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身体にしみ込ませる

今年のお正月は実家に帰らず家族で過ごします。また仕事が入ったのでお休みは1日までです。しかし29日からお休みできたので今年の忙しい日々を締めくくるようにゆっくり出来ました。連日、いろいろな用足しをしながら娘の相手をして過ごしています。

毎年思うのはこの時期は身体がウズウズすることです。初詣の準備やお迎えに長年携わってきたのでその習慣がなかなか抜けません。それでも今年は十分働いたので気分的には納得しています。

早朝、暗いうちに起きて走りこんでいますが今日は高校時代のことを思い出しました。精神の悩みを克服するためにお寺に毎朝通うようになった私は目覚ましにステレオをセットしてリックアストリーの曲で起床し眠い目をこすりながら自転車を走らせました。とにかく救われたい一心でした。人は死ぬほどの悩みを背負っても努力し続けることはとても難しいことです。寒い朝、まだ17歳くらいの私は懸命に毎朝かかさずにお護摩焚きに通いました。その日々がなければ今の私が存在すると思うとそんな自分がなんだか懐かしく、愛おしくなります。

本当に治るのか。もうダメなんじゃないか。そんな不安の中でひたすらに仏さまにすがる姿は純粋で輝いていました。
なんでも何かのせいにする人がいます。「自分がこんなに悩んで不幸になるのは先祖の因縁のせいだ。何かの霊にとりつかれているせいだ。本当の自分はこんなのではない。そんな妨害がなければもっと活躍できるはず」

でも多分、そんな人は因縁が切れようが霊が退散しようが努力を続けることはないでしょう。続けるのは三日坊主ではだめなのです。身体にしみ込ませなくては。その状態になるのはあくまでも自分の血と汗と涙です。

紅白歌合戦が始まりました。今年ものこり僅かです。しかし明日がきても変わらない努力の日々の繰り返しであることには変わりありません。
今年、応援してくださって誠にありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。
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時代に愛される

偶然かもしれませんが最近は自分の青春時代、1980年後半から1990年前のエネルギーが再び世の中に噴出してきているように思います。懐かしい曲が頻繁にメディアから流れたり、当時を知らないお笑い芸人が当時のことをネタにしてブレイクしているのを見るとあーそれだけ時代が過ぎたのだとあらためて思うのです。ただあのネタが受けるのはバブル前の日本のなんとも言えない成熟観が「いい時代だった」と懐かしめるからかもしれません。

あくまでもバブルがはじけるのだから偽りの成熟なのですが今の時代とくらべるとエネルギッシュに社会も動き、人も生きていたように感じます。
あの時代のバンドグループが再結成したり、お笑いのネタにされたりと今の若者よりもまるで今の社会の中心の私たちの年代のために発信されているのでしょう。頑張れと励まされているようです。
歌のメロディーやフレーズをあらためて若者はどう感じるのか興味深くも思えます。電話をかけるのにコインを握りしめるなんてフレーズは携帯しか使ってこなかった若者には古いなーなんて思ってしまうかもしれません。

ただ今もこれからの20年後には懐かしい時代になってしまうのです。社会や文化、芸能、科学はどう変貌していくのだろう。その時はまだ私も人生の晩年ですが現役で働いていると思うとさすがに想像つきません。
人の心は過去を美化します。だから本当は「良かったなー」なんて時代はなかったのかもしれません。それでも確かにあったそれぞれの時代のその思いをそのエネルギーを紡ぎながら時代は流れて未来へと向かいます。

願わくば時代に愛され、必要とされ、生命を輝かせる生き方をしたいと思います。
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意識を高める

昨日、突然大きな地震がありました。年末、年の瀬で慌ただしく新年を迎えようとしている中で急に現実に戻された感じです。

東日本大震災を期にいつどんな災害に見舞われてもおかしくない状況に日本は世界は突入したと思います。ただ普段生活していれば目の前のことのみに気持ちがいってしまっていつ起きるかわからない災害のことの意識はおろそかにされがちです。まるで病気にかかっていない人が病気にかかるかもしれないとビクビクするように。

ただ病気も普段の生活習慣でいくらでも予防できるように、私たちの防災に対する意識が自然と大きな災害を未然に防ぐ力にもなりえます。この世の中で意味なく起きることなど一つもありません。すべてがなるべきしてなるように進行しているのです。その点と線を結ぶパーツの多少の操作は念=思いの力によって可能なのです。

太平洋戦争の時に日本国民の意識は戦いに勝つことに集約していました。敗戦になり、すべて国や軍部の責任みたいに思いはすりかえられましたが、それは違います。よく日本の帝国主義を否定的に描いた内容でドラマが放映され、「私たちは何も悪くない。無理やり情報操作されて洗脳されただけだ。悪いのは軍国主義になりはてたこの国だ」といわんばかりに被害者意識が強調されますが、私は少し違和感を感じます。責任は国民一人一人の意識にあったのですから。

あなたはどこの国の人ですか。どこの国に住み、その国の恩恵をうけて生活しているのですか。

この国の形を作るのは政治家ではありません。私たち一人一人の意識であり思いです。国を思い、国を愛する力が強いほどその国は最終的にはさまざまな困難から守られます。そしてそこにはあくまでも「誰かのせい」は通用しないのです。

日本人の「和」の精神がこれから世界で起きうる災害や国際紛争に必ず大きな力になります。他人事にせずに常に自らの意識を高めて生きましょう。
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三世を貫く光

いよいよお正月です。今年は本当に頑張ったと思います。自分なりに。
それにしてももう一年たってしまったんだなーというのが正直な気持ちです。あまりにもあっという間すぎてなんだか寂しい気持ちにもなります。

気付けば人はどんどんと年を重ねて最後にはこの世の修行を終えてあの世へと旅立つのです。まだ自分の人生これから、十分時間がある。そう思いがちなのが私達人間です。しかし、サッカーの試合で負けていて後半まだ十分時間があるから大丈夫と解説者はいいながら、あっという間にロスタイムなんて展開が人生にもあてはまるのかもしれません。

テレビで哲学者と言われる少年が「チャンスはどこにでもころがっていて、それを拾うか拾わないかの違いだ」と言っていましたが、まさしくそう。この今も私が拾うべきチャンスはすぐ傍にあるのです。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

私はこの言葉が大好きです。朝に人がどう生きるべきかを悟ることができれば、夕方に死んだとしても後悔はないという生き方は今の一瞬、一瞬があなたの人生のすべてになりうるのですよ。大切なのはそのことを知ろうとするかしないか。この世の一生をその一瞬の輝きにかけることによって現在、過去、未来を貫く光を手に入れることができるという意味だと思うのです。

私は生きています。この一瞬を生きています。夜空の星のような輝きを得られるようにこの人生のかけたいと思います。
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一輪の花

今、思い出すとお寺にいた頃の私は自分の未来には希望に充ちていると思っていました。もちろん今がどうこうの話ではなくて30代の頃は必ず道が開けるはずだと思っていたのです。具体的には弟子という立場を離れて独立して一人前の住職になれるというように、真面目にやってきたからこそ必ず仏様がお寺の住職にしてくれると安易に思っていました。

これは私だけでなく今、会社で働いていて独立を考えている人たちに言えることだと思います。そう、自分が主になって実力を否応なしに発揮できる確かな未来。困難はあるけれども必ず乗り越えられるという自信。そんな思いを長年勤めながら蓄積してようやくやってやるぞと思う人は多くいるかもしれません。
でもです。現実はそうは甘くないのです。どんなに人気や実力があってもそれを発揮できる環境は自分自身の力だけではそうたやすく獲られるものではありません。その人が多くの財産をもっていてそれを駆使できるのなら別です。普通は普通のサラリーマン並みの資産しかないはずです。それではどうにも太刀打ちできません。

何を弱気な、と思うかもしれませんが、社会の現実はSMAPみたいな国民的なアイドルでさえも簡単に解散に追い込まれてしまうほどそう甘くはないのが事実です。お寺社会でも在家の僧侶が一人前の住職になるにはさまざまな困難に直面します。

私はお寺を離れてようやく社会の仕組みが理解できたような気がします。宗教的な部分だけを中心において世の中の人々は生活しているわけではありません。むしろ宗教者は社会的には稀な存在だと自覚すべきです。そして神仏の世界のみを見つめながら生かされている自らの運命に感謝すべきです。それは特別で神仏が本当に求めているものはそこにはないからです。

ごく一部の人の為に教えがあるわけではありません。最大多数の人、いやすべての人のために教えが存在するのです。私はこの厳しい世間でもまるで路傍にたたずむ地蔵尊に揚げられた一輪の花のように輝きを放ちたく思います。まだまだこれからです。
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