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汚れても

人には出会いがあり別れがあります。あれほど仲睦まじく強く結ばれた絆でさえも、時間と空間、また生きる方向性の違いによって別々の道を歩むこともあるのです。

それが間違いだったのかどうかは誰もわかりません。自分自身が生き方で証明するしかないのです。
私の人生はそんな出会いと別れを自分の人生のターニングポイントでくりかえしてきました。

その時は自分はなんて冷たい人間なんだろう。人間失格ではないかと自問自答して眠れない日々を過ごしたりもしました。
でも振り返ってみると正しいとは言えないまでも間違っていなかったことは事実だと思います。

この世で生きることは汚れもしなくて生きていくことなどできないのです。恐ろしいのは汚れているのにそれさえも気付かない人。
汚れてしまっているのを自覚して生きる私はまだ不合格にはならないところでとどまっています。

過ぎた過去をなげくよりも己のこれからで過去を塗り替えていくべきです。マイナスが多くあったのならプラスでそれを埋め尽くして借金の返済をしていけばいいのです。

金持ちから少しづつ貧乏になっていくよりも貧乏から少しづつ金持ちになっていく方が生きていて楽しいはずです。
ある程度の年齢の方とお話しをするときに明日食うものがなくて困った時代が懐かしいなんて話をよく最近聞きます。

いつでもそんなハングリーさを忘れずに石けんでこすっても消えない汚れを他の人への優しさにかえて生きていこうと思います。
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輪廻

人には出会いがあり、別れがあります。どんなに親しい魂の間柄でもこの世の法則の上で別れは訪れるのです。

私は死は生と同じにこの世の中の出来事でとても尊いものだと思います。子供が生まれた時に産婦人科のドクターや助産師さんが本当にありがたく思えました。それはこの世に生をもって産まれてくる赤ちゃんがとても輝いた尊い存在だからです。
それと同じようにこの世を旅立っていく人も現世に生きる私達には同じ人間でもまるっきり違う尊い存在に感じられるのです。

日本の古代は人がなくなれば山に運んで鳥葬しました。それは忌み嫌うべきことと実生活から遠ざけたのもありますが山が神聖な場所として人々に信仰されていたからです。その神仏のすまうお山に亡骸をおさめることによって魂はだんだんと山を登っていき、やがては頂上から天上に昇っていくと信じられていたのです。

まだ自分たちが体験していない死。先にこあの世を去った存在はそれを知っている。自分たちはその恐ろしさもある意味、この世の呪縛からとき離れた悦びもまだ知らない。

生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し

お大師様の有名な言葉です。私達はこの世とあの世を行き来しながら魂の修行を続けている。しかしいったいどれだけの人がその本当の意味を知っているだろうか。
ただ生まれて死ぬの繰り返しの呪縛から離れて、魂の永遠性を悟った時に生と死の苦しみからはじめて解き放たれるのである。

神聖なものはただ綺麗ばかりとはいえません。陰と陽の、プラスとマイナス、悦びと悲しみ、生と死。
相反するからこそ、直線でなく円につなげることにより完成された状態をそこに生み出すことができるのです。

私達は死から逃げずに生きなくてはなりません。
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ありがたくなる

私たちの身体には未知なるエネルギーが存在しています。そのエネルギーにどう向き合うか、それが人類の進化のカギになるのです。

仏教ではそれを智慧の蔵といいます。虚空蔵とも。虚空蔵菩薩という仏様の真言(呪文)を百万遍、きめられた期間にきめられた作法にのっとって唱え続けると一回聞いたことは二度と忘れない、そして内なる智慧の泉がどんどんと湧いてくるようになるといわれているのです。

弘法大師様はこの虚空蔵求聞持法を室戸岬の洞窟にこもって海にむかって行じ、明星が口に入ってくる不思議な体験をして虚空蔵の智慧を感得されました。
私もこの行をいつか本山でさせてもらおうと若い頃から日々精進してきましたがとうとう出来ずじまいで今にいたります。
日々の生活に追われて、家族を養わなくてはいけない私にとって長期間の行はできるはずもなく、心残りというよりも「もういい」と諦めてしまったのです。

しかし結果が得られなくてもそれを目指したことはとても意味があることだと思います。毎日、毎日滝に打たれる中、凍える身体にかつをいれながら必ず虚空蔵求聞持法を修するんだと自分に言い聞かせてきました。十七年、お寺にいる間行ってきたことは知らず知らずのうちに今こうしている強靭な自分をつくりあげたのでしょう。

今の自分はとても虚空蔵菩薩様の智慧を身に着けたとはいいがたい状態です。でも人生まだまだ続きます。行ができないにしろ、少しぐらいありがたいお坊さんの雰囲気が醸し出せるように頑張っていくつもりです。
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国体の流れ

最近はメディアの偏向報道にあきれてもっぱらラジオです。ラジオの方が耳にリアルに入ってくるような気がして安心感があります。
だいたい報道だけで人心を操作できると考えている方がおかしいのです。そういいながらそれに少し乗っかってしまっている自分もなんだか悔しい気もしますが現実に何かが起こった時にようやく日本人の心が目覚めるのでしょう。

また口だけの平和主義者への文句になりますからやめておこうと思います。心から日本の国を愛していますといえる人よりも日本よりも他の国を愛して日本は二の次という人がこの国のいたるところを牛耳っているのだから仕方ありません。

今日は娘のキッズダンスの発表会でした。嫁に電話で聞いたらとびぬけてうまかったみたいです。それはそうです。この短期間限定の講座の上の発表会のためにうちでは本気モードでどれだけ練習したことか。明らかに他の講習の時だけ頑張っている子(もちろん家でも練習した子もいたと思います)とは練習量が違います。
家に帰ってビデオを見るのが楽しみです。

毎日雨の日も風の日もマラソンの練習をしているせいか一日のハードな頑張りよりも日々の努力の方がいかに信用できるかが身に感じてわかります。

これからの日本も一時の流れみたいなものよりも地に根をはった国と国民が一体となる状態が何よりも信用できるものだと私は思うのです。。
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悲しい別れ

今日は私と同じ年の方のお葬式でした。私がお勤めではないですが最初の打ち合わせから最後まで携わっていたのでいつもにない心に染み入るものを感じました。

故人は前日まで仕事をして体調が悪いと早く仕事をあがったそうです。もともと糖尿病を患っていて身体はすでに丈夫とはいえませんでしたが死がこんなに早く訪れるのは本人も周りの家族もけっして予期はしていなかったでしょう。

若い頃の元気な写真をみると彼の表情にはやがて訪れる死の因子など微塵もかんじられません。それよりも普通の人の倍くらいのエネルギーを感じられます。くったくのない笑顔には生きているとうことだけが伝わってくるようです。

高齢の両親には本当に辛い別れになりました。気丈に葬儀を取り仕切っていましたが本当に今にもしゃがみ込んで声を出して涙を流したいはずだと思いました。

「もしあの時日曜日でも無理して救急で医者にかかっていれば。死ななくてすんだかもしれない」

そうお母さんは話していました。
葬儀が終わって後飾りの道すがら、つい最近まで故人が存在していたその場所に彼が存在しなくなった事実を頭に巡らせながら車を走らせました。

やはり人は親よりも早くこの世を旅立つべきではありません。ただそれが運命であるとなれば誰も避けようにないことなのかもしれません。
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