどくはないですが残っていたような気がします。

私はもともと先頭きって突っ走る方でないので、今でもうまく周りを繋げ潤滑油になる役割です。さすがにだいたいのことはうまく転換するか、スルーというか流せるようにはなりました。
今日のような曇り空でも心は快晴にすることができます。

やはり皆、太陽が大好きです。なるべく明るい自分でありたいです。もう前のようにふさぎ込むことはまずありません。
心快晴です。
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何を演じる

どうして私達は映画やドラマを観て感動するのでしょう。よく考えてみれば実際は役者が演じているだけで本人ではないのです。本来感動するのなら、本人に対してだと思うのですがまるで俳優を本人よりも本人だと思えてしまうふしがあります。私達の中に感動の琴線みたいのがあってそれにふれると自然と感動します。

どうしてでしょう。歌手も歌声のよさに感動しますが歌詞などはまるで自分の経験とだぶらしてしまいます。その内容は自分の実際体験したものではありません。でも似ていることがあるのです。なんとなく。
メロディーも歌詞もよくなるものは私達の中に共通のポイントがあるような、そんなような気がします。

さあ、自分達はいったい何を演じているのでしょうか。だれかに感動をうながすような、そんな自分をえんじているのでしょうか。それともそんなことは関係なく、ただ単に自分だけよければいい、そんな自分を演じているのでしょうか。

なんだか、わかりませんが私の中では以前よりも自分はこうあるべきみたいなものがなくなってきたように感じます。あきらかに20代、30代、そして現在、何かが変わってきています。言い方をいえばよく年とると涙腺が弱くなるみたいなことを言いますが、そんな風に単純に感動し、単純に悲しみ、単純に喜ぶようになりました。そしてそれはその時その時の精一杯で後を引きずらないというかなんというか。そんな感じです。

最近、20代ぐらいの若者を見ると羨ましくなります。やはり若いって理屈ぬきにいいです。
それでもまあ、今の自分も自分で積み重ねてきたものがあって、落ち着きがあるというかなんというか。そんな自分もなんとなくですが好きに思えます。
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壁をつくらない

私は基本、誰にでも話しかけます。正直、大丈夫かなーと思うこともあるのです。
調子がいい時はノリノリで話をふることができますが、なんか今日はテンションが上がらないなんてこともあるので。

そうしても意外に話しかけてみるとたいていの人はのってきてくれます。まずは他愛もないことを「あーでもない。こーでもない」から始まります。そのうち世間ネタです。これが重要なのです。新聞などにのっていないリアルな地域情報が手に入ります。世間の動きは実際メディアに流れる情報と違う場合があります。ここで気を付けなくてはならないのが、また聞きの噂話です。わりとあてになりません。フィルターをとおしてのことなので一方的なイメージしか自分に入ってこないからです。それでも世間ネタは良くも悪くもリアルなのです。
ようは「百聞は一見にしからず」、気になる人、気になることは自分の方から近づいていくべきです。

話してみると意外なことが沢山あります。また自分に対する相手のイメージも変わってくるでしょう。そのおかげでボロがでてしまう可能性もあるのですが、仕方ないです。いずれはわかることですから。

安心してください。人は自分が思うほどそんなに悪くはありません。また自分も自分が思うほどそれほどいけてない人間でもないのです。ごく普通レベルの自分達を共有しあうのも人生を楽しく生きるコツです。
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波長を明るく

普段はそうじゃないんです。少しでもゆっくりする時間があればじきに治ります。

しかし、そううまくはいきません。毎日毎日、追われるように生活していればそう簡単なことではないのです。

忙しい=心に余裕がない=ゆとりがない=判断力が固くなる=神経質になる=マイナス思考になる=ちょっとした相手の言動が気になる

すべて普段ならなんでもないことなのです。そんなこと気にしないで吹っ飛ばしてしまいます。しかし余裕がないことはそうはうまく心の塵や汚れを掃き清めることができなくなってしまします。

こんなに頑張っているのに。そう思っている時ほど波長はくすみがちです。

一つうまい方法があります。「笑い」です。同じことをするにしてもされるにしてもそれを笑いに変えることができたらなんとなく自分も相手も赦せてしまいます。

不思議なものです。どんなに美辞麗句を並べても波長があ明るくなければ人はついてきません。反対に世間的に間違えだらけの過去を持った人間でも、今のその人から醸し出される雰囲気が明るければ、人はなんとなく赦せてしまいます。

娘が先日、園外保育で楽しみにお弁当をもって登園しました。しかし午前中に友達と喧嘩してしまい、お弁当を一人で食べたそうです。みんな近くにいるのに自分のところに来てくれなくて悲しかったと。しかし思うところがあったのか「ごめんなさい」と自分から謝ったら午後からは一緒に追いかけっこして楽しかったみたいです。
謝る前の娘は明るさが足りなかったのです。謝ったとたん友達はその明るさに引き寄せられました。

幼稚園児も大人の私もすべきことは一緒です。
自分の波長は他人に関係なく明るさを保たなければなりません。
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