DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「尊厳ある生活、暖かい夜、十分な栄養、まともな仕事、そして自由に考え、自分が共にいたいと決めた人々と過ごすこと」、これらの事態・出来事そのものが生きる意味だ!

2020-01-06 13:03:48 | 日記
生きる意味は何か。信頼、楽しみ、救い、安楽など、そのつどの事態・出来事そのものが生きる意味。人生の全体としての意味は、その回顧の時にわかる。まずは食べていけること。その上で「尊厳ある生活、暖かい夜、十分な栄養、まともな仕事、そして自由に考え、自分が共にいたいと決めた人々と過ごすこと。」(ユニティ・ダウ)これらこそ生きる意味だ。そのつどそのつど、これらのいずれかの事態・出来事が生じていれば、その事態・出来事が生きる意味そのものだ。
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賀川豊彦記念出版会会員『賀川豊彦入門―新しい時代を切り拓く先覚者―』(2014年):「弱肉強食」でなく「友愛・互助・平和」の世界を目指す!

2020-01-06 12:28:00 | 日記
賀川豊彦(1888-1960)は「相互扶助」の精神を中核とする「協同組合主義」の思想を掲げた。「弱肉強食」でなく「友愛・互助・平和」の世界を目指す。そして彼は「世界連邦」運動を推進した。彼の精神の根本をなすものはキリストの「隣人愛」である。彼は「二十世紀最大の伝道者」と言われたキリスト教の牧師である。(1-4頁)
(1)1904(明37)賀川受洗(16歳)(34頁)&トルストイ『わが懺悔』&「キリストの隣人愛に根ざした非戦の思想」(41頁)
賀川豊彦は、トルストイの影響を受けた。トルストイは言う。「『あの避けがたい死によって滅せられない悠久の意義が私の生活にあるのだろうか』人生への懐疑を理性の判断からすれば、死を選ぶほかはない。しかし・・・・世の大衆は理性によらないで人生を認めている。理性によらないものは信仰である。」(トルストイ『わが懺悔』)(39-40頁)
《感想1》人生は「理性」でのみ判断すれば意味が与えられているわけでないということだ。芥川龍之介の自殺が思い出される。
《感想1-2》だが多くの人々にとっては幸福への「信仰」が人生を支える。他者たちとの共感・信頼の喜び、物質的充足を含む幸福が、人生の意味をなす。「尊厳ある生活、暖かい夜、十分な栄養、まともな仕事、そして自由に考え、自分が共にいたいと決めた人々と過ごすこと」(ユニティ・ダウはこれらを基本的人権と呼ぶ)。これらが実現されることが人生の幸福だ。
《感想1-3》死の不可避性は問おうと問うまいと当然の前提だ。死があるからと言って人生が無意味でない。死の手前に、生きることの意味がある。
(2)神戸新川のスラムでの「救貧」活動に入る!(1909年、賀川21歳)
1909年(21歳)で賀川豊彦は神戸新川のスラム(人口約6000人)に入る。「豊彦にとって最大の愛すべきものは神の愛です。つまり、神から愛されたと同じように他人を愛することです。」(48頁)彼は新川で「救貧」活動を開始する。
《感想2》賀川豊彦の「救貧」活動はなまやさしいものでなかった。彼が出会ったのは例えば、次のような人々だった。①「リューマチで足腰が立たず、やそ(※キリスト教)のご祈祷を頼んできて足腰が直ったのを感謝して、彼の最初の弟子となった出口」、②「豊彦に心服しているかと思うと、一転して彼に暴虐の限りを尽くす異常性格の植木」、③「博徒で手に負えない無頼の林」、④「女たらしでしょっちゅう豊彦から金をゆする園田」、⑤「彼の家(※3畳+2畳)に無理やり転がり込んできた疥癬病みの縄拾い丸山」、⑥「リューマチのひどいホームレスの伊豆」。(59頁)
《感想2-2》だが「神の愛」に生きる賀川豊彦の決意は固い。「豊彦は暴力もどすによる脅しもこわいと思わなかったのです。むしろ『こんなことでもなければ、スラムに来た甲斐がない』と考えていました。」(59頁)
(3)詩集『涙の二等分』(1919、大8)
賀川豊彦の詩集『涙の二等分』(1919)、に与謝野晶子が序文を寄せている。「私はまた、一面に嬌激な突撃性の持主である賀川さんが、一面にまた春の日のやうな平和な感情を豊かに持って居られることを嬉しく思ひます。それが人間に対すると同じく、自然に対してもよく現れて居ます。」(65頁)
《感想3》与謝野晶子は次のようにも述べている。「最近の社会問題に触れて指導者となり実行家となって居る人達」は「熱情が根柢を世界人類の愛に置いて居ると思はれる所が尠(スクナ)く、その人たちの言動が粗硬な野生に留まって」いる。賀川はそうではないと言う。(65頁)
(4)「救貧」から「防貧」へ:賀川、アメリカ・プリンストン大へ留学(1914-1917、大3-6)
「あとからあとからスラムに流れ込んでくる貧民の救貧活動にも次第に限界を感じ始めていた賀川は、『救貧』より貧乏を社会からなくす『防貧』の方が大切だと考えるようになって」いく。(77頁)
《感想4》かくて「防貧」の立場から、賀川豊彦は、労働組合運動、普通選挙権獲得運動、農民組合運動、協同組合作りに取り組んでいく。
(5)友愛会神戸連合会(1917、大6):健全な労働組合づくりを進め、平和的に世の中を発達させる!
友愛会神戸連合会(1917組織される)の会報『新神戸』第2号(1918)に賀川が書く。「暴動の安全弁―組合主義の勝利―労働運動は暴動と革命をもたらすように言う人が多いが、世界の進化発達は革命と暴動でなされるものではなく、知的革命以外にはない。教育と学習こそが、知的革命の糸口である。革命は多くの犠牲者を生み出し、暴動は多くの文物を破壊する。健全な労働組合づくりを進め、平和的に世の中を発達させることこそが正しい行き方であり、労働組合づくりの自由を与えることが暴動の安全弁ともなる。」(101頁)
《感想5》「平和的に世の中を発達させる」ためには、同時に、政治的決定が民主的制度のもとでなされることが両輪として必要だ。専制的・独裁的政治制度の下では、暴動と革命によらずに「世の中の発達」はない。。
《感想5-2》暴動と革命は、一方で専制的・独裁的政府による白色テロ(Ex.ナチスの暴力的支配)をもたらし、他方で専制的(Ex. 共産党一党制)な革命政権により赤色テロをもたらす。
(5)-2 大日本労働総同盟友愛会(1919、大8)&日本総同盟(1921、大10)
1919年、賀川は大日本労働総同盟友愛会(1919、友愛会より改称)の友愛会(1912年結成)7周年大会で規約改正委員長を務め、また大会宣言を起草し、彼は日本の労働運動のトップリーダーとなった。1921年、再び改称され日本総同盟となると、共産主義無政府主義者たち急進派(Ex. 荒畑寒村、大杉栄)が指導するようになる。ロシア革命の影響で「力」に対し「力」で報いる方針が取られる。こうして賀川は労働運動から退く。
(6)日本農民組合(1922、大11)
1922年、労働運動から退いた賀川らが日本農民組合を創立する。その宣言は賀川が起草し、彼の主張が盛り込まれた。①「友愛と互助の精神」、②「非暴力主義」、③「思想の自由と社会公益の大道」、④「真理を愛し妥協なき解放」、⑤「急がずあせらずねばり強く」、⑥「公義(だれでもなっとくできる正義)の支配する世界の創造」。日本農民組合は多くの小作争議を支援し勝利に導いた。(118頁)
《感想6》あらゆる社会運動は「公義(だれでもなっとくできる正義)」の実現でなければならない。社会運動は、必然的に倫理運動でもある。
(6)-2 農民福音学校(昭和初年):マルクス主義者や無政府主義者たちと異なる道!
だが昭和初年、日本農民組合運動も「マルクス主義者や無政府主義者たちに主導権をにぎられる」。賀川は農民運動から遠ざかり、「農民福音学校」を全国各地に開校し、「立体農業論」(山地・丘陵を利用した果樹栽培・畜産)に基づく農村振興策、また農村工業の創設を積極的に指導した。(123頁)
《感想6-2》実学が社会を改良する。「防貧」とは糊口の道つまり「まともな仕事」の確保だ。だが実学を推進する賀川豊彦の心の目標はこの世の内にではなく、天上の神のもとにある。
(7)協同組合運動:消費組合共益社(1919、大8発足)が最初!
賀川豊彦は「協同組合運動の父」と呼ばれるが、それは彼が「すべての人々はお互いに協力し、支え合って生きて行かねばならない」との思想に生きたからだ。(128頁)
《感想7》賀川豊彦は天上の神だけを見ている。彼の思想は神から命じられた思想だ。
(8)関東大震救援活動(1923、大12):意気消沈する人々に復興への希望を説く!
賀川は金品による救援とともに、「意気消沈する人々の心のケア―(手当て)と復興への希望を説く」ことに力点を置いた。(141頁)
《感想8》賀川は「困窮して居る人々の自力でそれを突破しうる方法」を「考えて差し上げる」ことこそ、救援の本質だと述べる。「自ら自己の互助の力で立ち得る」ように「お助けする」ことが救援の本質だとする。(140頁)
(9)賀川の国際平和論:「国際協同組合と世界国家による世界平和論」!(156頁)
賀川は海外から招かれ1923・11月から1924・7月にかけて欧米・イスラエル・エジプトで講演して回る。さらに1935・12月から1936・10月まで賀川は再び同諸国を講演して回る。彼は「1921年頃より、国際的な協同組合に基づいた世界国家による平和を構想していた。」協同組合の精神である「相互の助け合い」を国際平和の基礎にしようとした。(156頁)
(9)-2 「日本友和会」(1926、昭1)&「全国非戦同盟」(1928、昭3):絶対平和の思想!
1926(大正15)年「日本友和会」結成(新渡戸稲造、賀川らが呼びかけ)。すなわちイギリスの絶対平和論のキリスト教徒の「国際友和会(FOR)」の日本支部。「自ら戦争を拒否」し、また「お互いに憎み合っている敵同士を和解させようという絶対平和の思想」に立つ。また賀川らは1928年、「全国非戦同盟」を結成。軍国主義的政治、経済、教育の排除をめざす。(158頁)
《感想10》大正デモクラシーを賀川は体現している。(a)トルストイ、(b)スラムでの「救貧」活動、(c)「防貧」としての労働組合運動、普通選挙権獲得運動、農民組合運動、農民福音学校、協同組合作り、(d)国際協同組合と世界国家による世界平和論、(d)-2絶対平和の思想。
(10)賀川への圧力:憲兵隊による①拘束(1940、昭15)&②検挙18日間取り調べ(1940、昭15)さらに③警察拘置取り調べ(戦時中1941以降)、④憲兵隊取り調べ(同左)、⑤憲兵司令本部拘束(1944、昭19)
1940(昭15)、①日本軍部の中国での行動に対する謝罪の文章(『カガワ・カレンダー』)で、賀川、憲兵隊による拘束を受ける。②さらに同年、上海の教会での「支那に謝罪する」という題の講演が陸軍刑法に違反するとされた。賀川、検挙され渋谷憲兵分隊18日間取り調べを受ける。賀川は、死を覚悟したという。そして巣鴨刑務所未決監へ。だが突然、釈放。(159-160頁)
(10)-2賀川、ルーズベルト大統領に会う:日中戦争の調停役を引き受ける!(1941、昭16)
賀川、近衛首相の指示で渡米。ルーズベルト大統領に日中戦争の調停役を引き受けてらう。1941/5/27ルーズベルト大統領「日米戦争はあくまで避ける」と重大発表。しかし1941/7/23日本陸軍の南部仏印進駐で調停工作、ご破算。(161-163頁)
(10)-3 1941/12/8日本、米英開戦。(164頁)
(10)-4  戦時中、賀川、③反戦思想のことで神戸相生警察署に拘置され取り調べを受ける。また④反戦的行為ありと東京憲兵隊本部の取り調べを受ける。(164頁)
(10)-5 賀川、活動できず、1944年、香川県の豊島(テシマ)に引きこもり著述!しかし戦争で日本が不利となり、各地での日本の窮状を知ると、賀川、豊島を出て戦争被災者救援へ。(164頁)
(10)-6 ⑤1944/11/3より9日間、憲兵司令本部(九段下)に、賀川、拘束される!
その時のことを、賀川は次のように言う。(ア)「私は敗戦になれば、戦争に出てゆきたくはないが、焼け死んで国に殉ずる覚悟をしていた。私ひとりが国家に反逆する気は持っていなかった。」(イ)「私は連合軍と戦争することが間違いであるとは思ったが、東洋を占領する諸外国にも罪があると思った。」(ウ)「私は初めからこの戦争には本当に勝てるとは思わなかった。しかしすでに始まった以上国民の弱点を自分の弱点とし、個人として背負わねばならぬ責任を負ってゆかねばならぬと思っていた。」(164-165頁)
(10)-7 マリアナ諸島のB29による初空襲1944/11(東京)、1945/3 東京(下町、死者約8万-10万)・大阪・神戸大空襲など本土爆撃甚大(爆撃は終戦まで続く)!
本土爆撃により多くの一般の人たちが死傷するのを見て、賀川は黙っておれなくなり言った。「あゝ、禍なるかなアメリカ!世界の文明は単一なるアングロ・サクソンの文化によってのみ組み立てうる迷妄を捨てよ!人間の人体が幾百億の細胞によって組み立てられているごとく、真の文明は協同一致の文明でなければならぬ。」(165-166頁)
《感想10》「これらの賀川の言動は、軍部の圧力によって賀川が平和運動から転向し、日本の軍部に加担して行った」と戦後、賀川を非難するものもいた。(166頁)しかし私見では、彼は「軍部の圧力」に対処せざるを得なかったが、軍部に「加担」していたと思えない。「多くの日本人が苦しんでいるのを見て、賀川は黙って見過ごすことができなかった」(166頁)のだ。米軍の本土爆撃は、非戦闘員へのジェノサイドだ。原爆投下も同様だ。
(11)太平洋戦争敗戦と戦後の混乱の中で(その1):賀川公開書簡「マッカーサー総司令官に寄す」!
「賀川は日本が最後まで戦う決意でいたところを、天皇の詔書によって整然と降伏したことの重要性を説いた。」そして「日本が秩序を保って降伏したことを考えて、戦勝国が日本を・・・・広い心と思いやりの気持ち持って治める大切さを述べた」。(167頁)20余日後、賀川はマッカーサー元帥に招かれ連合軍司令部で会う。以後も何度か意見交換している。
《感想11》賀川は卓越した頭脳、信仰心(信念)を持ち、ノーベル平和賞候補に3度もなった世界的有名人で、英語も極めて堪能だ。マッカーサーが、賀川の意見を聞くつもりになったのは当然だ。
(11)-2 太平洋戦争敗戦と戦後の混乱の中で(その2):「三年にして復興できる」!
賀川は、日本人は戦災の苦難を克服できると述べた。ただ、そのためには「①必ず復興するのだという気持を持つこと、②お互いに助け合う気持ちを持ち、またその組織を持つこと、③宗教意識を高めること、つまり目には見えないが、この世界の奥にあるものを信じる心を持つこと、これらができれば必ず三年にして復興できる」と言う。そして彼は、スラムでの救済活動や関東大震災などの多くの災害に取り組んできた経験、また農民福音学校、協同組合作りの経験を活かし、『新日本の衣食住』(朝日新聞社)などの本で衣食住の問題を解決する「生きる工夫」を説いた。(169-170頁)
《感想11-2》賀川は物の問題が、実は人の心の問題でもあると指摘する。もちろん物の問題としてしか解決できない部分についての知恵=経験も、彼には十分あった。
(11)-3 太平洋戦争敗戦と戦後の混乱の中で(その3):「国民総ざんげ運動」!
賀川は1945/8/26東久邇稔彦(ヒガシクニナルヒコ)首相の要請で内閣参与となる。首相から「日本の道義が落ちているのを救ってください。世界平和を目指した活動をしてください」と頼まれた。そこで賀川は「国民総ざんげ運動」を展開した。戦争責任者の責任が曖昧になるとの反対意見もあった。しかし賀川は、自分も含め「国民それぞれが戦争の責任を自覚する必要がある」と説いた。(170-171頁)
《感想11-3》「国民総ざんげ運動」は、日本国民自身が戦争責任者の責任を問う道を閉ざした。だが戦争責任をめぐる論争による国内の分裂を止めた効果があった。
(12)原子爆弾と世界連邦運動
核兵器の犠牲者の惨状、また放射能汚染は人類の破滅に至りうるとの心配から、世界的に1946年「世界連邦政府のための世界運動」(WMWFG)が結成された。※現在は「世界連邦運動」(WFM)と名称変更している。(178頁)賀川はすでに広島・長崎の被害のすさまじさを見て、核兵器廃絶とそれを実現するには世界連邦・世界国家しかないことを確信した。(174頁)日本では賀川が中心となり1948/8/6、「世界連邦建設同盟」を結成。そして1952年11月「世界連邦アジア会議」が広島で開催され、「広島宣言」が採択された。(178-182頁)
《感想12》現在、「世界連邦」の理想が掲げられた1946年から70余年が経った。今や、「広島宣言」(1952年)の「戦争の絶滅を記する厳粛なる決意」また「世界連邦の基礎たる人類同胞愛の精神」は脆弱になっている。以下広島宣言第1~6項について見てみよう。①「原子兵器の製造ならびに使用を禁止する。」「製造」は今も続く。ただしその「使用」が阻止できている点は反核運動の大きな成果だ。②「軍備の全廃を目標として各国の現有軍備を徹底的に縮小する。」これについてはそもそも「軍備の全廃」を目標とするとの理念が受け入れられていない。「弱肉強食」でなく「友愛・互助・平和」の世界を目指すとの理念が理想主義的だとバカにされる。実際、国家は《暴力的強制装置》=物理的強制力を不可欠とする。③「人種的差別を撤廃し基本的人権を確立する。」今も「人種的差別」の撤廃が難しい。かつてソ連解体(1991年)で各地に民族主義が噴出し、1990年代は《民族浄化》の惨劇の時代だった。また今や移民排除の政治家が大手をふるっている。(Ex.米トランプ政権2017年成立)また人が誰でも幸福に生きる権利があること(「基本的人権」)を、認めない者たちが多い。特に成功者、富裕者、権力保持者の傲慢と強欲がひどい。彼らが合法的に《強盗》《泥棒》をしているとの主張は考慮されてよい。④「宗教的偏見を排除し、世界各宗教の提携を促進する」との広島宣言第4項は危機に陥っている。シーア派とスンニ派の対立、仏教徒によるイスラム教徒の迫害(ミャンマー)、ヒンズー教徒によるイスラム教徒の迫害(インドのヒンズー至上主義)、イスラム過激派(Ex. イスラム国=SI)の暴力性等々。⑤「速やかに各国における戦犯ならびに俘虜を釈放する。」これは第2次大戦の戦争処理の問題だ。ほぼ解決された。⑥「人口問題の解決のため世界資源の解放を期する。」これは国連の諸援助機関、ODAの活動、また資源恒久主権の確立など一定の前進が見られた。
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