一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
アドレナリン
いよいよ盆月に突入です。暑さと忙しさでリミッターカット状態になります。
いつも9月になってから自分なんであんなに働けたのだろうと思い返すのですがやはりお盆独特のエネルギーがわいてくるからでしょう。
この月になるとあの世の窯の蓋がひらきます。現世に霊が身体をもたずに沢山あふれだすのです。
どこかいつもと違う高揚感。広島、長崎に原爆が投下された日。日航機が御巣鷹山に墜落した日。終戦記念日。
心で霊を供養しながらあっという間にお盆を通り越していく。
まるで電車にのって移動していくように。
ただ油断すると大きな事故をおこしかねないので注意しようと思います。
しばらく夜の練習はお休みです。お盆に集中しようと思います。
円いお月様
目の前にもとめていたものがあっても見れない人は見れない。気付くことができない。
人は本来、もとめているもののほとんどをすでに得ている可能性があります。気付かないだけ。気付こうとしないだけ。
お月様は円く奇麗に輝いています。でも雲がかかるとそれが見えません。しかしあることは事実です。
ただ隠れているだけ。
人の心も同じように本来丸く、煌々と光り輝くものなのです。自分なんかと人はすぐに自分自身を責めますが本来は責めるどころかこんなに輝いているのだと驚かなければいけないのです。
それは修行を積んだ善人しかわからないこと。いえ、そう簡単には決めつけられません。
仏教で述べるように80歳の老人でもわからないことが3歳の子供が悟ることができるのですから。
こだわりのない、円い心。素直な心。すぐに反省できるこだわりのない自由な心。
同じものを見て「なんてすばらしい」と感動できるような人こそ、神仏に近いのかもしれません。
正解はない
答えなんてどこにもない。今の自分を悔やんでも過去に戻ってやり直したとしても多分、違うところで同じ苦しみを味わうはず。
過去を変えれたとしても因縁を変えれたわけではないのだから。
今しか私達にはありません。変えられない過去に縛られてもどうにもなりません。
まだ来ない未来を憂いても今が意味あるものにならないのです。
今をどう生きるか。
一隅を照らせ
神仏は必死に生きる人間をとても尊びます。その結果に関わらず必死さを尊重するのです。
人の価値とは無心になって生きる。無我夢中で今を頑張る。そこにあると思うのです。
答えは何通りだってあります。もちろん正解はあってないようなものです。
今日を無事終えられたら、明日に備えることです。
きっと自分の頑張りを誰かが見ているに違いないのです。
投射
オリンピックがはじまりました。不可解な判定がネットをにぎわせています。人間がすることだから仕方ないかもしれません。
オリンピックにむけてどんなに努力をしたとしても結果がなかなかついてこないのはさぞ悔しいことでしょう。
でも凡人の私達からするとオリンピックに出れるだけでも奇跡だと思えてしまいます。
金メダルをとることばかりをとりあげてしまいますが負けの美学もあることを忘れてはなりません。
判官びいき という言葉があるように人は逆境に打ちひしがれてもなんとか立ち直っていく姿を応援したくなるものです。負けたとしても心の中で同情しているのが人間です。
ただその後をみたいと思うのも事実です。次の大きな大会で活躍しているとしたらこの人は本当のアスリートだということを証明したことになります。
ほんの少しの何かで勝ち負けがきまる。
人はそこに自分自身を投射して感動するのかもしれません。
是非、国民のためというより自分自身のために悔いなき戦いを期待します。
一人でない
うまくいかに時もうまくいく時も変わない気持ちが大事だと思います。たんたんと生きる。
どうせ、最初からうまくいくことばかりではないし、そうやって沈んでいても時々はいいことあるのだから悲観ばかりしていられない。
朝、起きた時にあれ、今日はいいことがあるかもしれないと思えるほど幸せなことはありません。
朝が来た時にこんな朝来なければいいと思うことほど辛い日々はないのです。
良いことがあれば悪いことがある。
でも悪いことがある時はその次に良いことがあるなんて思えないものです。
また嫌なことが起きるのではないか。自分なんて生まれてこなければ自分なんてと。
もし、そんな自分でも大切に思っていてくれている人がいると気づけたら幸せです。
本当にその人にとっては命よりも大事な可能性があります。
人は一人で生きてきて一人で旅立っていきますが魂はつながりあい、重なり合い、けっして切れない縁でむすばれているのです。
その意味では一人であって一人でないのが真実だと思います。
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