goo

妄想かもしれませんが・・・・。

昨日ふとテレビ番組を観ていたら、秋田県にある何十年うどんとそばの自動販売機とそこに訪れる人々の人生が映し出されていました。あまりにも古い機械なために部品の交換がままならず、最近ではお湯があふれるほど入ってしまい汁が薄目になってしまうみたいで、お盆を持参する人も。吹雪で屋根付きの室外テーブルも雪だらけなのに食べて温まろうとする人。がんを患いながらも子供の頃から通ったその自動販売機に自分の今までの人生を顧みて闘病の勇気をもらいに来る人。そこにくれば寂しくてもいろいろな人に会えるからいずれ行き詰った時にはここに来ればいいとまで息子に語る女性。
港の近くで潮のにおいと生めんなのでコンビニとかでは味わえない一杯200円の安価な食事。来る人来る人が心温と通い詰めます。番組ではその自動販売機を守ってきたご主人が船で働く人に卸す物品の仕事を辞める(足も悪くされているみたいで)と同時に自動販売も辞める模様を最後に映していました。寂しい思いもしますが、いろいろな人が列をなして自動販売機とご主人との別れを惜しみながら最後の一杯を召し上がっていました。機械のカウンターは40万をゆうに超えていました。
最後にテロップでその自動販売機は他の人の手に移って別の場所で営業を再開するとのこと。

その番組は前にも観た時に100円温泉とそこに来る人たちの人間模様みたいなことを流していました。番組的には
「安くて、美味しくて(気持ちよくて)、心温まる、そして目立たないのに人がコンスタントに訪れる」
みたいなスポットを特集しているみたいです。

私は今日、通勤で車を運転しながら退職して年金暮らしになったらそのようなお寺を持ちたいなーと思いました。例えばワンコインで飲み物付きの人生相談所みたいな、祈祷所みたいな、手相もおまけみたいに。あくまでも目立たずに小さくて、それでも人が来て、檀家寺ではないので喫茶店みたいに私も自由に営業できて、いつでもオープンで来た人が心満たされて帰ることができるそんな空間。

今はまだ社会で一生懸命働くいてはいけないのでそれはできませんが、いつかそんなことはできたらなーとふと構想が・・・。
理想と現実のギャップでどうなるかわかりません。しかし僧侶という職業が病気して倒れるまではできるありがたいものなので、老僧になっていい雰囲気がでるお坊さんになろうと思います。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劣等感と現在進行形の私

私は小さい頃から、けっこう肝心なところで失敗してきました。

ここぞという時に実力を発揮できない。いつもにようにいかずにどうしてだか最悪な結果になってしまう。だから少し自分に期待しないこともありました。どうせ期待したって結局うまくいかないのだから。そう投げやりになってしまうことも。
反面、悔しくて悔しくてたまらなくてなんとかしたいと思う自分もいました。不器用ゆえに最初からうまくいかないのはわかっていたので、だったらどうすれば少しでもうまくいくのかを考えました。人が普通にできることが自分の場合は三倍も四倍もかかります。でも人の努力のその倍数以上の時間をついやせば自然と人並み以上になることも学びました。

それでもいざというときはそのせっかく作り上げた実力の半分もだせないこともあります。そうすると悔しくて、自分が情けなくて、やはり自分はダメな人間なんだと思ってしまいます。このバロメーターでは努力ができているうちはなんとか精神のバランスは持ちこたえられます。しかし、あきらめて努力をしなくなったら精神が崩れてくるのです。
だから、自分にとって人並みに生きる為には多少無理しても努力し続けなくてはなりません。まるで周遊魚のように動き続けなければ自分が自分でなくなってしまいます。
後から考えてあんなこと自分がしたのか、あんなえらそうに、本当に自分なのかなんて後から思うことがあります。不思議なもので自分にとっての自分は
確実にあるものでなく、動く中でようやく手に入れられるものなのです。

他の方々はどうやって毎日を送られているのか、私と比べてどうなのか。時々考えることもあります。でも本当にありがたがれたりすると私の知っている一部が人のお役に立てていることを嬉しく思うのです。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萌やし

昨日の記事を載せそびれました。現在は4月29日。

私は以前クロスワードをしているときに一番栄養のない野菜という欄でもやしと書きました。確かにその説もあるみたいですが、安価でビタミンCやカルシウムを多く含むみたいです。その上、他の野菜が高騰したり市場に出回らない時でも簡単に手にはいります。実はとても私達の食卓に役立っている野菜なのです。

よく非健康的で色白で弱弱しい人のことをさして「もやし」みたいだと言います。でも如何にも他の野菜にくらべて見た目のインパクトに欠けるもやしでも実質の活躍率でいえばトップをひた走っているのかもしれません。
つまりイメージと実際とのギャップです。人は強く、エネルギッシュでインパクトがある方に惹きつけられます。誰でもなんでも自分にとってはくがつく人と付き合いたいのです。

「俺はこんな人と知り合いなのだ。私にはこんな素晴らしい縁があるんだ」

でも本当に必要としている人は意外に自分が気づかないだけで身近にいて、すでに多いに深く縁を結んでいる人ではないでしょうか。気づかないけど必要不可欠でおおいに自分の人生を助けてくれている人。それは見た目と違い、とても便利でありがたく、かけがえのない人。

クロスワードをしているときに妻にもやしは豆からできているのだから栄養はあるはずと怒られました。最後までやらなかったので答えは正解か不正解かはわかりません。でも私は「もやし」のように気がつけばとても周りの人たちの役に立っていたというような人間になりたいです。目立たなくてもいいからなんだかそうみたい。とても助けられたと思わられるようになりたいです。「もやし」は「萌やし」とも書くみたいです。豆を萌やすから「もやし」になりました。最近は心をなんだか「ホッコリ」させる対象物に対する「好き」という意味で「萌え」という言葉を使います。私も「萌え」と思われたいのでしょうか・・・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい時代の幕開け

江戸時代末期、黒船が浦賀沖に来航した時に庶民は自分達の代わりに幕府が武士が戦ってくれると思いました。その為の武士で普段から特権階級として社会の中に位置づけられていたのです。経済の仕組みも今現在の私達が能力ある人が働いて、認められて、そして金銭的に豊かになれることとは違い、庶民にとって己れの立身出世は生まれながら決められている部分が多いにあったのです。

でもどうでしょう。皆が頭をさげて敬ってきた武士はいざ日本の国、またそこで暮らす人々に危険がせまっているというのになんとも頼りなく、志がかけ、公のことより自らの今の体裁ばかりを気にするものがほとんどでした。
これならば命がけで国を守りたいと思っている自分達の方ができるのではないか。そう考えたのが武士の身分の中でも上級武士にさげずまされ、押さえつけられていた下級武士でした。中には武士以外の人も多くいました。彼らは庶民のさほど位置的にもかわりなく、その暮らしぶりは貧しかった。しかしその頃のほとんどの武士が忘れてしまっていた、「己をすて公の為に命を懸ける」武士道を心の内から芽生えさせたのです。

明治維新はそんな若者のエネルギーが龍のような塊になり、そして紙一重の奇跡で列強諸国から植民地支配を免れ、近代国家の道を歩むことになるパワーを生み出しました。明治の時代、貴族になった身分の高い人の中にはもとは下級武士であったり、農民であったり、商人であったり、医者だったりした人が多くいました。不思議なものです。時代によって家柄が大きく変わるのです。まるで戦国時代の武将のようです。

今は勝手な私の解釈ですが、再び時代の大きなうねりに差し掛かっています。昭和から平成の今までの価値観が大きく転換しようとしているのです。もう形だけで中身のない、不正を働いていてもばれなければいい、お金でなんとか解決できればそれでいいというように精神性の欠けたことがまかり通ってしまう時代は終わりました。新しい時代は「心の時代」です。その波動になんとかついていかなければ次の時代に活躍することはできないでしょう。私達は覚悟しなくてはいけません。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きる価値

慣れた環境にいれば人はそれなりになります。例えば大きな組織に入れば自然とその集合体の波長に影響されますし、他者の自分に対する意識もその本人よりも組織に注がれるのです。その分、拘束性もありますが大いに守られていることも事実です。

政治家の方を例にとりますが、選挙で当選するのと落選するのとでは大きく違います。周りからの意識が先生になるかただの人になるかでは天と地ほどの差があるからです。しかしよーく考えてみるとおかしなことです。当選しようが落選しようが中身は変わらない本人自身です。たしかに中身がよければ人気もでて当選する確率は高くなるでしょう。しかし、当落でその人のすべてを決めつけることもなんだかおかしなことです。


最近、話題になったニュースで鹿嶋市の市議会議員が小学校高学年の女子生徒と偽名をつかってラインで知り合い、携帯型ポータブルプレイヤーとひきかえにみだらな行為をしたとして逮捕されました。もし、この事件が明るみにならずにそのまま公職の議員として周りから尊敬されていたとしたら。考えてみれば周りの印象、世間からの見方だけではその人自身の本性はわからないのが事実でしょう。

人は体裁よく取り繕えばある程度のことはうまく印象付けできるし、処世的なことも隙なくうまくこなすことができるでしょう。しかし素のままの自分。人がどうこうは関係なく、そのままで明るく、優しく、元気よくあれたら誰がでもない、自分が自身に対し一番心ときめいて愛らしく、愛おしく思えてくるのではないでしょうか。

幸せを忘れた人へ。自分を本当に愛せた時に周りも変わっていきます。その明るい波動を周りの人は放ってはおきません。皆、あたたかさに魅かれて自然と引き寄せられてしまうのです。
肩書や身分、職業に関係なく人としてまっとうに生きれるかどうかでその人のこの世で生きる価値が決まってくるのでしょう。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ