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生きる。そして死。

昨日、新聞で面識のある若者が交通事故でなくなったことを記事でしりました。彼が小学生の頃か会えば「元気かい!?」と声をかけるようなかんじだったので、なんだか何とも言えない寂しい気持ちになりました。まだまだこれからいくらでもこの世で生を輝かせたはずなのに。

人の一生とは不思議なものです。いつも生きとる死ぬは壁一つ向こう側の世界と思ってきましたが、本当にそう思えます。どうしても生きている私達はこちら側の目線で考えるので、「死は忌むもの。遠ざけるべきもの」と考えがちです。でも生きると死ぬは確実にセットなのです。
この世に「オギャー」と生れた時から、生の喜びを家族で祝っている最中、死は同時にその時までの時間を刻んでいきます。変えられない運命としてその人に組み込まれたチップのようです。生れる前は自分の人生はこの期間、このようなことをして、そしてこのように生を終えるとある程度、わかっています。しかし、生後あの世での記憶はこの世に出る約束通り消去されるのです。
私達はそれを知らずにこの世で生きることに努力します。もし、死がいつ訪れるかが解ってしまったら修行にならないからです。
私が高校時代、はじめて人生の師に初めて出会ったとき、試すつもりで
「先生は未来のことをある程度、見通せると聞いたのですが、私いつ死ぬかわかりますか」
と尋ねたことがあります。先生はにこやかな顔つきが急に厳しくなりこう答えました。
「私は人の未来を明るい方向に導く為に、この仕事をしているのであって、死という未来を人に話し、その人を暗い気持ちにさせるようなことはけっしてしません」
私も若さからバカな質問をしたと後悔しましたが、その後先生の導きで生死を分ける精神の病は克服できました。

悲しいですが、その人にはその人の人生があります。死ですべてが終わるわけではありません。永い永い魂の修行の節目、節目にすぎません。どうか若くしてこの世をさった彼の魂も前を向き、一歩一歩前進してほしいと心からお祈りしたいと思います。
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その時

その時はいつ来るかわかりません。それは別れであったり、人生における敗北であったり、悲しみであったり。
今こうしていられることが当たり前のように私達は生活していますが、東日本大震災の時のようにまるっきり普通で亡くなる可能性は十分にあります。苦しみや悲しみは避けよう避けようと思えば思う程、どんどん近づいてくるものです。反対に覚悟を決めたその時に、その存在が自ずと遠のいていきます。
以前観たテレビ番組でとても印象に残った場面があります。
ある人の経験ですが、東京大空襲で何もかも焼かれて打ちひしがれたその人の近くで、親族も犠牲になったであろう近所の婦人が空を見上げて一言「生きていれば、また何かいいことあるさ」と語ったことで、人間の生のたくましさに心が動かされたと述べられていました。
その時は誰もけっして望んではいません。しかしいざ、私達が自分自身の人生に翻弄されたとしても、生きていれば再び新しい風を感じることが出来ると私は信じています。
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選択枝

現在、学校に行けない子供が12万人いるそうです。その悩みはさまざまだと思いますが、テレビ番組で興味深い意見をコメンテーターの方が述べていました。
それは現在の学校は「勉強のできる子」、「部活のできる子」、「友達づくりうまい子」の為にあるようなものだ。
という意見です。たしかに的をえていると思いました。一見、子供たちの前では先生は平等にふるまっているように思えますが、学校の教育基準の中に成績の向上、スポーツの向上が第一目的でもりこまれてりるかぎりは目指す流れはきまってきます。先生同士の中でもそういった方針にそぐってないとみると上からの押しつけがあるみたいですから致し方ありません。
さて社会に出て、学校時代の教科書のどれだけを有効に仕事に活用できているでしょうか。多少学力の違った同士でも、仕事に対する熱意、対応力、コミュニケーション能力に長けている方が活躍できるはずです。またそのいずれかが劣っていても長所をのばすことにより、社会の一員になれます。スポーツは精神力を高めることで有効ですが、社会にでて足の速さを競うこともなければ、遠投をすることもありません。格闘力にすぐれていればガードマンには適していますが、こちらから先に手をあげれば傷害罪で訴えられてしまいます。

義務教育は中学校までですが、それに未成年期の高校時代もふくめて学校で教わることは意外に閉鎖的で幅の狭いものであるとも考えられます。番組では学校と家庭の他に第三の居場所をつくるべきだと述べていましたが、確かに今の教育の中ではそれが一番の解決策になるでしょう。
フリースクールや教育支援のサポートセンターなどがそれにあたりますが、一番重要なことが学校に行けるようにすることではなく、社会に出られる素養を身につけることだと思います。社会に居場所がなこなることが一番の問題です。そこでやはり人間性の確立が一番の解決策だと思うのです。学校も、もちろんそれを学ぶ場所ですが「心の教育」ができないことは残念なことです。道徳も授業に組み込まれたようですが、「心の教育」は教科書で教えるようなものではなく、心に訴えかけるものです。その道のプロフェッショナルも必要だと思います。
最近、鎌倉市の図書館の職員のインターネット上の発言が話題になりました。「学校に行くのが死ぬほど嫌な人は図書館にきてください。面白い本をいっぱい用意してまっています」このような内容だったと思います。この発言が学校ばなれを助長させるというのではなく、プラスの意味にメディアもとりあげてニュースにながしたことに今の学校教育の限界の確実がうかがえたように感じました。
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肉体

私達のこの肉体は魂が抜ければ単なる生物にすぎません。その上、人間は60兆個の細胞で作られていて 、6か月で全ての箇所の細胞が入れ替わります。自分達がこれが自分と思っているこの肉体は、つまりあまりにも不完全な常に変化をしている物なのです。
私は仕事がら遺体に接する機会は多くあります。その際、必ずドライアイスをあてて荼毘にふすまでの遺体の劣化を防ぎます。しかし人の身体は生物ですから、なくなり方にもよりますが死臭がしてくるのはやもえません。その匂いはおならに似たガスのような匂いです。不謹慎かもしれませんが、皆亡くなれば肉体は遺り、こうしてすべての人が避けえない現実というのがあるのだなと思います。

お釈迦様のお弟子さんがある悩みを師に打ち明けました。
「私は心の修行をして悟りを得ようと仏門に入ってきました。しかしどうしてもある人への愛欲だけは心から追いやることができません」
その女性は絶世の美女といわれた美貌の持ち主でした。彼女は美しさの他に品格も備え、在家ながらお釈迦様の教えも深く学んでいました。
しかし残念ながら、しばらくして彼女は病にかかりあの世へと旅立ってしまいました。当時のインドでは亡骸は鳥葬といって、そのまま野外に放置して葬る習わしでした。
お釈迦様は彼女を慕っていた弟子にこう言いました。
「放置された彼女の遺体がどう変化するか、よーく確かめなさい。お前がどうしても手にいれたかった彼女の肉体は不完全なものであったことがそこで分かるはずです」
その弟子は遺体が変色し、ガスで膨張してから腐敗していくのを心の葛藤の中で眺めました。
そして本当に愛すべきは彼女の肉体ではなく、魂の光であったことを悟ったのです。

この話は凡人である私には素直に受け入れられないふしもありますが、もし永遠に変わることのないものを自分の真心で悟ることが出来たら、この世で生きることが楽になるように思えます。
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家庭と波動

汚いと綺麗は相反してはいますが、人によってその基準はまちまちです。仕事がら沢山のお宅に参らせていただいているので、自然と玄関を入った瞬間にその家の雰囲気みたいなものが感じます。
また特に匂いはその家庭ごとにそれぞれです。いやに思わないでほしいのですが、どうしても神棚・仏壇の祀り方、床の間、飾ってある額や写真、居間などの状態に目がいってしまいます。ずいぶん物であふれているなーなんて。
多分、家には家族の他に、先祖もいて他人とは違う独特の電磁波みたいなものがあるような気がします。もし、綺麗で整頓されているお宅でも先祖の供養がおろそかであれば、霊的には汚れた状態です。反対に物が溢れていても、お仏壇がきちっと供養されていて、要所要所がかたずけてあれば霊的な波動は清々しい心地よいものになるのです。

現代人は何か勘違いしているのは、お金をかけて着飾り、立派な家を持ち、高級車を手にいれても、霊的な波動を整えようとしなことです。そんな方は傍からみても、魅力にかけ、家の中は綺麗でもヒンヤリとしていて、効率よく物を所持していない傾向があります。

また、霊的なことをきちっとできている人は充たされない中でもなければないなりに有効にすべてを活用できているように感じます。人はいつも足元を見て何が一番大切かを省みなくてはなりません。それが正しければ、必ず神仏のお導きが得られるのです。
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