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切羽詰まる

人間、何かをしなければならないと追い詰められればするほど自分が思う以上の能力が湧いてきます。この環境でこの時間でこの能力でと限定があるのはその中で最大限のことをしようと決意するので、実力が発揮しやすいのです。もし、限定がなければかえって間延びした行動しかできず切羽詰まった緊張感が失われている為、だす能力もそこそこになってしまいます。
例えば時間があるから明日やればいいやと思っていることも、何かに動かされるように無理してもやってしまうことがあります。そうすると思ったよりも効率よく、内容も濃い仕事ができることが多いです。「この何かに動かされる」という所が重要かもしれません。私は仕事がら、お勤めをして戒名をつけさせていただいてます。戒名をつける時ですが、つける前にその人の人となりや性格を親族から聞いた時点である程度、頭の中で出来上がっていることが多いです。もう脳が回転しだしているので時間をおかずにすぐに戒名つくりに取り掛かります。何かに動かされているような時は自分の私情をあまり入れない方が良いのです。それなので意外とすぐに戒名が出来てしまいます。後からゆっくり考えてもそれ以上のものがつくれないので多分これでいいのだと思います。
例えがすこし偏ったかもしれませんが、人間の人生も長ければいいのではなくその生きた人生という作品こそが大切だと思うのです。何かに動かされることが無くなった時は役目を終えたときです。以外に人はあの世へと旅立った後、自分の死に納得している人は多いのではないでしょうか。
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神仏の道

「神仏は他に在らず、自らの内にありとても近し」
もし、宗教的なことで迷いがある方がいらっしゃったらこの言葉を思い出してほしいと思います。私達の魂はいったいどこからきたのでしょうか。突然、母親のお腹の中に妊娠と同時に宿ったのなら、小さい子供が親とは違いまるっきり特性をもって生まれてくることも不思議に思わなくてはいけません。同じ両親の子であるのに兄と弟、姉と妹がまるっきり別の人格になるのは後天的なことが原因と本当にいえるでしょうか。ほぼ同じ遺伝子でも宝くじのように偶然にうまく細胞分裂ができたから優秀だというのなら、もっと性格も特性も単調になるはずです。
そうです。私達はこの世に生まれてくる前から存在していました。そして何度も何度もこの世におりてきては現世の修行を積んできました。そして最終的に魂の修行を繰り返し、神仏と一体となるのが目標なのです。何故なら私達は親である神仏から別れた存在だからです。
あの世に行くのが怖いみたいに私達は思っていますが、ほとんどの宗教者があの世のほうがすばらしい世界だとおっしゃっています。肉体の制約を受けない為、思いの波動で世界が決まります。大抵の人が地獄に行きたくないと思っています。しかし、なくなった時に今までの人生をすべて録画ビデオみたいに瞬時にみせられ、自分から選んであの世の行くべき世界に赴くので、すべては自分の生き方次第なのです。もしこの世の生き方が落第点でも、魂の修行には終わりはありません。どんな形にしろやり直しの道は開かれます。それでも賄賂や特別になどのこの世的なことはきかないので、あくまでも法則に従わなくてはいけません。
「善い行いをすればよいことが帰ってくる。悪い行いをすればあとで苦しむことになる」
神仏の道は何か常人離れした特別な教えではありません。子供でも理解できるごく普通のことなのです。しかしみなさんもお分かりでしょうが、この普通のことが実践することが本当に難しいのです。私は神仏に仕えている身ですが、こんなことみなさんに言えるほどの人間ではありません。それでもこうして役目を果たさなくては自らの因縁が消えないような気がしきりにします。プラマイ0で終われるよう一生懸命頑張ります。
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生への回帰

「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」これは、弘法大師様の「秘蔵宝鑰」という詩の有名な一節です。意味としてはこの世の迷える凡夫は生まれては死にそして再び生まれと輪廻転生のサイクルから逃れることが出来ずにいる。仏に帰依し、その教えを体得して悟ることによりのみ、その束縛から解放される。多分前後の文章の内容を含めて要約するとこんなような意味だと思います。
しかし、私はこの不思議に耳に残る詩の一節に否定的ではなく肯定的な解釈を考えてしまいます。この世の中は移り変わり、常なるものは何一つないのです。そうではあるけれど人の魂は死んでなくなるものではなく、再びこの世に生まれ変わり生まれ変わりするものです。今世の別れは永遠の別れとは違います。縁深い魂は来世またその来世と共に魂の修行を積む間柄であるから、永遠に三世を超えた愛によって繋がっていられるのです。

多分このような解釈をする人はまずいないと思うのですが、現世が常でないからこそ、儚いからこそ美しく、情感に充ちるのではないでしょうか。郷愁も慕情も不変の世界の中ではおきない感情だと思います。私の身体もたしかに一年一年、変化し老いていきます。しかし新しい世代が次から次へと生まれてくる限り、私達の生と死は無駄ではなく大きな意味があるものだと思います。
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死への準備

今回、父が亡くなったことであらためて感じたことは、人間は無常にも必ずあの世へと旅立つということです。自分の中では父は80才過ぎまで生きて少しづつ老いていき、みんなが納得してあの世へと旅立つものだとずーと思っていました。それこそ仕事人間だった父はバイタリティーがあり休むことを知らない人でした。糖尿病も患っていまいたが、インシュリンを打つほどでもなくさほど気になりませんでした。すこし元気がないなーと思い始めたのは20年続けて町会議員を辞めた頃からでしょうか。それまであった覇気が影をひそめ、急におじいちゃんになってしまいました。それでも仕事を続ける父は人並み以上には動いていました。
病気は本人も家族もある種、現実を直視することを避ける不思議な感情を芽生えさせます。つまり、必ず奇跡的に回復してなおるはずだ。これがだめでもあの方法でまだ望みがある。今思い出せば医師の診断はうわべだけの安心感とはまるっきり違っていました。医師の言う通り、父は着実に衰弱していき身体もやせ細っていったのです。そんな状態でも絶対に死ぬはずがない。本人も治る気がまだまだあるんだから。家族は父が死ぬなんて考えてはいけないと必死に自らに言い聞かせていました。
父が私の電話にでなくなったのは亡くなる10日前ころからでした。それまでは大丈夫だ。頑張るよ。とから元気でも声を聞かせてくれました。しかしその頃はもう母にもほとんど話をしなくなったそうです。家族ではない伯母にはかえって気兼ねなかったのかこう本音をいったそうです。
「姉さん、もう気力がなくなってしまったんだよ」
今思うと父は明らかに死に向かい少しづつ意識的にしろ無意識的にしろ準備していたのだと思います。お正月に帰っていた妹が本当に弱ってきたと話していましたが、日に日に衰えていくのは死が近づいてきた証拠でした。
死を否定することは生きているひとからすると当たり前のことかもしれません。しかし同じその日が必ず訪れるのならば、宗教者としてその準備に心をくだき、安心してあの世へと旅立てることができたのではないかと悔やまれます。今は私自身もよりあの世が身近に感じられるようになりました。忌むべき、とても遠くにあるものではなく、近くて大切な人がいる場所として私の生活に密着しています。これからも同じような思いをする沢山の方たちの力に少しでもなれたらと思います。
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発動

この世で起きることはまず霊的世界である程度、形成されてから現実化されます。それなのでこの世的にはどうしてもこうしたいと思っても霊的に出来上がってなくては成ることは出来ず、反対にあの世で霊的に出来上がっていたとしたら、どんな不可能もこの世的には成ることになります。

精神世界のことをいうと思いを強く念じ、ためていくことは大切なことです。塵も積もればではないですが一朝一夕には物事は成ることはありません。日々の思い、それも波長の高い正しき思いです。苦しみも悲しみもその思いに変えていく鍛錬こそが大事です。夢をかなえるのも、仕事や恋愛に成就するのも精神世界で考えるとそれに向かう前の段階がとても重要になってきます。つまり目的に対する手段ではなく、目的とは関係なく自分自身のあるべき姿がいかに神仏の道にかない、やんわりおおらかに明るいか、そんな感じが運命を好転させるポイントだと思います。基本的に誰かに喜ばれるように生きていれば間違いないです。

霊的世界から現実世界に物事が形成されるのに発動するのは汗の涙でいろどられたその人の人生によるものだと思います。
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