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懐かしい

今日はお休みでいつものように山に走って登りました。そうしたら調度この前あった法螺貝行者さんに会いました。この前は挨拶したのにそっけなかったのですが今度はとてもフレンドりーに話してくれました。

一般人として仕事をしながら行をして易学も学び人助けをしているとのこと。ほぼ毎日登っているそうです。持っている法螺貝をふかしてもらいました。いい音がしましたが、高音がなかなか出ませんでした。なんだか恥ずかしかったです。吹きなれない法螺貝だったからかもしれません。それでも少し同じ匂いのする人と出会うのは嬉しいものです。また縁があればお会いすることでしょう。

走りながら思ったのはもう戻れない過去がとても懐かしいということでした。特に中学生時代、学校の勉強や部活でなかなか自由がない日々でしたが青春というか胸が締め付けられるような思い出があります。

父や母も忙しく働いていて私はとにかく勉強が仕事でした。今思えばまだ子供の狭い世界の中の生活でしたが希望や夢にみちあふれていました。どんな仕事をするのかも漠然としていて、目に見えるもの体験するものも新しいものばかりで。

「あの頃はよかった」

それは今があるからこそそう言えるのでしょう。今が安定していなければ過去をそんなふうに懐かしんではいられないはずです。
そして私の今は過去を振り返りながら修正する能力があります。私の今はそんな過去があるからこそ踏ん張りのきくものになっているのです。
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行ずる

どうしたのでしょう。最近の私には以前のような「私はお坊さんだ」みたいな雰囲気が感じられません。前は調子にのってすぐに「お坊さんだから」と自分をアピールしていましたがなんだかそれがなくなってしまいました。

その代わりというのもなんですが自らを追い込むことに目覚めてきたみたいです。もともと私の信仰の先生に言われたことがあります。

「あなたは宗教者ではありません。行者です」

行者とは己が修行することによってようやく人の役にたてるのです。宗教者とはそこまでのことをしなくても人を救える人のことを言います。
私はそう言われた時に「自分らしい」そう思いました。

信仰の道に入ったのは自らが救われたいからです。そうでもしなければ生きていられませんでした。
偉いね。若くてそんなに信仰をもつなんてと言われがちですがそうではありませんでした。とにかく自分がもたなかったのです。そうでもしなければ息をすることさえも苦しくてなりませんでした。

私は不動明王を信仰してまるで水を得た魚のように輝きはじめました。まだ僧侶になるとかそんなこと以前の精神がようやく安定しつつあった時にこうも先生にいわれました。

「あなたは不思議です。お不動様のパワーは普通の人よりもどんどんスーと入っていくみたい」

今思えば僧侶になるくらいだからそれだけの資質があったのでしょう。
でもその頃と僧侶になって20年の私は信仰の本質は何も変わっていません。

苦しい、救われたい、進むんだ。負けるか。

あれ、気が付いたら誰かの役にたてているみたいだ。

私はどうも綺麗な衣よりも行者服の方が似合うみたいです。
これからも自らを追い込んで行じていきます。
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至福の時

気持ちがいいと感じる時はどんな時でしょうか。

人にやさしくされた時。

自分の存在をだれかが喜んでくれた時。

人の役に立てた時。

そして自分のことをとても愛おしいと思えた時。

日々、生活している中でそうは気持ちがよくなることはありません。それはおいしいものを食べたり、娯楽に興じたり、愛する人と一緒にいたりすれば気持ちがいいでしょう。私なんかも豆大福を食べた時はなんとも言えない至福を感じることができます。

しかしそれは長続きしません。一時の気持ちよさです。
たとえ何年もかけた目標に到達したとしてもその時点で気持ちよさは少しづつ頂点から下っていきます。たどり着いた瞬間に別の登るべき山が現れるのです。
だからこそ、魂が磨かれるそんな気持ちよさがとても大事なのです。
少しありきたりですね。

私にとっての気持ちよさはそうだなー。基本一日を終えて床に就いた瞬間かもしれません。死んだばあちゃんがよく言ってました。

「寝るのが一番いいやー。一番幸せだやー」

まあ、労働のあとの睡眠は格別です。でも一瞬で朝が来てしまいます。

今日もその瞬間まであとわずか。お疲れさまでした。
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しばらくこのままで

忙しくしていると我を忘れます。しかし私の場合この前の車をぶつけたせいでなんだかどうでもよくなってしまいました。どうでもいいとはなんだか聞こえが悪いですが、自分を焦らせていた身体の中のリキミが吹っ飛んでしまいました。

あまりなんでも自分でするのをやめました。そうすると周りがいかに自分にとって大切かがわかるようになりました。一人で威勢がいいだけで実はやれていることがたいしたことがなかったように感じます。
実は自分にしかできないことがあるのです。当たり前のようですがこれも結構大切なことです。それをきちっとやってからのプラスアルファと思えばいいと思います。何故なら自分にしかできないことはとてもありがたいことですから。

仕事はなんでも効率よく勢いで頑張ることは大切です。気が張っていないと怠けてしまいます。でも長距離ランナーのように地道に進んでいく働き方でもけっこううまくいきます。
自分が頑張っていると思っているときはどうしても自分自身がわからなくなってしまうものです。自分が頑張っているのを客観的に褒められる余裕がある方が自分にとっても他の人にとっても心地よい自分になれるような気がするのです。

まあ、これから再び気合いにみちて暴れまくる自分に戻ってしまうかもしれませんが今のところはしばらくこのままでいたいと思います。
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迷惑をかけないように

時々こう思います。早くこの世の修行を終えてあの世に行きたいと。

またこの世とはどんなに素晴らしい世界だろう。ありがたいと。

心の中でいろいろな思いが交錯してこうして今日を終えようとしています。不思議なものでどんな素晴らしい一日もどんな最悪な一日も、ありふれた一日も平等の感覚で時は刻まれていくのです。まるで私達の喜怒哀楽を大きな時間の波で飲み込むように終わってみればそれはそれで普通に流されていきます。

私の生は昭和40年代にはじまり、このままいけば平成40年代頃に幕を閉じるのでしょう。それがいったいどんなことなのか。私にとってはやり終えた卒業式みたいなものなのか。はたまた恐怖と不安の中それを向かい入れるものなのか。どうなるのかはわかりません。

でもどちらにしろその時を迎えればそれはそれでごくごく自然におきて自然に私という存在の思い出は流れていくのでしょう。そしてもっと時がたてばその思い出もこの世から亡くなっていくに違いありません。

今はこの世から縁ある人達に直にお役に立てることができます。あの世にいったら、どんなに役に立ちたくてもその範囲は限られてしまいます。

やはりもっとこの世で頑張らなくてはなりません。それは自分の為もありますが家族や他の縁ある人たちのためです。

精一杯迷惑をかけないように頑張ります。
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