一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
恩返し
夕方うす暗い頃にめずらしく兄が帰ってきたことがあります。小学生の頃なので母は心配してずっと外で待っていました。私もソワソワしていました。
そうしたら笑顔で喜んで沢山のフナを袋に入れて帰ってきたのです。その嬉しそうな顔といったら。
すぐに母にこっぴどく怒られて泣きべそかいていました。
年子なのでよくケンカをしました。私はどこかで負けてあげていたところもあります。内心、兄を立てなければと思っていたのです。おもちゃだって兄の方にいつもいいものがいくようにしていました。
ケンカばかりしていて真っ暗な蔵に二人で入れられた時は兄がやけに明るいので助かりました。
父も母も怒っているので祖母がいつも助け出してくれる役でした。
真っ黒になった足を拭いてくれました。
長い年月が過ぎるとほとんど生活をともにしていなかったせいかどこか生き方がそれぞれで違っていったような気がします。
今でも兄を立てる気持ちは消えません。
私には次男としての役割があるとずっと思ってきました。
多くの人のお役にたち先祖を喜ばせる。
それが自分の家に対する恩返しだと思っています。
清濁
だいたい忙しくなってくると自然とイライラしてきます。どういうこと!
何でも文句をつけたくなるのです。もっとこうできるだろうとかどうしてこうしないのだろうとか。
運転していてもわかります。前の車がトロトロしていたらやはりイライラしだすのです。ほら、信号が変わってしまったではないかって。
一生懸命てなんだろう。他人に文句をいうことではないはずです。
中国に昔、屈原という有能で清廉潔白な役人がいました。誰よりも国や民衆のことを思い、仕事に没頭したのですがその活躍を妬む他の役人の讒言で追放されます。
そしてある漁夫に思いのたけを打ち明けるのです。
私ほど頑張った人間はいないと。
漁夫はこう言い放ちます。
水がきれいな時はその水を飲むがいい。
水が汚れていれば足を洗えばいい。
つまり屈原は汚れた水をも飲もうとするから苦しくなるのだと。もっと臨機応変に自分を変えた方がこの世は生きやすい、そんな意味だと思います。
私たちは所詮、多くの魂の中のひとかけらです。皆もひとかけら、自分もひとかけら。
だからひとかけらの他を恨んでも仕方ないし、ひとかけらの自分のふがいなさを嘆いてもそれも仕方ないこと。
もっと大きな観点で自分をみれば肩ひじ張って頑張らなくてもいい、そんな風に思えます。
ようやく一日で安心できる時間に到達しました。お疲れ様です。
最初の一歩
今日はお盆の返礼品をハイエースに積んで配りまくりました。お醤油や油のものが多く最初は重くて気が滅入りましたが慣れてくるとそうでもありません。まるで宅急便屋さんみたいに快調に配りました。
何でもそうです。出だしがきついのです。
巡礼もそう。お寺でよく行った巡礼ツアーですが、ほぼ寝ないでのバス移動からの最初の一日目がきついだけであとは身体が自然と巡礼用になっていきます。もうお寺をお参りしたくて仕方ない身体に。
もし、自分をうまく生活のリズムに乗せたいのならこの最初だけを我慢する習慣を身につけることが先決です。気力が萎えるとなかなかここが乗り越えられません。まるで修行僧のようにたんたんとそこは乗り越えるべきなのです。
自称、修行僧の私がそれをするのはある意味当たり前と思わなくてはいけません。自称にならないように嫌なことから決して逃げない精神力を身に着けます。
最近よく滝に打たれていた日々を思い出します。毎日、17年もよく打たれました。滝の身体を身に着けました。
あの修行は今の為にあったのです。
どうしよう
突然、娘が眠れなくなりました。理由は「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの伝記を読んだからです。小学生むけの漫画タッチのものですが内容はけっこうリアルで収容所でガリガリにやせ細ったアンネが亡くなるシーンは大人の私が読んでも心が痛みます。
それで感受性の強い娘なので怖くなってしまったらしいです。
そういえば自分も同じ年齢の頃に怖くて眠れないことがありました。それはテレビで人食い熊に襲われお腹の子供ごと亡くなる妊婦さんのシーンを見た日です。
頭から離れずにずーと布団で震えてました。そのうちに熊が襲ってきたらどうしようと思うようになり、何度も頭でそのシーンが映像でながれ最終的に父親が倒してくれるで落ち着きました。
今考えると父が人食い熊に勝てるはずもないのですが子供の私には眠るためにはその方法しか描けなかったのでしょう。
娘は昨日は熟睡していました。しかしやはりいつもと違います。
私はどうすればいいのでしょう。
多分、彼女が克服するしかないのでしょうが父親としてはいつも通りに接するしかありません。
ちなみに私が「アンネの日記」を真剣に読んだのは大人になってからです。
謙虚さ
朝、ふとテレビをみると大企業のトップにおられる二人の方が対談されていました。共通した意見は
会社は多くの人の支えによってなりたっている。社員一人一人が気持ちよく働けるようにするのが自分たちのすべきこと。
自分にない優れた能力を各々が生かすことが重要だ。トップはそれを多くしることからはじまる。
そのような話を聞いていると上に行けばいくほど謙虚にならなくてはいけないと考えられます。偉ぶってさぞ何でも自分がやっていると勘違いしていると下のものはついてきません。
戦国時代のことを考えると誰が大将かで軍がいくらでも強くなったり、弱くなったりするものです。流れを引き寄せる力もある意味見えない大きな武器だったのです。
自分が何ができることばかりに目を向けずに他の優れた個所に目をむければおのずと自我心がうすれていきます。
何でも自分がやらなくてははある意味頑張り屋というよりも謙虚心にかけているとも考えられるのです。
謙虚に自分を役立たせればもう少し生き方が楽になるのかもしれません。
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