※池田晶子(1960-)『知ることより考えること』2006年(46歳)新潮社
★1「私のコスモロジー」:「私」は「宇宙」だ!「モナド」(「宇宙」)としての「私」!
☆「私が宇宙のことを考えているというのは、自分のことを考えているというのと、じつは同じなのである。」(9頁)
☆「宇宙について考えられない思想は二流である。」「マルクスが哲学者として二流である理由も同じである。」(10頁)
☆「真正の謎、宇宙すなわち自分とは何かの謎」!(10頁)
《感想1》私は「宇宙」だ。「宇宙」は「存在」する。すなわち「宇宙」は「私」(超越論的主観性)において「現象」している。そして「現象」=「存在」だ。
《感想2》「私」は「宇宙」だ。「モナド」(「宇宙」)としての「私」!(2025/07/13)
★2「長命も短命も」:「人生には《今》しかない」!
☆「長いも短いもありはしない、人生には《今》しかない、寿命なんてものは結果にすぎない。」(13頁)
cf. 「日本人の平均寿命が、また延びたと聞いた。男で78歳、女で85歳、世界最高だそうである。」(11頁)
《感想1》誰もが「幸せ」にあこがれる。長く生きればいつか「幸せ」に出会えるはずと、予測している。「死んで花実が咲くものか」と言う。「人生には《今》しかない」が、人は「人生」のうちで「《今》における希望」に生きる。
《感想2 》人は「今」における「信仰と希望と愛」に生きる。「信仰」とは宇宙の真理のうちに生きること、「希望」とは私の人生の幸せを信じること、「愛」とは魂(人の魂、さらに時には他の生き物たちの魂)の間の調和に生きること。
《感想2-2 》「今」における「信仰と希望と愛」があれば、「人生」には「長いも短いもありはしない」、「寿命なんてものは結果にすぎない」。(2025/07/13)
★3「老眼に想う」:「自分と世界」でない、「自分が世界」である!「自分」が「世界の開け」である!
☆「自分と世界」と人は言う。しかし「見える世界」が先に在り、それを「自分が見ている」のでない。「『自分』が『世界の開け』である。」「自分が世界」である。(16頁)
☆すなわち「目は目を見ることは絶対にできない」。「鏡に映った目」を見ても、「自分の目」を見てはいない。(15-16頁)
★4「見られて死にたい」:それぞれ(「私」と「他の人」)の「宇宙」は同じものか?それとも「宇宙」は人の数だけあるのか?
☆31歳で癌になった青年が、余命2年の生活をブログで発信し、「病状は深刻、でもおれは元気だぜ」と「演出」し誇示する。それが「カッコいい」のであり「カッコ悪い」のは「嫌だ」と言う。(17頁)
☆彼の生きがい(自己証明)は「人に認められる」、「人に注目される」ことだけだ。(18頁)
☆「カッコイイッすよ」「応援してマース」と妙に慣れ慣れしい底の浅いネット言葉で大量の反応が即座に返ってくる。本人は「元気をもらう」と喜んでいた。(18頁)
☆そして彼は「亡くなった」。(18頁)
《感想》「自分」が「宇宙(世界)の開け」である、つまり「私」は「宇宙」である。とすれば「他の人」も「宇宙(世界)の開け」であり、「宇宙」である。このそれぞれ(「私」と「他の人」)の「宇宙」は同じものか?それとも「宇宙」は人の数だけあるのか?
★1「私のコスモロジー」:「私」は「宇宙」だ!「モナド」(「宇宙」)としての「私」!
☆「私が宇宙のことを考えているというのは、自分のことを考えているというのと、じつは同じなのである。」(9頁)
☆「宇宙について考えられない思想は二流である。」「マルクスが哲学者として二流である理由も同じである。」(10頁)
☆「真正の謎、宇宙すなわち自分とは何かの謎」!(10頁)
《感想1》私は「宇宙」だ。「宇宙」は「存在」する。すなわち「宇宙」は「私」(超越論的主観性)において「現象」している。そして「現象」=「存在」だ。
《感想2》「私」は「宇宙」だ。「モナド」(「宇宙」)としての「私」!(2025/07/13)
★2「長命も短命も」:「人生には《今》しかない」!
☆「長いも短いもありはしない、人生には《今》しかない、寿命なんてものは結果にすぎない。」(13頁)
cf. 「日本人の平均寿命が、また延びたと聞いた。男で78歳、女で85歳、世界最高だそうである。」(11頁)
《感想1》誰もが「幸せ」にあこがれる。長く生きればいつか「幸せ」に出会えるはずと、予測している。「死んで花実が咲くものか」と言う。「人生には《今》しかない」が、人は「人生」のうちで「《今》における希望」に生きる。
《感想2 》人は「今」における「信仰と希望と愛」に生きる。「信仰」とは宇宙の真理のうちに生きること、「希望」とは私の人生の幸せを信じること、「愛」とは魂(人の魂、さらに時には他の生き物たちの魂)の間の調和に生きること。
《感想2-2 》「今」における「信仰と希望と愛」があれば、「人生」には「長いも短いもありはしない」、「寿命なんてものは結果にすぎない」。(2025/07/13)
★3「老眼に想う」:「自分と世界」でない、「自分が世界」である!「自分」が「世界の開け」である!
☆「自分と世界」と人は言う。しかし「見える世界」が先に在り、それを「自分が見ている」のでない。「『自分』が『世界の開け』である。」「自分が世界」である。(16頁)
☆すなわち「目は目を見ることは絶対にできない」。「鏡に映った目」を見ても、「自分の目」を見てはいない。(15-16頁)
★4「見られて死にたい」:それぞれ(「私」と「他の人」)の「宇宙」は同じものか?それとも「宇宙」は人の数だけあるのか?
☆31歳で癌になった青年が、余命2年の生活をブログで発信し、「病状は深刻、でもおれは元気だぜ」と「演出」し誇示する。それが「カッコいい」のであり「カッコ悪い」のは「嫌だ」と言う。(17頁)
☆彼の生きがい(自己証明)は「人に認められる」、「人に注目される」ことだけだ。(18頁)
☆「カッコイイッすよ」「応援してマース」と妙に慣れ慣れしい底の浅いネット言葉で大量の反応が即座に返ってくる。本人は「元気をもらう」と喜んでいた。(18頁)
☆そして彼は「亡くなった」。(18頁)
《感想》「自分」が「宇宙(世界)の開け」である、つまり「私」は「宇宙」である。とすれば「他の人」も「宇宙(世界)の開け」であり、「宇宙」である。このそれぞれ(「私」と「他の人」)の「宇宙」は同じものか?それとも「宇宙」は人の数だけあるのか?