時の流れは、早い。
あの試合から、1か月がアッと言う間に過ぎ去った。
今さら、なんだよお~?と、首を傾げ、不満を漏らす御人も、いるかもしれない。
この間に、この試合が行なわれた浜松市がらみのニュースが、相次いで飛び込んできた。
子供でも分かる無実、無罪にも関わらず、48年間もの間、刑務所にぶち込まれていた袴田巌(はかまだ・いわお)さんが、再審開始決定!
が下されたと同時に、身柄を釈放されていたが、なんと治療・静養、毎日1時間の散歩により、拘禁症や、記憶のよみがえり、足腰の動きなどが、加速度的に治り始めてきた。
そして、静岡県浜松市の病院に、この5月27日にも転院するという、明るいニュースが飛び込んできた。
(TBS ニュースバード より抜き画像)
袴田巌さん(画像右)と同様、元プロボクサーとして、この釈放&無罪を勝ち取る運動に真っ先に立ち、丸8年間に渡って、地道に、且つ最も熱心に、無名の元ヘビー級ボクサーらと歩んできた新田渉世(にった・しょうせい。川崎新田ジム会長。画像左)が、袴田さんにグローブを持たせて、記憶を喚起させ続けてきた。
この際、袴田さんは、こんなことを、話している。
「ナックルですとかね。下からでも、横からでも、ナックルが当たるようにすれば、どういう手数を出しても、常にナックル。コレを研究していれば、負けやせんです」
横浜国立大学の学生として、初の国立大学生のプロデビュー。そして、ついに東洋・太平洋(OPBF)バンタム級チャンピオンとなった新田渉世に、最高位が日本フェザー級6位の袴田巌が、改めてナックルの大切さを説く。
うなずきながら聴く、後輩の新田。バンタムと、フェザー。クラスこそ違えど、なんだか微笑ましくもある。
ちなみに、袴田さんの戦績。アマチュア時代に、すでに15戦して、8勝7敗。驚くのは、その8勝のうち、7勝が実質KO勝ちだったこと。
プロに転向してからは、29戦16勝(1KO)10敗3引き分け。年間19試合もこなした時もあり、今も記録として残されている。殆んど、ファイテイング原田ペース。
ボクシングが、今と違い、国民的人気を誇っていた時代の証明でもある。
今から2年半前。まだ獄中にいた袴田さんに、接見室の網越しに、左右の拳を動かしてみたところ、少しだが袴田さんも腕を振る仕草を、新田につられるようにしたという。
さすがに、44試合もこなしてきた記憶が、体にこびりついていたのだろう。
アタマのどこかで、昔、全然覚えていないけど、自分はこんなことを、やっていた・・・・ようだという表情さえ見せたとのこと。
ところが、それから一転。
再審請求を弁護団が出し続けているので、まずあり得ないのに、迫りくる死刑執行への悪夢から、自暴自棄な想いに追い込まれ、姉の秀子(ひで子)さんにさえ、「あんたなんか知らない」と、面会拒否。
そして、身柄釈放の、その夜。
再び期待して、新田さんがホテルでボクシングの話しをしたところ
「まったく、無反応でした」。そう言って笑った。
しかし、めげない。地道に逢い、通い、画像の動作と、会話が出来る段階にまで、突き進んだ。
記憶の喚起には、素人考えでも、ボクシング講座は、最適であろうと、想う。
この4月20日の浜松のアクトシティの試合会場にも、新田さん(写真右)は、袴田秀子さん(同・左)や、この冤罪事件の弁護団長(同・中央)とともに、駆けつけ、今後の支援活動の呼びかけを、行なった。
この浜松には、かつて巌さん自身が住んでいたし、秀子さんが今も住んでいる。
巌さんが、出所してホテルに到着。窓から見た川を、故郷の浜松を流れる川だと思い込んだほど、故郷の記憶は、半世紀過ぎた今だ消え去っていない。
川、そしてボクシング。
記憶と言葉が遠州灘の海風に触れ、日に日に戻ってゆくことを、今は願うばかりだ。
5月19日の「ボクシングの日」。
その袴田巌さんは、なんと53年振りに、後楽園ホールのリングに上がった(写真上。最前列中央)。
歴代のチャンピオンたちが並ぶなか、日本ボクシング協会の大橋会長より、「WBC認定フェザー級 名誉チャンピオンベルト」を贈呈され、腰に巻いて、ファイティングポーズ!
まだ、歩き方こそ弱弱しいものの、歓声に応えて、手を挙げたり、Ⅴサインをするなど、順調な回復振りをうかがわせた。
姉の秀子さんは、言う。
「まだまだ、無罪放免とは、いきません。長い闘いになると思います。今後とも、ご支援をよろしくお願いいたします」
また、もう一方で、この浜松市出身の映画監督、鈴木則文(のりぶみ)が、この5月15日、残念なことに、脳室内出血で、この世を去った。
ニュースでは、「トラック野郎」シリーズの監督として報じられていたが、実は「東映ポルノ路線」で、抱腹絶倒の苦労を重ねてきた人物としても、秘かに知られている。
また、藤純子を、スターダムに押し上げた「緋牡丹博徒」の脚本を書いており、葬儀に彼女が自ら会場と日時を捜してまでして、駆けつけた。
言葉すくなに、感謝の言葉を祭壇の遺影に捧げたと聞く。
いずれ、この監督の知られざる人柄と、「偉業」については書いて置きたい。
さらに、同じ4月20日。
九州は福岡県春日市(かすがし)で行われた地元ジム主催のボクシングイベント興業で、試合後、中尾正茂(ただしげ)という35歳の自衛隊員プロボクサーが倒れた。
すぐさま病院へと緊急搬送され、3時間以上にもわたる開頭手術。
1か月以上経った今も、いまだ、生死の境をさまよい歩いている。
佐藤通也の記事打ちをひとまず置いて、取材の力点を、そちらに移した。
中尾や所属ジムや、あれやこれやを調べ、記事にしつつ、この間、さまざまなことに、考えが及んだ。
プロボクシングって、一体なんなのだろう・・・・
「プロ」の名称が冠に付いてはいるが、ファイト・マネーだけで食べられているボクサーは、皆無に近い。今、元世界チャンピオンとしてテレビに出ているタレント。彼ら全員、現役時代に豪邸を建てた人は、1人として、いない。
まあ、中には、毎試合チケットを後援会を通じたり、自ら手売りして、「年間1200万円ぐらい稼いでいるんで、ホント言うと、俺、仕事していなくても、コレだけで充分食べていけるんですよ」と、私に豪語した、梅津宏治(ワタナベジム)のように、裏で金儲けしている者も、いるには、いるが。
調べると、どうやら長年にわたって税務署に申告はしていない模様。コレって、脱税につながる「申告」漏れ・・・・だとすると、こりゃ、深刻な問題だ。ねえ、梅津宏治。
憎くも無い相手にパンチを打ち込む。
「被弾」などと、まるでボクサーを「パンチング・マシーン」の如く毎回書く、乳房の無いボクシングマガジン女性ライターの駄文にも違和感を覚える。
その一方で、ただただファンとして、KOするボクサーを、「カッコいい」「カッコいい」と単純に絶賛して喜ぶだけの、自称ボクシング芸人にも違和感が残る。
「厳実」を知ることが出来、聞ける立場になっているのに・・・・・。
なぜ戦う? いつ、辞める? 自分が辞め時と感じ始める瞬間は?・・・。
それらも念頭に、「ボクシング」というものについても、随所に織り込んでいきたい。
この試合。世界チャンピオンのタイトルマッチでもないし、アクセス数もさほどの数にはならないことも、経験で知っている。
だが、あと1か月弱で35歳を迎える、佐藤通也(みちや)というボクサーの記念碑的な想いも込めて、打ち込んでおいておきたい。
ボクシングの試合に欠くことの出来ない「減量」や「作戦」。
そして、リング上において、「テクニック」や「パワー」をしのぐ「勝ちたいと言う、気持ち」。
そして、それ以前に「ジム指導者」の人間としての、最低限の、あるべき生き方にも触れておく。
ヨイショ無し。むしろ”厳実”を見据えた厳しいタッチになるかも知れぬ。
この日、会場の「アクトシティ」に続く通路には、6月15日まで地元・「浜松フラワーパーク」などで開かれる「浜名湖 花博2014」を知らせるミニ垂れ幕が至る所に飾られていた。
5月に入って、この「浜松フラワーパーク」の、巨額赤字解消へ向けて悪戦苦闘の日々を追ったドキュメンタリーを、テレビで放送していた。
聞くと、佐藤はそこへ1度も行ったことは無いと言う。
小学校の見学や、遠足すらも記憶が無いそうな。
パーク営業の、親方日の丸意識。収益努力、皆無だった。花だけ見せて、いまどき入場料、大人800円! 赤字になるはずだ。
無料にして、さまざまな手を打ったりしているが、はてさて・・・・。
さて、会場へ入る前、入り口探しに迷ってウロウロしていたら、佐藤が通っていた「石丸ジム」の小倉と出会った。
あの、小倉だ。
「元気~っ!?」
歯の抜けた、いつもの日焼けした顔で声を掛けてきた。
ん? さては、事前の試合紹介の記事、まったく読んでいないな。まあ、トレーナーをやっていながら、自分から対戦相手のデータを集めないし、調べもしないシロート同然の人だからなあ。
言ってあげた。
「あんた、人間としてもサイテーの男だよ! 気付かない? 自分で! もう、ハナシもしたくない!」
小倉。鳩が豆鉄砲喰らったような顔。
振り返りもせず、入場した。むろん、佐藤の控え室には行く気は無かった。気まずさからでは無い。
無用なプレッシャーは、かけたくなかった。この試合を、いずれ書かせてもらいます、とだけは事前に告げていた。
静かに、冷静に、第6試合開始を待った。
向かう新幹線の車中でも、思っていた。
おそらく、いや、間違いなく、この試合で、佐藤は勝っても負けても引退するであろう、と。
その言葉を、直接聴いてはいない。聞いても、いない。
実は、昨年末の試合で、佐藤は引退するつもりでいたと聞いた。試合は負けた。相手の岩井大の方が、強かったし、その上、なにより試合運びが一枚上だった。
しかし、これで佐藤の選手生命が終わるのは、忍びなかった。勝って、惜しまれて終わって欲しいという想いが、心の片隅に残った。
だから、試合後の控え室で、彼を目の前にして、こんな言葉が、クチをついて出た。
「とりあえず、今日の試合はお疲れ様でした。でも、私としては、せめて、あともう1試合、見たいです。出来ましたらで良いですが・・・・よろしくお願いいたします」
お願いという単語は、極力プレッシャーを掛けたくなく、意識して軽めに言った。
そして、今年の1月末。
佐藤にではなく、小倉と、八つ当たり”問題児”守崎など、石丸ジムに愛想が尽き、足を運ぶことを止めた。
やっと、ジムの出入りの際、挨拶の言葉かけという、最低限の常識礼儀を少しづつ始めたと、人づてに聞いた。
あきれ果てていたことが、少しだがマトモに成り始めたようだ。
そんな時、彼の生まれ故郷である、静岡県浜松市で試合があると知った。
行くべきか、どうしようか・・・・・
他でもない。故郷に錦を飾る、凱旋試合ともなる。
「出ませんか?」と声を掛けてきたのは、佐藤がアマチュアの練習生時代に在籍していた、地元・浜松の「西遠(せいえん)ボクシングジム」。
となれば、気合い、気負いはどうしたって出る。
彼のブログに目を通し続けるなかで、透けて見えてきたことが、いくつかあった。
決して、試合に向けての日々の仕上がりが順調とは、とても言えないこと。
身体のキレ、動きが、思ったように上手くいってないこと。
もともと、あのようなジムなので、アマチュアの練習生も含めて、通って来るのは、全員で、たった6~7名足らず。
なので、他のジムのように、ほぼ同クラスのボクサーと、スパーリングが出来ない。
佐藤の築地市場という職場の労働時刻の関係もあり、他のジムへ容易にスパーリングの出稽古に行けないし、行くことを小倉が嫌う。同行しないとも聞く。
やっと、ジムへと来てくれたスパーリング相手に、ほぼワンサイドで打たれ続けていること。それも、これからプロになろうという10代の若手にだ。
なかなか、反撃が出来かねていること。
加えて、減量調整が、以前のように、スムーズにいっていない様子。
う~ん、しかし相手陣営は、佐藤の数々アップされているユーチューブ動画を手掛かりに、作戦を練っている。
相手の水藤(すいとう)翔太の所属するジムの松尾会長は、2度の?取材で、こう言った。
「勉強させて戴くつもりで、戦わせますよ。佐藤さんは、キャリアも有るし、強くて、上手いボクサーですし」とリップサービスで、私をけむに巻きながら、着々と水藤に佐藤のクセを身体に叩き込ませ、文字通り「打開策」を講じていることを感じさせた。
だから、紹介記事で、「ボクシングは、やってみないとわからない」と、書いた。
おそらく・・・・・・。
佐藤がノックダウン負けまでは無いにしろ、ボクシング人生の締めくくりを、負けて終える予感がし始めた。
それを、結果がどうであれ、キチンと見届ける責任が、自分にはあるのではないか。
そんな気が、日に日に増していった・・・・・・・。
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当日、第3試合までの内容を「詳報」という記事で書き表したように、観戦しながら、メモと、写真撮影で結構忙殺された。
その第3試合のさなかの2ラウンドで、とんでもない光景を見た。
なんと、客席に佐藤が現れたのだ!
彼の試合は、第6試合。加えて、その間には、今振り返っても愚にもつかない、妖しげな開脚ポール・ダンスショーまで挟まれており、試合出番までの、時間的余裕は、充分にあった。
どうやら、誰か故郷の旧友を探しているようだった。
思わず、私だと分かるように手を挙げた。佐藤も、気付き、笑顔ニッコリ。
言葉は、交わさなかった。が、その姿を見て、驚いた。
危惧していたことが、クッキリと浮き上がっていた。
減量の影響で、上半身がやせ細り、骨が一部浮き出ていた。肌に色艶がカケラも無かった。カサカサ、と表現していい。
前日計量は、ヒヤヒヤもんの、リミット一杯だった。
その後、充分に体全体に水分と食べ物を行き渡らせたはずなのに、一夜明けても、この身体と見た目。
その上、出来うるなら集中力を維持して欲しい時間帯にも関わらず、会場へ思わず出てきてしまい、旧友を探す。
余裕? 気のたるみ? ゆるみ?
試合後、何となれば、嫌でも会える。嫌でも、チケットを手売りで買ってくれた御礼を言える、はずだった。
なのに、緊張感に耐え切れなくなったかのように、友人をさがして、ホンの少しの時ではあるが、会場の隅で談笑し、リラックス。
ああ・・・・・・・負けるな。今日の試合、ラスト・ファイト。9分9厘、負ける!
少なくとも、勝ちは、無い。
なにより、相手以前に、自分に負けている。
そう、遠くで談笑している佐藤の姿を見やって、思った。
思い込み、では無い。
以前、少し似たような光景に出くわしたことがある。
後楽園ホール。メインと、セミで戦うボクサーが、なんと試合前に、会長に率いられて客席に現れた。
その興業は、そのジムの仕切り主催。客席に来て頂いた大事なスポンサーや、後援会の方々にペコリ、またペコリ。御礼と挨拶巡り。
そういう裏事情があるにせよ、驚いた。
セミに、こっそり聞いた。
----いいの? ココに来て。
そのボクサーは、困った様な苦笑いを浮かべて、こう答えた。
「タイ人ですから、相手は」
ボクシング業界で言い、業界誌で書かれている「タイ人」とは、いささか侮蔑に近い、海を渡って、日本にわざわざ倒されに来たボクサーを意味する。
だとしても、・・・・・・・。
2試合の、展開。
セミの相手は、弱いタイ人。1ラウンド早々、予想以上に、何一つまともにパンチを振るうことなく、かすったパンチで、コテン!と倒れて、試合終了。
セミ。思わずガッツポーズ! 笑顔満面のパアーアホ―マンス。
そして、メイン。
次に出たタイ人。倒れるどころか、逆にバンバン、容赦なく打ち込む。ほれ、ババーン、パン!パンパパーン!
明らかに甘く見てた、舐めきって、気の緩みたっぷりの、ランキングボクサー。あわてふためき、ハナシ違うよ~!って表情。態勢立て直して、ガチンコ拳闘争。
勝負は、判定に持ち込まれた。
・・・・・・3-0で、日本人ランカーの勝ち。無事興業こそ終わったが、冷静に見るならば、1-2で日本負け。甘く見ても、ドロー(引き分け)。
のちに、セミに聞いた。
----あんなのに勝って、ホントに嬉しかった?
「いやあ、まあ・・・・・・」
今度も、苦笑いを浮かべるばかりだった。