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金の魂

小学六年生の頃に何故か女の子に嫌われました。筆箱がなくなって数か月後に思いもよらないところから出てきたりしました。私はまだ子供だったのでどうしてこんなことが起きるのか悩んでしまいました。

またラブレターみたいなものをもらって驚いたこともありました。送り名がなくてからかわれていたのかもしれません。手作りのチョコをもらった時はうれしい反面、どうしたらいいのかわからなくなりました。どうもいろいろなことに鈍感だったので、ついていけなかったみたいです。

てれくさくてわざと冷たくいじめたりもしました。今となっては懐かしく感じられます。

どうして今日、こんなことを書いたのでしょう。子供の頃ってなんだか今よりも思い出が凝縮されています。小学校の六年と年をとってからの六年は明らかに違うのです。どちらもかけがえのない年月なのにどうしてだか子供の頃の方が切なく、淡く、キラキラしています。
あっという間に過ぎてしまうそれらの年月を、かけがえのない子供の時代をどうか今を生きる子供たちは幸せに生きてほしいと思うのです。ニュースで子供が犠牲になる事件を知るたびに心からそう念じてなりません。

子供達はいずれこの世界の未来を担う大切な大切な金の魂です。私も責任をもって次の世代のために生き抜こうと思います。
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本当は自分のために生きろ

最近、発表会が近いので自分の小学校時代のことを思い出しました。クラスで演劇をするようになった時のことです。

小学五年生の頃の私は今までにないブレイクした学年で勉強も運動も絶好調でした。もちろん、努力していたのもありますがどこか調子にのっていた時期でもありました。確か、2月の終わりころだったか3月のはじめだったか、私のクラスは演劇をすることになりました。
皆で配役を決めていた時のこと。私は自分が主役をしたくてたまりませんでした。でも友達の一人もその役に手をあげました。クラスの多数決で結局私は選ばれず、そのショックからかその後の役にも手をあげずじまい。最後に残った役、それは便所の柱でした。顔も出ず、出番も少なく、どどどどーとなわに引っ張られて飛び出します。悔しかったけれどきちっとうまくいくようにこなしました。しかし母親が喜んでいないことに少し寂しくなったのを憶えています。

一年後の発表会は何が何でも執念で主役になりました。相当、思いが強かったみたいです。また昔の子供の着物みたいのを着ての役で、今の僧侶の白衣ではないですがそれを着るのがとてもうれしかったです。

まあ、子供の頃は大人と違う葛藤がつきまといます。大人になればうやむやにできることも子供だからこそ突き刺さることもあるような気がします。まあ、今考えれば大したことないのですがその時は真剣そのものです。
話は飛躍するかもしれませんが、イジメとかで自ら命をおとしてしまう子供もいることを考えると違う世界がいくらでもその時、その後にあることを教えたいです。

一歩、枠を離れれば大したことがないのです。その中に浸かっているから溺れてしまいます。一抜けたでプールから出て着替えてしまえばいいのです。そして何あいつ、やめやがってと悔しがるの皆を外から眺めてこう思うのです。
ずいぶんと狭い世界に自分がいたことを。

学校は大勢のために方向を決めます。個人よりも多数を選びがちなのです。先ほどのエピソードのように周りを気にしすぎる私はその後、高校時代にパニック障害になったのも無理ないでしょう。
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タイムトラベル

この年代くらいになると両親が他界する確率が高くなります。当たり前ですが赤ん坊だった子供がいつの間にか大きくなるのですから仕方ありません。それだけ自分も年をとってしまっているのです。

悲しいかな、この世に生きる人間は永遠にその命を存続できません。どんなに長くとどまっても100年、夢幻のごとくです。
ある映画でタイムトリップして過去に行き、なんとか自分の運命を変えようと奔走する内容のものを観ました。確か「時をかける少女」だったか、親友が事故で命を失くさないようになんとか頑張ります。結果は確かもう一人のタイムトラベラーの自己犠牲のおかげでなんとか助かる結果でした。

よく、もしあの時こうしていたら、未来が変わったのにということはよくあります。今現在がこうであるならば、過去はもっとああしておけばよかったと。でもそれではまるで答えがわかっているテストをおこなっているみたいで意味がないのです。やはりその時その時の真の実力が試されてきます。

「言うはやすし」
まさにその通りです。どんなに偉ぶっても、言葉をならべても実際の行動一つにはかないません。

「百聞は一見にしからず」です。
私達は今をその一見をリアルタイムで経験しているのだと思います。もし未来がきまっていたとしても、その一見ぬきにして魂の成長がはかれないからです。
私達はタイムトラベラーにはなれないでしょう。しかしおおよその未来が現在に起因していることを考えれば、未来を見据える能力があること自体がタイムトラベラーだといえるでしょう。
だいたいがわかっているのです。こんな感じで生きて、毎日を努力していたらそれはそれなりの結果が返ってくるということを。
その上で受ける艱難辛苦の未来は正直、何も怖いものではないのです。
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エゴ

昨日は娘のマラソン大会でした。しかし風邪のため不参加という結果に私は残念で仕方ありません。
発熱は収まりかけて走れないことはないのですが、嫁は当日小学校の入学審査みたいなものもあるので休ませました。娘も嫁もこだわりがなくあっけらかんとしているのに、私はどうしてもくやしいのです。幼稚園の熱血先生も走らせたかったみたいで・・・・。

結局、娘一人だけだったみたいです。応援しているのは。嫁がうちの子は性格がいいと言ったのはまるっきり一人だけポツンと一生懸命応援に徹していたみたいでそれだけビデオに撮ってきたということ。私はそんな姿を見るのも悲しくて。

親のエゴですね。自分の娘はこうあるべきみたいな。いや娘のためでなく自分のためなのです。多分、風邪をひいていても熱が多少あっても走らせる親はいると思います。私の場合は周りの子にくらべて自分の子が少しでも劣っているのがどうしても納得できないのです。走るのも勉強も少しでも周りよりも優れている方が気持ちがいいから。子供のためでなく自分のため、おかしなことです。

思えば自分の両親がどうとかはないのですが、私は親に認められたい。親を喜ばせたい。という気持ちで自分自身を押さえつけてきたような気がします。知らず知らずのうちにそれがプレッシャーになるのです。高校受験の時に自分の番号がなかった時、父の残念そうな顔がとても悲しかったのを記憶しています。
しばらく引きこもったり、落ちこぼれたり、そんな時期もありました。結局そう思っていてもある時期挫折は経験するのだから、そんなにやっきにならなくてもいいのかもしれません。

嫁はこれもいい経験と余裕です。どうも子育て、自分育てでは彼女の方が私よりも一枚上手みたいです。
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心根

今日、親族で消防の救急救命士をされている方とお話しをしました。現場の話になり、人の命に直にかかわりそして死にも直面するなかだんだんそれに対して自分が慣れてしまっているのがなんだか悲しいと。
もう少し早く到着すれば救えたのではないか。なんとか助けられなかったか。
そう強く思う反面、次から次へと目の前の仕事をこなす中でスライド式に思いを移行させていくような感覚。

私にもあります。一件一件、お葬式を導師としてスタッフとしてお手伝いさせていく中で入りこんだ感情を冷ますのではなく次に回転させていく時はまるで役目に乗っかって知らず知らずのうちに自分が動かされているような気持ちになるのです。

いつも私はこれが私の使命だと自分に言い聞かせます。ご遺体やお骨に触れるのはお寺にいた時にはそうはありませんでした。でも私は思うのです。僧侶であるからこそ、私がよりそってお勤めしていることを故人も悦んでいるのではないか、そんな心根でいれば導師であろうとスタッフであろうと自分のやるべきことは変わらないのではないかと。

これからもこのスタイルでより多くの人の心に癒しを提供できたらと思います。
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