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早め、早め

寒かったり、暖かくなったりと寒暖の差が激しくなってきました。陽気を見れば春らしい日差しは見受けられます。
もう一月も最終日です。早いものです。ついこの間新年を迎えたと思っていたのにもう一か月たちました。

最近の体調の悪さはいったいなんだったのかと悩んでいたらちょうどテレビで花粉に対する番組が放映されていました。
もう今現在花粉は飛び始めていてこれから三月に向かいピークになると。もし発症を少しでも緩和するのであれば今から薬を飲み続けていればだいぶ違うということでした。
確かにいつも二月の半ばからくしゃみをしだして三月になると鼻がつまってしまい、どうしようもなくなります。そこで一生懸命治療しても遅く、風邪のような花粉症のような発熱とかぶれ、かゆみを伴い悲惨な状態になってしまうのです。

よしこれだと思いました。今から薬を飲もうと決めて去年病院で処方されたあまった薬を飲み続けています。そうしたところなんだか調子が戻ってきました。
あと花粉症に一番よくない原因はストレスだそうです。私は花粉症になる以前はまったく大丈夫だったのですがある日突然やってきました。それからはこうしてとてもひどい状態が続き苦しんでいます。

加齢に伴うストレスは仕方ないにしても何事も早め、早めが一番です。用心にこしたことがありません。今年は難なく乗り切れるか、願うばかりです。
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大袈裟

私は普通の人より感情が大袈裟なのかもしれません。悦びも人一倍だし、悲しみも同じく人一倍。
普通傷つかないことでも意外に心にぐさっときたり、誰かの何気ない言動でもずーと気にしたりします。

とにかく自分が他人にすることはさておき自分がされたことを大きく取り上げるのです。
悦びもそのようであればいいのですが、いたく感動したわりには冷めるのも早くてあの時のあの気持ちはどこのいってしまったのかともっと振り返るべきことなのに。

少し変化ばかりを期待して普通のことで飽き足らなかったこの性格も、もう50歳が近くなってくると驚くほど普通にそしてありきたりに毎日を生きるみたいです。
とにかく大きく物事をとらえすぎるこの性格をなんとかしなくては。
大袈裟とは完全にお坊さんの袈裟が大きくて派手なこと。つまり中身が外見にともなっていなくてただ大きく見せているだけという意味ではないですかね。

本業も内面も同じちっこく収まらないように気をつけたいと思います。
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自分の居場所

誰も自分の居場所をはいどうぞというように用意してくれません。
最初はいろいろと面倒を見てくれる人がいるかもしれない。でもそれは最初だけです。

人間関係だってそう。最初はお互い美辞麗句をならべてけん制しあいます。また褒め合ったりしてあたりさわりない調度いい関係を保とうとします。それが四六時中一緒に行動しようもんならそうはいきません。お互いのいい部分も悪い部分も見えてくるのです。

家庭で何かあれば「あんたのせい」「パパのせい」みたいに私は家族に言われることがあります。こっちとしてはそれはいちがいにそうとも言えないことでもそう言われるので「いいよ。私でストレス発散すれば」みたいな気持ちでやり過ごすのです。
それが一般社会での人との繋がりもそう。時として上司から「それは違うでしょ」みたいなことを言われることもあれば、「こんなに頑張っているのにどうして自分だけ」みたいに心が折れそうになってしまうこともあるのです。

でも最終的には自分の居場所は自分で作り上げるしかないのです。だれでも優しくありたいし、他の人の意見も十分尊重したい。それでもそこに自分の居場所を無理やりでも求めることはけっして罪にならないはずです。けっして。

皆、少しいい子ぶって生きすぎなのです。私みたいな聖職者でもそうなのだから、みなさんは十分大丈夫です。
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自分らしさ

昨日、スタジオジブリの「耳をすませば」という映画をテレビで観ました。中学三年生の少女が夢や恋に悩みながら一生懸命生きる姿を描いたものです。
その中で宝石の原石が詰まった石をあなただと老人が彼女にわたすのですが、まだ粗削りだけどストレートに気持ちが伝わってくる夢に対する生き方と重なったからです。

私の中学時代はどうだったろうか。とにかく勉強していい大学に行くことしか考えてませんでした。でもそんな思いも高校生になった時に「自分らしさ」という壁にうち当たってしまうのです。今思うとまだそのころの自分に「自分らしさ」を見つけろと言っても無理な話です。まだほとんどのことが未経験で社会の荒波にもあたっていないのに思いと想像の中で「やれる」とはあまりにも無謀すぎます。
私は挫折に挫折を重ねていきついた「自分らしさ」が僧侶という道でした。しかし僧侶の道もけっして想像していたものとは同じではありませんでした。

「清らかで純真に仏に向き合う」、それだけを強く思いながら仏門を志しましたが自分自身の内なる心と外側のいろいろな環境がそれのみでは生きていけないことを思い知らせてくれました。
「心臓に毛が生える」
たとえは悪いですが志の中で目指す目的地にたどり着くためには酸いも悪いもかみしめて自分自身をなんども落としてそれでも我慢を重ねてようやく道が開けていくのだということを学びました。

「水滴の落ちる力で岩を砕く」「血の涙をながす」
そう心で口ずさみながらたどり着いた今の人生。しかしその今もまだ道の途中です。

若き人達が少しでも自分の夢に近づけることを応援しながらこれからの自分の道をまい進していきます。
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半僧半俗

昨日こんな話をしました。

もし自分が高齢者の多い過疎の町のお寺の住職になったらどんな生活をしただろうって。
多分、檀家さんが「和尚さん、芋がとれたからたべないか」

なんてもってきて「いやー。今年の里いもは大きいですね」
と和やかに話しているんではないか。

お寺はいつも地元の人らがお茶を飲みに来る空間になっていて私はつつましく無駄遣いをしないでひっそりと寺の整備をしながら暮らしている。

時々、思います。そんな生活も可能性としてはあったのではないかと。しかし、自分が選んだ道はそれとは違うどっぷり社会人として生きる道でした。

働いていて時々、自分が僧侶なのかそれとも俗人なのかわからなくなることがあります。今の考えはお坊さんぽくないなとかあれこれではあまりにもボランティアじゃないんだからシビアにならないととか考えます。今までにない結構冷静に決断している自分がいたりして不思議な気分になるのです。

本来、世間一般で考えるべきことを棚上げして俗世から離れて生活してきたゆえのジレンマだと思います。

それでも学校の先生とか市役所の職員とかになりながらお寺の経営上、兼業で僧侶をしている人も以前から多数いたことからしてこれもありだと思います。

ただ全国でも葬祭スタッフと僧侶をおもいっきり兼業で働いている人はそうは多くないでしょう。
親鸞聖人様が半僧半俗の愚禿親鸞と自分のことを述べていたように、私も頭をそったお坊さんのような一般人。一般人のようなお坊さんとしてこの道を精進していきたいと思います。
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