天才的レーサー、ジェームス・ハント(マクラーレン)(1947-1993)とニキ・ラウダ(フェラーリ)(1949-2019)の1976年F1グランプリ16戦の熾烈な対決の物語。実話に基づく。(ハント役は「マイティ・ソー」のクリス・ヘムズワース、ラウダ役は「グッバイ、レーニン!」のダニエル・ブリュール)。
(1)F1レースで「死ぬ確率が20%」!
F1レーサーは命がけだ。「死ぬ確率が20%」とラウダが何度も言う。激しい雨の日に「それ以上の確率で走るのは嫌だ」とラウダ。ハントは「それ以上の確率でも走るのがF1レーサーだ!」と言う。ハントは「レースの日は死ぬ日だ」という覚悟で生きる。緊張してレース前に嘔吐する。
(2)F1チャンピオンへの執念!
衝撃のクラッシュ。彼はドイツ・ニュルブルクリンクで開催された第11戦ドイツGPで大事故に見舞われる。ヘルメットが取れ炎に1分間も包まれ顔と肺の中を大やけどする。しかし奇跡的に6週間で復帰。ラウダの執念はすさまじい。ハントとのF1チャンピオンをめぐる戦いへの執念だ。
(3)1976年、ハントは初めて(かつ唯1回)F1チャンピオンとなる!
ニキ・ラウダは1975年、初のワールドチャンピオン。1976年F1グランプリ2連覇を目指し10戦までトップを確保していた。しかし11戦の大クラッシュと大やけどでシーズン欠場。この状況でジェームス・ハントが急迫。ラウダは2戦欠場の後に復帰(奇跡の4位となる)。しかし完全に怪我が治癒しておらず、最終戦(16戦)の富士スピードウェイでハントに逆転されタイトルを奪われた。ハントは初めて(かつ唯1回)F1チャンピオンとなった。(Cf. 1977年はニキ・ラウダが2度目のワールドチャンピオンになる。)
(4)ジェームス・ハントの引退と急逝!
ジェームス・ハントは1979年引退。引退の理由については「チャンピオンシップがマシンの性能に大きく左右され、ドライバーの腕だけではいかんともし難くなり興味を失った」と述べた。現役引退後はイギリスBBCのF1中継解説者となり人気を博した。1993年心臓発作により45歳で急逝。死の数時間前まで、友人にジョークを飛ばしていたという。
(5)映画と現実の相違点!
映画と現実に相違点がある。劇中では「ラウダとハントは犬猿の仲だったが、F1で実力を認め合った後、親友になる」というストーリーだ。だが実際には二人はF3時代から仲が良い。同様に1976年の最終戦・日本GPで棄権したラウダがピットからハントのチャンピオン奪取を見届けるが、現実ではラウダはマシンを降りてすぐサーキットを離れ、空港で結果を知らされた。
(6)ニキ・ラウダ:事故からの復帰時、「恐怖で体が凍り付いていた」!
ニキ・ラウダは1975年、1977年、1984年(後述)のF1チャンピオン。「スーパーラット」「不死鳥」の異名がある。1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、助かる見込みが少ないと思われ、病院に神父が呼ばれていた。事故からの復帰レース時には「恐怖心はない」と言い続けたが、引退後に出版した自伝では「あれは嘘だった。でもライバルに弱みを見せるのは絶対に避けたかったので、そういう事にしておいた。」「実際にはモンツァでは恐怖で体が凍り付いていたし、特に金曜日は雨だったからとても怖かった。」と告白している。
(6)-2 ニキ・ラウダ(続):1979年現役引退、1984年再復帰し3度目のワールドチャンピオン!
1979年、ニキ・ラウダ現役引退。「同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなった。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思う」と述べた。彼は前年設立したラウダ航空の経営に実業家として専念。しかしラウダ航空の経営が順調でなくなり、1982年、現役復帰。1984年、3度目のワールドチャンピオンに輝く。かくてニキ・ラウダは1975年、1977年、1984年のF1チャンピオンとなった。
(6)-3 ニキ・ラウダ(続々):亡くなるまで40年以上にわたり、F1に関わり続けた!
1985年、引退後のラウダは、航空機産業に従事する傍ら、F1チームの首脳も歴任。古巣フェラーリではアドバイザーを、ジャガーではチーム代表を務めた。また2012年にはメルセデスの非常勤会長に就任。2019年に、亡くなるまで40年以上にわたりF1に関わり続けた。
《感想》F1レースにこれまで特に関心がなかった。しかしこの映画でF1レーサーの生き方、熱意を知った。死の確率20%という事実を知りながら、レースに命をかけ生きるF1レーサーの気持ちを垣間見た。感激した。
(1)F1レースで「死ぬ確率が20%」!
F1レーサーは命がけだ。「死ぬ確率が20%」とラウダが何度も言う。激しい雨の日に「それ以上の確率で走るのは嫌だ」とラウダ。ハントは「それ以上の確率でも走るのがF1レーサーだ!」と言う。ハントは「レースの日は死ぬ日だ」という覚悟で生きる。緊張してレース前に嘔吐する。
(2)F1チャンピオンへの執念!
衝撃のクラッシュ。彼はドイツ・ニュルブルクリンクで開催された第11戦ドイツGPで大事故に見舞われる。ヘルメットが取れ炎に1分間も包まれ顔と肺の中を大やけどする。しかし奇跡的に6週間で復帰。ラウダの執念はすさまじい。ハントとのF1チャンピオンをめぐる戦いへの執念だ。
(3)1976年、ハントは初めて(かつ唯1回)F1チャンピオンとなる!
ニキ・ラウダは1975年、初のワールドチャンピオン。1976年F1グランプリ2連覇を目指し10戦までトップを確保していた。しかし11戦の大クラッシュと大やけどでシーズン欠場。この状況でジェームス・ハントが急迫。ラウダは2戦欠場の後に復帰(奇跡の4位となる)。しかし完全に怪我が治癒しておらず、最終戦(16戦)の富士スピードウェイでハントに逆転されタイトルを奪われた。ハントは初めて(かつ唯1回)F1チャンピオンとなった。(Cf. 1977年はニキ・ラウダが2度目のワールドチャンピオンになる。)
(4)ジェームス・ハントの引退と急逝!
ジェームス・ハントは1979年引退。引退の理由については「チャンピオンシップがマシンの性能に大きく左右され、ドライバーの腕だけではいかんともし難くなり興味を失った」と述べた。現役引退後はイギリスBBCのF1中継解説者となり人気を博した。1993年心臓発作により45歳で急逝。死の数時間前まで、友人にジョークを飛ばしていたという。
(5)映画と現実の相違点!
映画と現実に相違点がある。劇中では「ラウダとハントは犬猿の仲だったが、F1で実力を認め合った後、親友になる」というストーリーだ。だが実際には二人はF3時代から仲が良い。同様に1976年の最終戦・日本GPで棄権したラウダがピットからハントのチャンピオン奪取を見届けるが、現実ではラウダはマシンを降りてすぐサーキットを離れ、空港で結果を知らされた。
(6)ニキ・ラウダ:事故からの復帰時、「恐怖で体が凍り付いていた」!
ニキ・ラウダは1975年、1977年、1984年(後述)のF1チャンピオン。「スーパーラット」「不死鳥」の異名がある。1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、助かる見込みが少ないと思われ、病院に神父が呼ばれていた。事故からの復帰レース時には「恐怖心はない」と言い続けたが、引退後に出版した自伝では「あれは嘘だった。でもライバルに弱みを見せるのは絶対に避けたかったので、そういう事にしておいた。」「実際にはモンツァでは恐怖で体が凍り付いていたし、特に金曜日は雨だったからとても怖かった。」と告白している。
(6)-2 ニキ・ラウダ(続):1979年現役引退、1984年再復帰し3度目のワールドチャンピオン!
1979年、ニキ・ラウダ現役引退。「同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなった。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思う」と述べた。彼は前年設立したラウダ航空の経営に実業家として専念。しかしラウダ航空の経営が順調でなくなり、1982年、現役復帰。1984年、3度目のワールドチャンピオンに輝く。かくてニキ・ラウダは1975年、1977年、1984年のF1チャンピオンとなった。
(6)-3 ニキ・ラウダ(続々):亡くなるまで40年以上にわたり、F1に関わり続けた!
1985年、引退後のラウダは、航空機産業に従事する傍ら、F1チームの首脳も歴任。古巣フェラーリではアドバイザーを、ジャガーではチーム代表を務めた。また2012年にはメルセデスの非常勤会長に就任。2019年に、亡くなるまで40年以上にわたりF1に関わり続けた。
《感想》F1レースにこれまで特に関心がなかった。しかしこの映画でF1レーサーの生き方、熱意を知った。死の確率20%という事実を知りながら、レースに命をかけ生きるF1レーサーの気持ちを垣間見た。感激した。