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それでいいのです。

静かに生きるとはけっして消極的に生きることではありません。それは当たり前の毎日をたんたんと自分の中のすべきことをただすることを言います。

自分の目標設定を高くしすぎてはダメなのです。これもできない、あれもできないとできないことを数えていればきりがありません。ちょうどテレビでスポーツ観戦をしながら解説者的に「何やっているんだよー」というのと同じです。自分のことを棚にあげてまるで何でもできるがごとく上から目線で自分のことを評価する。そんな風に自分を勝手に何でもできるだろうプレーヤーにしてしまうのです。

でもどうでしょう。できないことからできることで喜びを感じて生きることと、できないことを探して生きることとどちらが幸せでしょうか。岩場で根を張る松の木の生命力は見ている側からすれば印象が強くのこります。平地ですくすくと育つ同じ松の木では見てもそのような感情はわいてこないのです。同じように人よりも傷つきうまく生きれない人ほど神仏は余計に愛おしく思います。

もともともっている自分自身とその環境の中で命を燃やすことを神仏は望んでいるのであって、できないことを取り上げて採点し切り捨てるような試験官のようなことをしているのではありません。親が子に何を望むでしょう。親は子のすべてをわかった上でその子のがんばりに喜びを感じます。それはいつも心がよりそっているからその思いが伝わってくるからです。

「つらいだろうなー」「かわいそうだなー」「愛しているよ」

と。神仏は遠くにいません。私たちの心の中に存在するのです。私たちはつまりは神仏からわかれた子供だからです。私たちの魂の本当の親がそれでいいと言ってくれているのです。

心静かにそのことをかみしめて私たちは日々を生きなくてはなりません。

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