※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第59節 良心の実存論的解釈と、通俗的な良心解意」
(10)日常的な良心経験(通俗的な良心解意)が実存論的に根源的なものではない!良心の実存論的解釈!
R 「良心の実存論的解釈」:「良心は、世界内存在(In-der-Welt-sein)の無気味さのなかから関心が叫ぶ呼び声であり、現存在をひとごとでない負い目ある存在可能へ呼び起こす呼びかけである。この呼びかけに応ずる了解として明らかにされたものは、良心を持とうとする意志である。」(289頁)
《感想10》ハイデガーは「無気味さ」について次のように述べている。「この《・・・・のもとに頽落する存在》のうちに、無気味さからの――すなわちここでは《死へ臨むひとごとでない存在》からの――逃亡がうかがわれる。」(252頁)
R-2 「良心の実存論的解釈」について、「通俗的良心解意」の側から異議がある。(ア)「良心の実存論的解釈」は「《呵責する》良心」(良心の《呵責》)(「後ろ向きに(※過去の行為を)《叱責する良心》」)について「没却している」。(289頁)この異議について、ハイデガーは次のように反論する。「とがめる良心(《気がとがめること》《呵責する》良心)とは・・・・たんに過去にむけられた叱責的なものであるどころか、かえって前へむかって示しつつ被投性のなかへ呼びもどすものなのである。」(291頁)
R-3「通俗的良心解意」の側からの異議(イ) 「良心の実存論的解釈」は、「良心の《満足》」について「没却している」。(289頁)ハイデガーの反論:「良心の《満足》」は「良心を持とうとする意志・・・・に対する鎮静的抑圧」であり「いかなる良心的現象でもない」。(292頁)
R-4 「通俗的良心解意」の側からの異議(ウ) 「良心の実存論的解釈」は、「前向きに(※未来に向かって)《警告する良心》」について「没却している」。(289頁))ハイデガーの反論:「警告が可能であるのも、《警告する》呼び声が根本においては現存在の存在可能をめざし、負い目ある存在においておのれを了解することをめざしているからにほかならない。」(292頁)
《感想10-2》ハイデガーは「現存在の存在可能」について次のように述べている。現存在の「不全性」とは、現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」であるということだ。「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。(221頁参照)
《感想10-3》ハイデガーは「負い目」つまり「無性」について次のように述べている。現存在の存在としての「関心」は無性(Nigtigkeit)に浸透されている:(a)事実性(被投性)の無性、(b)実存(投企)の無性、(c)頽落の無性。「現存在は現存在であるかぎり、すでに負い目あるものである」。(284-5頁)
R-5 まとめ:「日常的な良心経験が実存論的に根源的なものではない」。(295頁)
(10)日常的な良心経験(通俗的な良心解意)が実存論的に根源的なものではない!良心の実存論的解釈!
R 「良心の実存論的解釈」:「良心は、世界内存在(In-der-Welt-sein)の無気味さのなかから関心が叫ぶ呼び声であり、現存在をひとごとでない負い目ある存在可能へ呼び起こす呼びかけである。この呼びかけに応ずる了解として明らかにされたものは、良心を持とうとする意志である。」(289頁)
《感想10》ハイデガーは「無気味さ」について次のように述べている。「この《・・・・のもとに頽落する存在》のうちに、無気味さからの――すなわちここでは《死へ臨むひとごとでない存在》からの――逃亡がうかがわれる。」(252頁)
R-2 「良心の実存論的解釈」について、「通俗的良心解意」の側から異議がある。(ア)「良心の実存論的解釈」は「《呵責する》良心」(良心の《呵責》)(「後ろ向きに(※過去の行為を)《叱責する良心》」)について「没却している」。(289頁)この異議について、ハイデガーは次のように反論する。「とがめる良心(《気がとがめること》《呵責する》良心)とは・・・・たんに過去にむけられた叱責的なものであるどころか、かえって前へむかって示しつつ被投性のなかへ呼びもどすものなのである。」(291頁)
R-3「通俗的良心解意」の側からの異議(イ) 「良心の実存論的解釈」は、「良心の《満足》」について「没却している」。(289頁)ハイデガーの反論:「良心の《満足》」は「良心を持とうとする意志・・・・に対する鎮静的抑圧」であり「いかなる良心的現象でもない」。(292頁)
R-4 「通俗的良心解意」の側からの異議(ウ) 「良心の実存論的解釈」は、「前向きに(※未来に向かって)《警告する良心》」について「没却している」。(289頁))ハイデガーの反論:「警告が可能であるのも、《警告する》呼び声が根本においては現存在の存在可能をめざし、負い目ある存在においておのれを了解することをめざしているからにほかならない。」(292頁)
《感想10-2》ハイデガーは「現存在の存在可能」について次のように述べている。現存在の「不全性」とは、現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」であるということだ。「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。(221頁参照)
《感想10-3》ハイデガーは「負い目」つまり「無性」について次のように述べている。現存在の存在としての「関心」は無性(Nigtigkeit)に浸透されている:(a)事実性(被投性)の無性、(b)実存(投企)の無性、(c)頽落の無性。「現存在は現存在であるかぎり、すでに負い目あるものである」。(284-5頁)
R-5 まとめ:「日常的な良心経験が実存論的に根源的なものではない」。(295頁)