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世界内存在つまりモナドに「外界」はない!デカルトの「われ思惟す、われ存在す」は、「われ存在す、われ思惟す」と逆転する必要がある! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第43節」(b)

2019-10-17 22:55:05 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第43節 現存在、世界性および実在性」「(b)存在論的問題としての実在性」

(8)ディルタイ:実在的なものは、衝動や意志の中で経験される!実在性とは抵抗性である!
L「実在性(Realitat)という名称は世界の内部に客体的に存在する存在者の(res)の存在を指す」。(209頁)
M ディルタイが言う。「実在的なものは、衝動や意志の中で経験される。実在性は抵抗(Widerstand)であり、いっそう正確にいえば抵抗性である。」(209頁)
Mー2 またディルタイは言う。「生」は「その『背後へ』遡ることはできない」。(209頁)

《感想8》ディルタイが言う「生」は、実は超越論的主観性、モナドである。それは出現している世界・宇宙そのものであり「背後」がない。これをハイデガーは現存在すなわち世界内存在と呼ぶ。

Mー3 「抵抗性は、内世界的存在者(※事物)の存在の特徴である。」(210頁)
Mー4 「抵抗ということに含蓄されている『反』とか『対』という性格は、その存在論的可能性において、すでに開示されている世界内存在によって荷われている。」(210頁)
Mー5 「抵抗は・・・・それだけ遊離して『登場する』衝動や意志のなかで経験されるものではない。・・・・衝動や意志は実は関心の変様である。関心という存在様相をもつ存在者(※現存在)のみが、内世界的なものとしての抵抗的なもの(※事物)に出会いうる」。(211頁)

(9)世界内存在つまりモナドにとって「外界」はない!
N 「抵抗は、内世界的存在者(※事物)という意味での『外界』を特徴づけるものであるが、決して世界(※モナド、超越論的主観性、そこに事物が出現する場としての世界)という意味での『外界』の特徴ではない。」(211頁)

《感想9》モナドつまり世界内存在にとって「外界」はない。事物は「外界」(超越)でなく、モナドのうちで出現する。
《感想9ー2》すべてが「内界」だ!これを、つまりこのような出来事を、ハイデガーは「世界内存在」と呼ぶ。
《感想9ー3》「外界」は他モナドのみだ。
《感想9ー4》あるモナドが他モナドと出会えるのは、(a)モナドの構造的同一性(ノエシス・ノエマという出来事or作動の仕方における本質的同一性)、(b)感覚とりわけ触覚(相互に他なる抵抗性の出現)の間モナド生、(c)感情・欲望・意図(ハイデガーは「関心」と呼ぶ)における間モナド性、つまり共感的一体性、(d)触覚という《物の出現》において、相互的《他》の出現だけでなく、一方の《他》が同時に、この感情・欲望・意図の担い手でもあるという出来事(《自》)が生じることだ。(このモナドが、他のモナドに対して自モナドだと新たに確認される。)

N-2 「『実在性の意識』はそれ自身、世界内存在の一様態である。」(211頁)
《感想9ー5》「実在性の意識」とは《事物が客体的に、意識に超越して(意識の外に)存在する》と信じることだ。(これは日常的世界のドクサだ!)

(10)デカルトの《cogito sum》(われ思惟す、われ存在す)は、《sum cogito》(われ存在す、われ思惟す)と逆転する必要がある!
O デカルトの《cogito sum》(われ思惟す、われ存在す)は、「《sum cogito》(われ存在す、われ思惟す)と逆転する必要がある。」(211頁)
O-2 そして「その意味内容を存在論的=現象学的に検証する必要がある。」(211頁)
O-3 「 最初の言明は《sum》(われ存在す)であり、しかもそれは『われ世界のうちにあり』(※世界内存在、モナドが出現している)という意味である。」「このようなありさまで存在(※世界内存在)するものとして、私は、内世界的存在者(※事物)のもとでの存在の諸様態としての様々な態度(cogitationes)への存在可能性のうちにある。」(211頁)
O-4 「デカルトはこれに反して、次のように言う。cogitationes(※思惟作用)が客体的に存在する。またそのなかで(※cogitationesのなかで)一個のego(※われ)が無世界的な res cogitans(※思惟する実体)としてともに客体的に存在している。」(211頁)

《感想10》世界内存在という出来事、モナドという出来事の出現は、まことに奇跡だ。出現に理由がない。
《感想10ー2》ここで「私」とは非人称的な「関心」のことだ。それは非人称的な自発性であり、感覚の非人称的的な固有の揺れであり、非人称的な感情・欲望・意図である。
《感想10ー3》ハイデガーにとって《cogito》(われ思惟す)は関心であり、自発性の諸様態、すなわち感覚の固有の揺れ、感情・欲望・意図の諸様態である。
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