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人間だもの

私は僧侶ですが肉、魚も食べて結婚しています。多分、日本の僧侶は海外のお坊さんからすると、「肉、魚も食べて、おまけに結婚もしている日本の僧侶は、僧侶ではない」と言うと思います。私もその通りだと思います。親鸞聖人様はまだ僧侶の妻帯が稀有であったころ、妻帯をし、愚禿親鸞と称し、自分はお坊さんでも一般人でもない愚かな存在とした上で布教しました。そこには自らが特別で高貴な存在であるという思いは微塵もありませんでした。私のような者でも、阿弥陀如来様は救ってくださる。ならば皆さんは当然の如く、阿弥陀如来様に救われますと。
法然上人様のもとには貴族から武士、農民、商人、遊女までなりわいや位ぬきに人々があつまりました。遊女が法然上人様にたずねました。「お上人様、私のように穢れた人間でも阿弥陀如来様は救ってくださるでしょうか」。法然上人はこう答えました。「今のそなたの生活は前世からの因縁によるものである。できれば今の生活を止め、普通の生活に戻ったほうがいい。しかし生きていく為、それも無理であるならば今のままとにかく阿弥陀如来様を念じなさい。それでも阿弥陀如来様を念じれば必ず救ってくださります」。遊女は涙を流し教えに感謝しました。
人間には誰が上だとか誰が下だとかはありません。偉くなると人になにかをしてもらうのが当たり前になります。先生なんて私の時々言われることがあります。お坊さんだから尊敬の念をこめて先生と呼んでくださるのでしょうが、名前で呼んでくださいと断わります。私の日常をみると普通の人となんら変わりません。むしろそれ以下のことも多数あります。相田みつをさんが人間だものと素晴らしい悟しをを遺されましたが、普通の人間ならばみんなあまり変わらないような気がします。しかし因縁にふりまわされないで普通に生きるのは本当に困難です。だから神仏を念じて生きていきましょう。

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金木犀

秋のこの時期は金木犀の香りがとても心地いいです。夏でも春でもない。空気が乾燥して、朝夕ひんやりとした風の吹くこの季節ならではの香りです。あまり心地いいので学生時代、ポッケに花びらをいれて登校しましたが、そうなると香りはまるっきりしなかったです。やはり木と花と空間と香りがそろってこその金木犀でした。
奈良の室生寺と言うお寺があります。女人高野と言われていてとても素晴らしい霊場です。ここの五重塔をご存じでしょうか。仏教を好きな人なら必ず写真か何かで見たことがあると思います。それが行かれれば分かるのですがその塔はすごく小さいのです。驚くほど。しかしあの伽藍の配置、そして木々、自然の傾斜で何処の塔にも負けないくらい立派に見えます。なにが言いたいかと言うと、やはり人間はまわりの繋がりが大事だと思います。適材適所と言うように人にはその人にピッタリの居場所があるものです。よく野球選手がトレードしたら急に活躍できなくなったとか。違う会社に移ったら以外に実力を発揮できないとかよくある話です。
もし自分の居場所を移る時は欲心抜きにそちらに行ったほうがなんだか明るく、楽しいような気がすると思えるかです。我慢してずーと自分の実力を出せないのも反対に良くないことです。逃げなのか本当に行くべき方なのか、その見極めはとても重要です。
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噴火

この度、長野県の御嶽山(おんたけさん)が噴火しました。なるべく多くの被災者の方々が救助されることを切に願います。また命を落してしまった方の魂の冥福をお祈り申し上げます。
まさしく自然は恐ろしいです。そして私達はあきらかにその自然によって生かされています。古来、人は山を神と崇めました。自分達の住む平地から見る山は、大いなる自然を具象化した存在です。見ているとなんだかありがたい気分になってきます。耕地に雨を降らせるのも山の神とされ、農作物の豊作を念じました。また滅多に入山しない山は亡くなった魂が上っていくとも考えられました。山中他界観と言います。木々の生育が豊かな、温暖で雨量の多い日本の山は、登山家に言わせても外国の山にはない魅力があるそうです。標高や大きさでは外国の山が優っていても日本の山にはなんだか言いようのないありがたみがあります。
以前あるテレビ番組で戦時中に硫黄島に爆撃に行ったパイロットの方がこう話されていました。もう米軍による猛攻撃が繰り返され硫黄島の爆撃は、命を失う可能性の高い極めて難しい攻撃でした。数えきれない対空砲火と敵機の攻撃を潜り抜け、海面ぎりぎりの飛行の末、美しい富士山の尊容が視線の先に確認できた時、「あー日本だ。生きて日本に帰ってこれたんだ」と涙が止まらなかったそうです。
富士山を代表とする日本の山は今回の御嶽山と同じように生きた活火山が多数存在します。日本はまさに世界の7%に当たる110の活火山を有する火山大国です。この日本列島は霊的世界の龍神が大地になり、地球の大地のエネルギーが放出し続ける特別な国だと言えます。
御嶽山の噴火は地球の神からの警告的なメッセージだと考えれば、生かされているだけでありがたいと思う時代の到来の予感がします。
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運動会

今日は娘の運動会でした。とても天気がよく暑いくらいでした。ようやく自分もわが子の運動会に気合いを入れる世のパパ、ママの仲間入りをはたしました。今まで何とかビデオカメラを買わず、デジカメのムービーで済ましてきましたが、前日に新型のビデオカメラを購入しました。何とも性能の良いこと。鮮明な映像、ピンポイントのズーム、軽量、バッテリーの長さ、防水。高額出費は家計には本当に痛いですが少なくともマンモス幼稚園なので、このカメラなしではいったい子供がなにやっていたかは分からずじまいになるところでした。臆することなくビデオ席の前列に陣取り、カメラを回し続けました。娘のかけっこは結構速かったです。自慢。
その前になんとも驚いたのは、パパ達の席取りに対する執念でした。知り合いのパパは夜中12時半から正門前に並んだそうです。しかしその時刻でも6人は前にいました。いったい何時から並んだのか。そのパパはさすがに夜は寒くて眠れなかったそうですが頭が下がります。彼等がどうしても陣取りたかったのは太陽の日差しを避けることができる快適な屋根のある空間でした。私はまったくの初心者ですから門が開く午前6時の15分前にいきました。長蛇の列でした。それでもなるべく前にとシートをひきました。まあまあの場所でしたが、とにかく暑かったです。もう一人の友達のパパでさえも4時半に並んだそうです。来年は気合いをいれようと思います。
親子参加の競技・綱引きには自分なりに気合いを入れていきました。この日の為に上下アディダスの半パン、シャツを用意しました。毎朝走ってきた私には何かしら活躍できる自信がありましたが、クラス対抗なので優勝は出来ませんでした。家に帰ってお風呂に入ったら綱引きで気合いを入れた証に胸のあたりが赤く綱で擦り切れていました。ビデオで確認しても笑えるくらい年齢不詳のスキンヘッドを帽子でかくしたおじさんが、がんばっていました。
子供の競技は見ていて自然と目頭が熱くなります。特にリレーなんかは遅い子も速い子も一生懸命、力をふりしぼって走る様は感動的です。みんなまだけがれていない純粋な魂。この子達の未来が幸多からんことと願わずにはいられませんでした。
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天上天下唯我独尊

これはお釈迦様がお生まれになった時、七歩歩いて人差し指で天と地を指さし話した言葉とされています。意味を勘違いして傍若無人に自分がすべての世界で一番偉いのだと解釈しがちですが、違います。この世の中の生きとし、生ける存在すべてが個性がある。その一つ一つが無二であり、かけがえなく尊いという意味です。生れたばかりのお釈迦様が世の中に不平等なことがあってはならない。(当時インドは階級制でした)私は世の中にそのことを広めに来たという意味です。
今、仏教がうまれたインドはほとんどの人がヒンズー教です。お釈迦様はヒンズー教の尊いこの世に生まれた神として取り込まれ、一部になっています。現在でも階級制の社会です。生れた時から身分が決められ、優秀であっても社会で活躍できる範囲は限られてしまいます。では仏教は何処にいったのでしょう。民衆化されていない古来からの仏教はスリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどのアジアの国に広まりました。僧侶中心の仏教です。民衆化された仏教はブータンやチベット、中国、朝鮮、日本に伝わっています。純粋な仏教国であるブータンとチベットを除いて人口の多さと比率では日本がだんとつの民衆化された仏教の大国です。民衆化とは簡単にいえば、特別な修行をした僧侶でなくても、一般社会のそれぞれの場所で一生懸命、自分の生業に励めば仏の心にかない、悟りを得ることが出来るとした仏教の教えです。
『山川草木悉有仏性』 生きている生物、石など生きていない物質でもすべてに仏の魂がやどっているという意味です。まさにキリスト教やイスラム教にはない、仏教ならではの教えです。この仏教の教えと自然豊かな日本で育まれた、自然崇拝、八百万の神=万物に神が宿っていて自然も自分も神様の一部であるという教えはうまく調和、融合して日本人のDNAに深く刻まれて、私達の人格を形成しているのです。
日本人は仏様に選ばれた国なのです。他国にない特別な感性があるのを誇りに思うべきです。
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