一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
夢
娘の作文を読んだら夢は小説家だと書かれていました。それで現実と夢のギャップに苦しんでいると。
確かに子供の頃から小説を書くことが好きな子でしたがそれを将来の職業にすることはまた別の話です。
私が娘の年齢の頃はそれほど明確な将来を考えられませんでした。もちろん僧侶になるなんてことはまったく思っていなかったのです。
よく町を歩いていると宗教の勧誘みたいな人が話しかけてきましたが強い拒否反応がありました。
両親も特別に信仰熱心だったわけでもなく、なるべく触らぬ神にたたりなしではないですがあたりさわりなく過ごしてきました。
それが高校三年の時にあることをきっかけに急に吸い込まれるように仏教に入信していきました。新興宗教ではなかったのがよかったのかもしれません。私の心身がまるで水を得た魚のように覚醒していったのです。
そう考えるとそのきっかけも入信もどこか必然だったようにも思えてくるし、将来を語る上ではそのようなことが人それぞれやってくる可能性があると思えるのです。
それが人生のどのタイミングでおこってくるかは誰にもわかりません。しかしまるで運命のようにそうになってくる。
何もかもが見えない縁でむすばれているのです。そしてその縁は今世のみでなく来世においても過去世においてもつながっていきます。
私は自分のブログを将来娘が編集してくれるのを夢みています。
少しだけの真理
よく今の自分ならこうするのにと過去の自分の行いを後悔することがあります。でもそれは仕方のないことなのです。
つまり答えをしりながら試験を行うようなもので現世ではそれは通用しないのです。
もし、あの時こうしていれば。
そう思うことなんていくらでもあります。でもすべてはたらればです。
紆余曲折をしながら良いことも悪いこともたくさんあって良いことが少しだけ上回っていたからこの結果につなげることができたと金メダルをとった選手がのべていました。
真理だと思います。良いことも悪いこともたくさんあって少しだけ良いことが上回ってあの世へと旅立てれば。
それに越したことはありません。
だから悪いことがおきることを怖れずにこの世を生き抜かなければなりません。
それがこの世を生きる真理だと思います。
応援する人
あの少しだけスポーツをかじった私からしたらオリンピックに出ている人の練習量と鍛錬は半端ありません。
それでその選手が思うように実力を発揮できない。最後の最後にミスをして負ける。
確かに応援している側からすればすごいストレスで納得がいかないかもしれません。誹謗中傷もしたくなるのも人間の悪い癖でしょう。
ただ言いたいのはどれだけ頑張ったかを知っていますか。あなたにそれが出来ますか。
そもそも応援しているだけの人間にそこまで言う権利があるのですかということです。
昨日の男子バレーだってほぼ勝ったと思って負けたもんだから納得いかないのも当然です。
ただなんだか私のようなにわかファンはいいかげん言う権利なんかないと思います。
それでも毎日メダルのことが気になって仕方ない私。どうしようもありません。
満たされずにいれば
よくあるあるが一番テンション高くてよく身体が動いた次の日が体調を崩してしまうということ。
格闘技とかも身体が軽くよく動く試合にかぎって大けがをするものです。
人生も同じかも。
少し不自由で不満がある生活の方が安泰で、満たされている生活はかえって危険なのかもしれません。
今日はよく身体が動いたので用心しようと思います。まだまだお盆が終わるまでには日にちがあるし、コロナなどの病気がはやってきているのも事実です。
毎日、オリンピックを見ていると自国開催で有利な心配にモヤモヤします。
でも柔道の団体戦で大逆転で負けてしまった日本の選手をなんだか同情してしまうのもあきらかにアウェーだからかもしれません。
よく金メダルをとって選手としての目標がなくなり苦しんだ話を聞きます。
そうなると銀メダルは金メダルよりも未来的に価値があるのかもしれません。
少し柔道のこともチェックしていきたいと思います。
夏空
今日は大切な人の四十九日でした。それで思ったのです。上がっていく。空に昇っていくと。
よく大切な人のことを思う時に空を見上げます。それはけっこう霊的には当てはまった行為なのかもしれません。
車を走らせながら夏空を眺めました。夏の空と雲。何か私にうったえかけてきているようにも感じました。
生きる。生きて。それで忘れないで。ともに生きる。
あれだけ暑さで嫌になる夏空がまるで母性のふるさとのようにも思えました。
私はこうして生きている。生きなければならない。
人の魂は永遠です。旅立った人の一番の供養は忘れずに思い続けることです。
今日が晴れた暑い日でよかったと思いました。
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