※武光誠(1950-)『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』(1991, 1999, 2006)第2章「戦乱時代の勝者」
Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!
第2章(その3)「邪馬台国最後の戦い」(146頁-):邪馬台国(卑弥呼)184年倭国の大乱を治め覇権~卑弥呼250頃没・台与(266年、晋に遣使)~320年代、邪馬台国滅亡!
(1)邪馬台国大和説の崩壊:220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に中国文化の影響が全くない!
A 北九州は弥生時代以来、先進地域だった。57年に奴国が金印(王族の地位)を与えられる。
A-2 3世紀に邪馬台国が魏・晋と交流。しかし320年代に大和朝廷の攻撃を受け、邪馬台国崩壊。文化の頂点の地を押さえるのが大和朝廷の「天下取り」に不可欠。
B 卑弥呼や台与の時代、220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に、中国文化の影響が全くない。(Ex. 中国産の青銅器も、中国の器物を模した国産品もない。)かくて中国と通交した邪馬台国・卑弥呼の都が大和にあったわけがない。邪馬台国大和説の崩壊!
《感想1》220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に中国文化の影響が全くないので、中国と通交した邪馬台国の都が大和にあったはずがない!
(2)3世紀の中国の役人は極めてのんびり旅をする!(『三国志』「魏志」倭人伝)
C 台湾の中国文学者・謝銘仁氏が言う。「3世紀の中国の役人は極めてのんびり旅をするから、邪馬台国が北九州にあっても構わない。」60日かけて不弥国(フミコク)から邪馬台国まで行っているが途中、休憩したり、卜占・祭祀を行ったりする。(大和まで行かない!)
《感想2》3世紀の中国の役人が、不弥国(フミコク)から邪馬台国まで行くのに60日かかったこと(『魏志』「倭人伝」)が、邪馬台国が「大和」にあるとされる根拠の一つだ。しかし当時、中国の役人は極めてゆっくり旅したのだ!
(3)紀元前1世紀、北九州に倭人100余国あり:前漢に追われた呉・越など中国・江南からの航海民の襲来!
D 紀元前10世紀初頭に弥生時代が始まる。素朴な弥生土器と石器・木器の生活だった。
D-2 ところが紀元前1世紀中葉に、北九州に革命的な変化が起きる。①朝鮮半島との大掛かりな交易、②大量の青銅器・鉄器の流入、③鉄製農具によりコメの生産量が激増、④生活に余裕ができ種々の手工業製品を生産。
D-3 この原因は前漢に追われた呉・越など江南の人々(航海民)が四散し、その一部が北九州に来たためと推定できる。
D-4 彼らは人の霊を象徴する銅鏡、護身の呪具の銅剣・銅矛を祭具とした。
D-5 かくて「漢書」地理志が日本について、「紀元前1世紀ごろ,倭人が100余の小国をつくり,一部の国が朝鮮半島の楽浪郡に使いを送っていた」と書いている。倭人は青銅器や鉄器を求めた。(Cf. 紀元前108年、武帝が楽浪郡設置。)
《感想3》紀元前1世紀、北九州に倭人100余国があったのは、前漢に追われた呉・越など中国・江南からの航海民が北九州に大挙してきたことによる。またその後、多くの渡来人が日本列島に来た。とりわけ5世紀後半には、渡来人が絹織物、武器、馬具、甲冑、須恵器の製法、中国の学問を伝える。「日本人」は、原アジア人(縄文人)と中国や朝鮮半島からの民族(弥生人、航海民、渡来人)が混血した。つまり歴史的に形成されてきた。
(4)①1世紀中葉:奴国と弥奴国(ミナコク)は交易権をめぐり争う!②2世紀前半:伊都国(イトコク)隆盛(Ex.帥升)!②-2邪馬台国台頭!③2世紀後半(178-184):倭国大乱!④184年倭国大乱が終わる:邪馬台国卑弥呼が伊都国を従えた!
E 1世紀中葉の北九州では多くの小国が繁栄していた。57年に「奴国」(博多)が金印(漢委奴国王)を与えられる。佐賀県吉野ケ里遺跡(「弥奴国」ミナコク)の全盛期も1世紀中葉だ。(奴国と弥奴国は交易権をめぐり争う。)
E-2 「伊都国」(糸島半島)の帥升(スイショウ)が107年に「倭国王」と自称し後漢に朝貢(生口160人)し、「倭王」に任命された。筑前の小国群をまとめた。楽浪郡で安全な交易ができた。(153頁)
E-3 筑後の小国群が邪馬台国を押し立てた。2世紀初頭、弥奴国(ミナコク)は衰退し、邪馬台国が筑後の盟主となる。
E-4 中国の先進文化の獲得権をめぐり、178-184年、倭国に大乱が起こる。(伊都国の小国群vs邪馬台国の小国群!)184年に、邪馬台国の卑弥呼がそれを治めた。(邪馬台国が伊都国を従えた。)
《感想4》紀元前1世紀、北九州に倭人100余国→紀元1世紀半ば57年に奴国(博多)が金印(王族の地位)を与えられる→1世紀中葉、奴国と弥奴国(ミナコク)(吉野ケ里)が交易権をめぐり争う→紀元2世紀初め107年「伊都国」(糸島)帥升(スイショウ)が後漢から「倭王」に任命される→2世紀後半(178-184)倭国大乱(伊都国の小国群vs邪馬台国の小国群)→184年邪馬台国の卑弥呼勝利→3世紀半ば(243-247)卑弥呼は交易権を要求する狗奴国(肥後)と争い勝利→卑弥呼没(※250頃)→3世紀後半、台与(266年、晋に遣使)→4世紀初め320年代邪馬台国滅亡(大和朝廷崇神天皇が併合)!
(4)-2 邪馬台国の繁栄と卑弥呼(※250頃没)・台与(266年、晋に遣使):邪馬台国(卑弥呼)184年倭国の大乱を治め覇権~320年代滅亡!
F 邪馬台国は「交易国家」であり、小国連合の盟主だった。「交易国家」として有益な物品を独占し、それを他の小国に分け与える。
F-2 邪馬台国の隆盛は、魏(220-265、中国・三国時代に華北支配、曹操の子・曹丕が建国)・晋(265-316、西晋)(Cf. 南遷し東晋317-420)あってのものだった。(なお320年代、邪馬台国が「大和朝廷」崇神天皇によって滅亡させられる。)
F-3 邪馬台国の特産品は、三角縁(ブチ)神獣鏡だ。(Ex. 景初3年・239年、卑弥呼の時代の銘。)なお魏が卑弥呼に与えた鏡ではない。国産だ。
F-4 卑弥呼は243-247、交易権を要求する肥後の狗奴国(クヌコク)と争い勝利する。(157頁)
《感想4》邪馬台国は「交易国家」であり、魏への朝貢は、交易独占の資格を得るためだ。
(5)宗像と宇佐の首長が、航海民として、北九州(邪馬台国)征圧に協力した!
G 朝廷と縁が深いのは宗像神社と宇佐八幡宮。
G-2 朝廷は宗像の航海民を重んじた。邪馬台国の時代、大陸との交易の中心は奴国や伊都国だった。北方の宗像は交易路からはずされていた。
G-3 宇佐八幡宮はもと宗像3神を主祭神とし、宇佐の首長は航海民だった。
G-4 宗像と宇佐の首長が、航海民として、北九州(邪馬台国)征圧に協力した。
《感想5》大和朝廷は、吉備の首長の協力のもとに水軍を編成して北九州に侵攻。豊前(宗像)・豊後(宇佐)の諸豪族の水軍がそれに協力。さらに大和朝廷と結ぶ北九州の豪族たちを従え邪馬台国に攻め込み敗北させた。(後述)
《感想5-2》宗像氏は、筑前の海洋豪族。畿内の大和朝廷から瀬戸内海、関門海峡を通り宗像の地の沖から対馬を経て朝鮮半島に至る海路は「海北道中」と呼ばれた。
《感想5-3》宇佐神宮(725年創建)の八幡大神は、4世紀「倭の五王」最初の15代応神天皇(神功皇后が母)の神霊。八幡大神は6世紀571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に示顕。宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けた。神代に比売大神(宗像3神)が宇佐嶋に降臨したと『日本書紀』が記す。(以上、宇佐神宮HP)
(6)320年代、邪馬台国滅亡!
H 邪馬台国を後援する晋(西晋265-316)は衰退し、邪馬台国の交易権が動揺する。313年、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす。316年、西晋滅亡。(南渡し317年東晋。)邪馬台国は後援者を失う。(※交易の特権を失った!)これが大和朝廷の北九州征圧のきっかけとなる。
H-2 すでに4世紀(300年代)に入ると、邪馬台国に見切りをつけ、より大きな勢力の大和朝廷と結ぶ首長が続々出現した。大和朝廷の首長霊信仰にもとづく巨大な前方後円墳(Cf. 首長霊信仰の箸墓古墳は280年前後)が出現。(Ex. 邪馬台国滅亡後の北九州の最有力豪族・筑紫氏。)
H-3 豊前(宗像)・豊後(宇佐)と大和朝廷の密接なつながり。(既述)
I 大和朝廷崇神天皇は、吉備の首長の協力のもとに水軍を編成して北九州に侵攻。豊前(宗像)・豊後(宇佐)の諸豪族の水軍がそれに協力。さらに大和朝廷と結ぶ北九州の豪族たちを従え邪馬台国に攻め込み敗北させた。(320年代!)
《感想6》各地方豪族は有力な後ろ盾を求め、常に政治状況の風向きに敏感である。4世紀(300年代)に入って、邪馬台国に見切りをつけ、より大きな勢力の大和朝廷と結ぶ首長が、北九州に続々出現した。かくて320年代、大和朝廷崇神天皇が、邪馬台国を滅亡させる。
(6)-2 邪馬台国から奪った戦利品の行方!
J 大和朝廷の邪馬台国遠征軍の主力は、大王家と春日氏と木津盆地の豪族の連合軍だった。
J-2 (ア)木津盆地の首長は32面の三角縁神獣鏡を得た。
J-3 (イ)春日氏は中平年間(184-89)の銘を持つ鉄刀を得る。(後漢が倭国大乱を治めた卑弥呼に授けた。)
K 大和朝廷は邪馬台国の宝物を根こそぎ奪った。例えば、大和朝廷は素環頭(ソカンドウ)大刀(タチ)を臣下に授けた。
K-2 また大和朝廷は、三角縁神獣鏡の製作技術を邪馬台国から得て、銅鏡づくりを始め、支配下の首長に与えるようになった。(これは、邪馬台国の交易品の分配をまねたものだ。)
《感想6-2》崇神天皇は320年代、銅剣・銅矛文化圏(北九州側)と銅鐸文化圏(祖霊信仰の近畿側)の対立を解消、銅鏡(首長霊信仰)を普及させた。(既述)
Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!
第2章(その3)「邪馬台国最後の戦い」(146頁-):邪馬台国(卑弥呼)184年倭国の大乱を治め覇権~卑弥呼250頃没・台与(266年、晋に遣使)~320年代、邪馬台国滅亡!
(1)邪馬台国大和説の崩壊:220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に中国文化の影響が全くない!
A 北九州は弥生時代以来、先進地域だった。57年に奴国が金印(王族の地位)を与えられる。
A-2 3世紀に邪馬台国が魏・晋と交流。しかし320年代に大和朝廷の攻撃を受け、邪馬台国崩壊。文化の頂点の地を押さえるのが大和朝廷の「天下取り」に不可欠。
B 卑弥呼や台与の時代、220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に、中国文化の影響が全くない。(Ex. 中国産の青銅器も、中国の器物を模した国産品もない。)かくて中国と通交した邪馬台国・卑弥呼の都が大和にあったわけがない。邪馬台国大和説の崩壊!
《感想1》220年頃作られた纏向遺跡(「大和朝廷」)に中国文化の影響が全くないので、中国と通交した邪馬台国の都が大和にあったはずがない!
(2)3世紀の中国の役人は極めてのんびり旅をする!(『三国志』「魏志」倭人伝)
C 台湾の中国文学者・謝銘仁氏が言う。「3世紀の中国の役人は極めてのんびり旅をするから、邪馬台国が北九州にあっても構わない。」60日かけて不弥国(フミコク)から邪馬台国まで行っているが途中、休憩したり、卜占・祭祀を行ったりする。(大和まで行かない!)
《感想2》3世紀の中国の役人が、不弥国(フミコク)から邪馬台国まで行くのに60日かかったこと(『魏志』「倭人伝」)が、邪馬台国が「大和」にあるとされる根拠の一つだ。しかし当時、中国の役人は極めてゆっくり旅したのだ!
(3)紀元前1世紀、北九州に倭人100余国あり:前漢に追われた呉・越など中国・江南からの航海民の襲来!
D 紀元前10世紀初頭に弥生時代が始まる。素朴な弥生土器と石器・木器の生活だった。
D-2 ところが紀元前1世紀中葉に、北九州に革命的な変化が起きる。①朝鮮半島との大掛かりな交易、②大量の青銅器・鉄器の流入、③鉄製農具によりコメの生産量が激増、④生活に余裕ができ種々の手工業製品を生産。
D-3 この原因は前漢に追われた呉・越など江南の人々(航海民)が四散し、その一部が北九州に来たためと推定できる。
D-4 彼らは人の霊を象徴する銅鏡、護身の呪具の銅剣・銅矛を祭具とした。
D-5 かくて「漢書」地理志が日本について、「紀元前1世紀ごろ,倭人が100余の小国をつくり,一部の国が朝鮮半島の楽浪郡に使いを送っていた」と書いている。倭人は青銅器や鉄器を求めた。(Cf. 紀元前108年、武帝が楽浪郡設置。)
《感想3》紀元前1世紀、北九州に倭人100余国があったのは、前漢に追われた呉・越など中国・江南からの航海民が北九州に大挙してきたことによる。またその後、多くの渡来人が日本列島に来た。とりわけ5世紀後半には、渡来人が絹織物、武器、馬具、甲冑、須恵器の製法、中国の学問を伝える。「日本人」は、原アジア人(縄文人)と中国や朝鮮半島からの民族(弥生人、航海民、渡来人)が混血した。つまり歴史的に形成されてきた。
(4)①1世紀中葉:奴国と弥奴国(ミナコク)は交易権をめぐり争う!②2世紀前半:伊都国(イトコク)隆盛(Ex.帥升)!②-2邪馬台国台頭!③2世紀後半(178-184):倭国大乱!④184年倭国大乱が終わる:邪馬台国卑弥呼が伊都国を従えた!
E 1世紀中葉の北九州では多くの小国が繁栄していた。57年に「奴国」(博多)が金印(漢委奴国王)を与えられる。佐賀県吉野ケ里遺跡(「弥奴国」ミナコク)の全盛期も1世紀中葉だ。(奴国と弥奴国は交易権をめぐり争う。)
E-2 「伊都国」(糸島半島)の帥升(スイショウ)が107年に「倭国王」と自称し後漢に朝貢(生口160人)し、「倭王」に任命された。筑前の小国群をまとめた。楽浪郡で安全な交易ができた。(153頁)
E-3 筑後の小国群が邪馬台国を押し立てた。2世紀初頭、弥奴国(ミナコク)は衰退し、邪馬台国が筑後の盟主となる。
E-4 中国の先進文化の獲得権をめぐり、178-184年、倭国に大乱が起こる。(伊都国の小国群vs邪馬台国の小国群!)184年に、邪馬台国の卑弥呼がそれを治めた。(邪馬台国が伊都国を従えた。)
《感想4》紀元前1世紀、北九州に倭人100余国→紀元1世紀半ば57年に奴国(博多)が金印(王族の地位)を与えられる→1世紀中葉、奴国と弥奴国(ミナコク)(吉野ケ里)が交易権をめぐり争う→紀元2世紀初め107年「伊都国」(糸島)帥升(スイショウ)が後漢から「倭王」に任命される→2世紀後半(178-184)倭国大乱(伊都国の小国群vs邪馬台国の小国群)→184年邪馬台国の卑弥呼勝利→3世紀半ば(243-247)卑弥呼は交易権を要求する狗奴国(肥後)と争い勝利→卑弥呼没(※250頃)→3世紀後半、台与(266年、晋に遣使)→4世紀初め320年代邪馬台国滅亡(大和朝廷崇神天皇が併合)!
(4)-2 邪馬台国の繁栄と卑弥呼(※250頃没)・台与(266年、晋に遣使):邪馬台国(卑弥呼)184年倭国の大乱を治め覇権~320年代滅亡!
F 邪馬台国は「交易国家」であり、小国連合の盟主だった。「交易国家」として有益な物品を独占し、それを他の小国に分け与える。
F-2 邪馬台国の隆盛は、魏(220-265、中国・三国時代に華北支配、曹操の子・曹丕が建国)・晋(265-316、西晋)(Cf. 南遷し東晋317-420)あってのものだった。(なお320年代、邪馬台国が「大和朝廷」崇神天皇によって滅亡させられる。)
F-3 邪馬台国の特産品は、三角縁(ブチ)神獣鏡だ。(Ex. 景初3年・239年、卑弥呼の時代の銘。)なお魏が卑弥呼に与えた鏡ではない。国産だ。
F-4 卑弥呼は243-247、交易権を要求する肥後の狗奴国(クヌコク)と争い勝利する。(157頁)
《感想4》邪馬台国は「交易国家」であり、魏への朝貢は、交易独占の資格を得るためだ。
(5)宗像と宇佐の首長が、航海民として、北九州(邪馬台国)征圧に協力した!
G 朝廷と縁が深いのは宗像神社と宇佐八幡宮。
G-2 朝廷は宗像の航海民を重んじた。邪馬台国の時代、大陸との交易の中心は奴国や伊都国だった。北方の宗像は交易路からはずされていた。
G-3 宇佐八幡宮はもと宗像3神を主祭神とし、宇佐の首長は航海民だった。
G-4 宗像と宇佐の首長が、航海民として、北九州(邪馬台国)征圧に協力した。
《感想5》大和朝廷は、吉備の首長の協力のもとに水軍を編成して北九州に侵攻。豊前(宗像)・豊後(宇佐)の諸豪族の水軍がそれに協力。さらに大和朝廷と結ぶ北九州の豪族たちを従え邪馬台国に攻め込み敗北させた。(後述)
《感想5-2》宗像氏は、筑前の海洋豪族。畿内の大和朝廷から瀬戸内海、関門海峡を通り宗像の地の沖から対馬を経て朝鮮半島に至る海路は「海北道中」と呼ばれた。
《感想5-3》宇佐神宮(725年創建)の八幡大神は、4世紀「倭の五王」最初の15代応神天皇(神功皇后が母)の神霊。八幡大神は6世紀571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に示顕。宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けた。神代に比売大神(宗像3神)が宇佐嶋に降臨したと『日本書紀』が記す。(以上、宇佐神宮HP)
(6)320年代、邪馬台国滅亡!
H 邪馬台国を後援する晋(西晋265-316)は衰退し、邪馬台国の交易権が動揺する。313年、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす。316年、西晋滅亡。(南渡し317年東晋。)邪馬台国は後援者を失う。(※交易の特権を失った!)これが大和朝廷の北九州征圧のきっかけとなる。
H-2 すでに4世紀(300年代)に入ると、邪馬台国に見切りをつけ、より大きな勢力の大和朝廷と結ぶ首長が続々出現した。大和朝廷の首長霊信仰にもとづく巨大な前方後円墳(Cf. 首長霊信仰の箸墓古墳は280年前後)が出現。(Ex. 邪馬台国滅亡後の北九州の最有力豪族・筑紫氏。)
H-3 豊前(宗像)・豊後(宇佐)と大和朝廷の密接なつながり。(既述)
I 大和朝廷崇神天皇は、吉備の首長の協力のもとに水軍を編成して北九州に侵攻。豊前(宗像)・豊後(宇佐)の諸豪族の水軍がそれに協力。さらに大和朝廷と結ぶ北九州の豪族たちを従え邪馬台国に攻め込み敗北させた。(320年代!)
《感想6》各地方豪族は有力な後ろ盾を求め、常に政治状況の風向きに敏感である。4世紀(300年代)に入って、邪馬台国に見切りをつけ、より大きな勢力の大和朝廷と結ぶ首長が、北九州に続々出現した。かくて320年代、大和朝廷崇神天皇が、邪馬台国を滅亡させる。
(6)-2 邪馬台国から奪った戦利品の行方!
J 大和朝廷の邪馬台国遠征軍の主力は、大王家と春日氏と木津盆地の豪族の連合軍だった。
J-2 (ア)木津盆地の首長は32面の三角縁神獣鏡を得た。
J-3 (イ)春日氏は中平年間(184-89)の銘を持つ鉄刀を得る。(後漢が倭国大乱を治めた卑弥呼に授けた。)
K 大和朝廷は邪馬台国の宝物を根こそぎ奪った。例えば、大和朝廷は素環頭(ソカンドウ)大刀(タチ)を臣下に授けた。
K-2 また大和朝廷は、三角縁神獣鏡の製作技術を邪馬台国から得て、銅鏡づくりを始め、支配下の首長に与えるようになった。(これは、邪馬台国の交易品の分配をまねたものだ。)
《感想6-2》崇神天皇は320年代、銅剣・銅矛文化圏(北九州側)と銅鐸文化圏(祖霊信仰の近畿側)の対立を解消、銅鏡(首長霊信仰)を普及させた。(既述)