一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
一番大切なもの
人生は不自由が当たり前と思った方がです。自由を求めすぎるとあまりにも理不尽な現実に際悩まされます。
もともと不自由と思っている今も実は自由であろうともとめて獲た結果の今なのです。しかし人はそれを忘れてしまいます。得られていることの尊さを忘れて、得られないことに執拗に落胆する。
私はあまり多くの求めないように生きることにしました。同時にいろいろな欲求もどこかでもうここまでと抑えることにしたのです。
簡単なこと。もっと食べたい。寝たい。面白いテレビを見たい。漫画を読みたい。楽しみたい。どこかに行きたい。ああしたい。こうしたい。こうでなくてはいけない。
それらのことをこのへんでいいとプッツンと切ることにしました。
そう私の今の最大の目標は家族を守ること。それが第一の優先順位です。もちろん手抜きをせずに精一杯仕事をします。しかしすべては家族を守るにつながるのを意識してのことです。
だから嫌なことがあろうが、思うようにいかなかろうが関係ありません。第一目標さえ出来ていればそれでいいのです。
多少のストレス発散もしたいとは思いますがそれもプッツンと切ります。
一日が普通に終わることが、家族が普段の日常を送れることが一番のストレス発散だからです。
少し変わったのかもしれません。今までの自分と。自分のことを優先にしてきたこれまでの自分と。
コロナのこともあるし、これからは普通ではいかないことがいくらでも起きる世の中です。
自分の身を軽くし、一番大切なものだけを見つめなければ乗り越えられないような気がします。
疫病退散
コロナウィルスの影響で伝統のお祭りが中止されることを残念に思います。
今日神社をお参りしてちのわくぐりをしてきました。やはり夏越しにはこの習慣をしなくてはしっくりきません。疫病退散の祈願祭は神職のみで行われるとのことです。
それにしても今になってクラスターが私の住む地域に発生しています。
まず終息などはこの数年はないと考え対応していかなくてはなりません。
すこし、疲れ気味ですがもう一度気を引き締め直そうと思います。
今日は少し身体を休められました。
お休みなさい。
丁寧に生きる
なんだか去年よりも身体が動かなくてまいります。そう考えると一昨年は驚異的な身体をしていました。
仕事が忙しい中、月間400キロは走っていたのではないでしょうか。マラソンは諦めたわけではないですが少しお休みです。コロナのこともあるので身体を酷使したくはありません。なるべく無理せずにいこうと思います。
人間生きているかぎり、その一言が重要だと思うのです。言わなくてもわかるだろうみたいな考えは自分に対する甘えではないでしょうか。
私は物事の経緯を細かく話そうと心がけています。それは相手が言葉一つをどのようにとらえるかわからないからです。特に僧侶ですから誤解を受ける言動は避けるべきなのです。
これは実はこうだからそれをこうしたくてこう言うわけですというように。ただこうするでは意味が分からないことがあります。言い訳ではなく丁寧に説明し、後は相手がどうとるかはそれは相手の自由。
この年になり家族以外に自分がどう思われるかをあまり気にしなくなりました。生活の母体は家族だし、それを守ることが自分の役目ですから。
とにかく挨拶もふくめて一言は大切です。それを心がけていると自分の心が窮屈でなくなるのを感じます。
やはり丁寧に生きるとは自分の為であるのです。
夢の途中
今日は私の恩人の一周忌と納骨開眼式でした。梅雨の時期には珍しく晴れた中でお経をあげさせていただきました。
「これからは時代が変わる。一緒に世の中の為に貢献しよう。」
そう話し、私の心の声を応援してくれました。お寺もない私を立派な僧侶として活躍するのを精一杯応援するぞとどっしりと構えて親代わりとしてサポートしてくれました。
余分なことをいわずに懐が広く、どこか妙な安心感のある方でした。ただ話し出すと止まらずにそこから抜け出すのに時間を要する方でもありました。それが魅力でしたが。
私はこの人の為に全力を出し切るぞと誓って働いていたのです。喜ぶ顔が見たくて仕方ありませんでした。
去年の明日闘病の末、旅立ってしまいしばらく放心状態でしたがそうもしていられないと踏ん張って今があります。
今もどうしたら喜んでくれるか考えることがあります。
先の先を読んで商売を成功させたその生きざまは見事なものです。商人を真っ当な商人として胸をはって生きたお方。
あの世から応援してください。今も夢の途中です。
建前を超えて
この世の中は本音と建前を使い分けてこそうまくいきます。自分の意志押し通すことをすればいつかは足を引っ張られれることになるのです。
有能な人材でもここのところを精通していなければ開花せずにしぼんでしまいます。いくらでも素質のある優れた存在はいるのですが成功するのは難しいのはそれが理由です。
まず思ったように生きられている人などはいないと思った方がいいです。思ったように生きられていない相手に寛容であれともとめても所詮無理な話です。その余裕がないのですから。
まずもって一人で思うようにうまく生きるなどと考えない方がいいのです。あれよりもまし、これよりもましと思った方がうまくいきます。少し残念な気もしますが。
それでですが
人に注目されるということはそれだけ人にないものを持っている証拠です。それをどこか達観してながめられればしめたもの。
どうだ、うらやましいだろーと。そして自分は自分のみを信じて生きられれば先ほどの本音と建前を超えた世界もあるのかもしれません。
それはごくごく少数の強靭な精神力と信念を持った人のみが可能です。
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