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見た目

私は前に勤めていたお寺ではよく境内の掃除を行っていました。その時は作業着を着てどこからみても、植木屋さんのいでたちです。お参りに来る人は頭のタオルをとらないかぎり、僧侶だとわかりませんから、こちらから挨拶をしてもあきらかに作務衣をきての時と返答の仕方がちがうのです。つまりお坊さんとわかれば、かしこまり丁寧にあいさつしてくれますが、植木屋さんの時はなんというか普通というか。こちらが丁寧なあいさつを求めているわけではないですが、人間て不思議だなー。やはり見た目なのかなーと思いました。そういえば今の仕事で僧侶もスタッフもするのですが、スタッフの時に大きなお葬儀の時はたくさんの車が帰るので交通整理で駐車場係をします。一般道を走る車を乗られている方にお願いして、すこしまってもらうのですが、その時にこちらから棒をもって丁寧にお辞儀をしているのに、明らかに敵意むきだしで怒る人がいます。たまーにひかれそうになります。それもすこしいかつい人なら仕方ないですが、性別とわずごく普通の人も多いです。最初はうたれ弱かったですが最近はなれてきました。くれぐれも気をつけます。

昔、小学校の国語の授業でこんな話を思い出します。戦でいつも赤い色の鎧兜を身に着けて大活躍する武将が、ある日ためしに普通の鎧兜姿を身にまとい合戦におよびました。いつもどうり、さっそうと馬にまたがり敵にむかっていったのですが、なんだか少し身体が重く感じます。そして槍をついてくる敵兵の目つきも赤い鎧兜の時より、殺気にみちていてなかなか手ごわいです。そんなはずはないと心で思った瞬間、敵の雑兵の槍がお腹に突き刺さったという話です。
人間見た目も重要かもしれません。気をつけましょう。
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お父さんの受難

最近、私の四歳になった娘はおませになってきたのか洋服や自分の体型を気にします。アニメのカードでおしゃれな洋服や靴、アクセサリーを集めては眺め続けています。そうなると明らかに子供服の自分のすがたに不満があるのか、「私、もっとかわいいのがいいの」という始末です。妻は今度はなるべくかわいい洋服をかってあげようと考えているみたいです。洋服ならなんとかなるのですが、お風呂に一緒に入り、自分のお腹のぽっこりでた幼児体型がきになるのか、「私、こんなに太っているの嫌だ」といいだしました。娘はあきらかに痩せている方で足も出産前に病院の先生がエコーをみながら、この子は足が長いですねと言われたくらい、背の高い母親似なのですが、本人はテレビのアニメの女の子の体型と比べているみたいです。
先日、娘に大きくなったらなんになりたいと尋ねました。前なら「パパのお嫁さん」と言ってくれたのですが、考えた後「私、OO君が大好きなんだ。だって目もかっこいいし、やさしいし。会うとうれしくてうれしくてしょうがないの。あー今度一緒にラーメン食べたいなー」と幼稚園で一番、仲のいい男の子の話ばかりをしだしました。そのうち、パパのやきもちに気がついたのか、ことあればその話をされました。
私は今まで感じたことのない一抹のさみしさに見舞われました。そうか、これが世の中の女の子のお父さんの気持ちなのか。これから先もこんなことばかりが気になるのかと思うと私も成長していかなくてはと心に誓いました。
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霊感

人はだれしも霊感を持っていると思います。人間、生活していればいろいろな場面で選択しなくてはなりません。そういう時は大抵、眉間にしわを寄せてかんがえたりします。それは両目の真ん中にある第三の目に意識を集中させている行為で、第三の目で霊的に物事を判断しているともいえます。またそうして考えこまなくてもその時々で心の声に耳を傾けて、その声にしたがって行動していることもあるのです。
傍からみたらあの人、どうしてあんな道を選んだのだろう、と思われる行為も本人にしてみれば心の声にしたがっただけで、理由はないですがなんとなくそうしたほうがいいと感じたからです。そこでもし判断が明らかに失敗をして後悔したとしても問題ではありません。挫折はその人にとって次に進むべき方向を教えているのであって、魂の向上という目標からすれば、それが最短距離だからです。
よく神仏の声を聞くことができる人が世の中にはおられます。もしその声が耳からとか、外部からのように感じたらその声はあまり霊的には良いものではないでしょう。高度な霊の声は胸の奥から聞こえてくるか、身体全体でなんとなく感じるものです。またそのような方とご縁があったとしても、本当に判断に迷い、最終的どうにもならなければ相談しても良いとおもいますが、そうでなく日常生活のささいなことまで判断を仰ぐのはやめたほうがいいと思います。この世の修行に解答例をそのたびに出されたなら、魂をみがく為の行の意味がなくなるからです。本当に誠心誠意、人生を逃げずにいきていれば神仏のご加護は自ずと得られます。自分の内なる声が一番のみちびき手なのです。
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自灯明

お釈迦さまが涅槃に入られる時、最後に弟子たちに言い遺した言葉は「みずからを灯明とし、法を灯明とせよ」でした。弟子たちはお釈迦さまがこの世からいなくなってしまったらどうやって修行していけばいいか嘆いていました。それに対し他を頼るのではなく、法をもとめ、そして法を素直に見つめる自らの心こそをよりどころにしなさいという意味でした。
私がお寺に勤めていた時、厄除けや所願成就でお参りに来る方を太鼓とお経と錫杖で御祈願していました。御祈願が終わった後にお札をお授けするのですが必ず、「このお札に入っている魂を一心にお祈りし、ご供養するみなさんの心が一番大切なのですよ」とお話しさせていただきました。お札に強く念じることで自らの心の中にある仏が活きてきて、感応し願いにむかって前進できるからです。なかには、もうお坊さんにお祈りしてもらったから大丈夫と、家にお札を持ち帰っても、あまりお祈りしない人もいたはずです。それではやはりだめだめです。
「仏法遥かにあらず。心中にしてすなわち近し」 有名な弘法大師様のお言葉があるように、最終的には自分自身の心が一番重要なのです。
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病気について

仏教でいう人間の一番の苦しみは四つあります。それは生、老、病、死の四苦です。この苦しみからは人間である以上、のがれることはできません。この世に今、生きている人々もあと100年すればほとんど地球上から姿を消します。悲しいかな、私達は意識しようとしまいと着実に死へと向かっているのです。
病気はその四苦の中でも長く私達を苦しめる最たるものです。私は長くお寺に勤め、仏様の手足として働いてきましが、例えば癌などの生死にかかわる病気をもたれている方が奇跡的に回復し、治ったことはそれほどありませんでした。それではご利益がないと思われるかもしれませんが、たとえ治らなくても延命したり、病気の気の部分が違っていたことはたしかです。つまり病気に向き合う心構えと死に対する意識の仕方です。本人がそのことを自覚し、向き合うことにより免疫力が強まって、気の部分で抗体ができていくことはたくさんありました。それはもちろん仏様のありがたいお力ですが、本人の生きようとする力でもあるのです。
私の知り合いに全身が癌に患っていても、何年も元気で生活している人が二人います。その方々はとにかく生きようとする力が他の人とは違うのです。「私は絶対に死なない。まだ死ねない。死ぬのは怖くないが、この世でまだお役目があるから。」 とにかく周りもお二人と話しをすると元気がでます。他の人に何かをしてあげたいという思いがとにかく強いです。あとはけっして病院にはたよりません。二人とも先生の言うことを聞いていたらもうとっくに死んでいたとおっしゃっています。
病院関係の仕事をしている方にこんな話を聞いたことがあります。
「同じ病気を患っていても助かる人と助からない人がいます。医学的には生きていることが不思議な人が生を長らえて、それ程ひどくない病気の人でも亡くなってしまうのです。先生、どんなことでもしますから助けてくださいという人はわりと助かりません。助かる人は自分自身生きてやるという思いの強い人です」
とても印象的なお話でした。
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