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大和朝廷の東北経営は中国的中央集権をめざす指導者が出た時に推進された!藤原不比等、藤原仲麻呂!縄文文化を代表する亀ヶ岡遺跡! 武光誠『「古代日本」誕生の謎』「第3章」(その1)

2019-10-05 21:26:34 | 日記
※武光誠(1950-)『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』(1991, 1999, 2006)第3章「東北の歴史が語るもの」(その1)「東の文化を代表する亀ヶ岡遺跡」

Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀(500年代)末、ようやく北陸道征圧!645年乙巳の変(イッシノヘン)!663年白村江で敗北!673年天武天皇飛鳥浄御原宮で即位(位673-686)!701年大宝律令の制定で中国風の中央集権国家へ!

第3章(その1)「東の文化を代表する亀ヶ岡遺跡」(206頁-)
(1)隋唐成立の約100年後、701年大宝律令の制定で、日本に中国風の中央集権国家ができた!日本は中国から東方の大国と扱われる!
A  隋の建国(581-618)、唐の建国(618-907)は日本に大きな影響を及ぼした。
A-2 聖徳太子(587年蘇我馬子とともに物部守屋を倒し崇峻天皇を即位させる、615年遣隋使小野妹子、622年死去)の革新政治、大化改新645年、天武(位673-686)・持統(位690-697)朝の政治改革もすべて、中国に対抗する政権を作り出すためだった。
A-3 701年大宝律令の制定で、日本に本格的な中国風の中央集権国家ができた。日本は中国から東方の大国として扱われるようになった。

《感想1》645年乙巳の変(イッシノヘン)(皇極期、中大兄皇子のクーデター)→同年孝徳天皇即位・中大兄皇子が皇太子→663年白村江で敗北→天智天皇近江大津宮(オウミオオツノミヤ)で即位(667-672)→壬申の乱後673年天武天皇飛鳥浄御原宮で即位(位673-686)(持統皇后)→持統期689年飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)(大宝律令の前身)→持統期694年藤原京→元明期710年平城京→桓武期784年長岡京→桓武期794年平安京

(2)8世紀以降の東北経営:多賀城(724年)→759桃生柵(モモオキ)・雄勝柵(オカチキ)→坂上田村麻呂遠征(802年)!
B 8世紀以降の国政は、東北経営と深い関係を持つ。
B-2 藤原不比等(大宝律令編纂の功績で701大納言・708右大臣・710平城京遷都に貢献・720没)、藤原仲麻呂(恵美押勝、749大納言、756養老律令強行、760太政大臣、764処刑)、桓武天皇(位781-806)の時、東北経営に大きな進展があった。Cf. 多賀城724年。
B-3 8世紀(700年代)初頭、九州南端の隼人は朝廷の支配下に組み込まれており(沖縄は除く)、東北地方以外の日本列島は統一されていた。
C 律令制制定の中心人物の藤原不比等の死(720没)以降、律令制が有名無実化。Ex. 723年三世一身法(墾田の奨励のため開墾者から三世代まで墾田私有を認める)、743年墾田永世私財法。
D 749年、不比等の孫・藤原仲麻呂(764処刑)が国政を握る。天平文化最盛期。759桃生柵(モモオキ)(北上川沿い)・759雄勝柵(オカチキ)が東北経営を大幅に進めた。
E 称徳天皇の寵愛を受けた道鏡(761年孝謙天皇看病で寵愛~764藤原仲麻呂処刑~770年称徳天皇没)のもと、大寺院や貴族の荘園が拡大。
F 49代光仁天皇(位770-781)、その息子・50代桓武天皇(位781-806)は勅使田を置き天皇家自らが荘園領主となる、中央の官職削減など政治改革。積極的な東北経営:坂上田村麻呂遠征(802年)。

《感想2》東北経営が進展するのは8世紀だ。つまり701大宝律令以後で、802坂上田村麻呂遠征がその完成だ。

(2)-2 9世紀、桓武天皇が806年没後、藤原氏が専権を確立、荘園が拡大!10世紀(900年代)になると貴族・大寺院が広大な所領を抱え、中央集権体制が崩壊!
G 9世紀は、桓武天皇が806年に亡くなると、藤原氏が専権を確立。荘園が拡大。858年藤原良房・摂政(摂関政治の始まり)、880年藤原基経・関白となる。10世紀(900年代)になると貴族・大寺院が広大な所領を抱え、朝廷は儀式の場となる。地方で武士の勢力が伸長。
G-2 この時代、本州北端に中央から自立した縄文的勢力がわずかに残る。しかし中央集権体制が崩れており、朝廷の日本統一の活動は行われず。

《感想2-2》9世紀(800年代)に藤原氏が専権を確立、荘園が拡大。10世紀(900年代)になると貴族・大寺院が広大な所領を抱え、中央集権体制が崩壊、朝廷は儀式の場となる。この時代、中央集権体制が崩れており、朝廷の日本統一の活動は行われず。本州北端に中央から自立した縄文的勢力がわずかに残る。

(3)東北経営は中国的中央集権にあこがれを持つ指導者が出た時に推進された!藤原不比等(720没、多賀城724年)! 藤原仲麻呂(759桃生柵(モモオキ)・雄勝柵(オカチキ)、764処刑)!
H 中国の徳治主義をまねて行われた東北経営。
H-2 大和朝廷の東北経営は激しい戦いを伴った。朝廷と古代東北王国との対決だった。多くの小国が東北地方にあった。朝廷にとって東北地方を支配下に組み入れても、あまり利益はない。
H-3 したがって東北経営は中国的中央集権にあこがれを持つ指導者が出た時に推進された。
H-4  Ex. 藤原不比等(大宝律令編纂の功績で701大納言・708右大臣・710平城京遷都に貢献・720没)は中国的徳治主義を日本に実現しようと考えた。Ex. 藤原仲麻呂(749大納言、756養老律令強行、760太政大臣、764処刑)
H-5 徳治主義は前漢で生まれた。皇帝の徳治を受けさせるため武帝は積極的に征服活動をした。(Cf. 前漢の範囲+チベット=今の中国)

《感想3》徳治主義は、帝国主義的軍事的拡大の動機だ。(Ex. 前漢の武帝、Ex. 701大宝律令編纂の藤原不比等、756養老律令強行の藤原仲麻呂!)

(4)古代の東北地方の人々は縄文的な精霊崇拝(アニミズム)の文化だ!「円の発想」or「同心円」の文化!エコロジスト!
I 古代の東北地方の人々は精霊崇拝(アニミズム)の文化だ。首長霊信仰の朝廷文化を受け入れず、頑強に反抗した。弥生的な朝廷は大王(天皇)を頂点とする身分制を重視。縄文的な東北地方の者は、人間平等の考えだった。「俺たちは対等の仲間だ。よそ者の序列をつけられてはたまらない。」これが東北王国の者たちの考えだった。
I-2 縄文文化は、精霊崇拝から生じた「円の発想」だ。精霊はすべて平等。縄文時代の集落は広場(祭祀の聖空間、精霊が守る貯蔵倉庫、良い場所に居るべき祖先の墓地)・居住空間(竪穴住居)・ごみ捨て場(貝塚)の「同心円」だ。生き物はすべて平等。残骸にも愛着。
I-3 縄文中期に雑穀やイモの栽培開始、縄文後期に稲作伝来。しかし彼らは自然の生態系を守り森林・草原を壊さなかった。精霊崇拝(アニミズム)に基づくエコロジストである縄文人!

《感想4》縄文文化は、精霊崇拝から生じた「円の発想」or「同心円」の文化だ。

(5)弥生時代の到来は、新技術の到来であるだけでなく、「区分の発想」の到来だ!それは、縄文的なエコロジー的精霊崇拝(アニミズム)の文化、「同心円」の文化と対立し、身分および所有者ごとの区分を持ち込んだ!
J 弥生時代の到来は、新技術の到来であるだけでなく、縄文人と異なる思想を持つ人間の到来だった。彼らは「区分の発想」を持つ。(215頁)
J-2  ①人間は自然の一部でない。有益な動植物を増やし。有害な生き物を排除する。縄文的なエコロジー的精霊崇拝(アニミズム)の文化でない。②人間には能力差があり、それに見合った身分が必要だ。これら(①+②)が「区分の発想」だ。
K 「区分の発想」の持ち主のみが土地を開き(※自然の従来の秩序を破壊し)、そこの生き物を追って水田を作ることができた。
K-2 集落の外周の幅広い溝。(※これは軍事的プラクティカルな発想・観点でもある。)個々の住居も他者の侵入を拒否する溝で囲まれている。(※富裕者や権力者の場合だ!)
K-3 同じ集落の中に広い住居、狭い住居がある。集落の構成員は、平等でない。水田も所有者ごとに、溝と畔で区切られていた。
K-4 弥生時代の集落には広場と貝塚がない。共同の貯蔵空間がなく、個々の家々が穀物を保管。死者の墓地は住居から離れている。動物・魚貝類の残滓や壊れた道具は単なる不要物だ。

《感想5》弥生文化は、「区分の発想」の文化だ。①縄文的なエコロジー的精霊崇拝(アニミズム)の文化でない。また②人間には能力差があり、身分が必要だとする。これら(①+②)が「区分の発想」だ。
《感想5(続)》Cf. 「区分の発想」はルソー『人間不平等起源論』(1755)が描く事態を引き起こす。所有者が言う。「この塀を建てたのはわたしだ。わたしはこの土地を自分の労働によって手に入れたのだ」!

(5)-2 農耕が始まり、弥生時代となると、精霊崇拝(アニミズム)に代わって、「祖霊信仰」が広まる!
L 農耕が始まると、(a)「区分の発想」とともに、(b)人間中心の宗教、「祖霊信仰」がもてはやされる。これが弥生文化だ。縄文文化の精霊崇拝(or精霊信仰)(アニミズム)に対立した。
L-2 祖霊が(精霊と一体化し)、太陽の神、水の神、山の神等となり自然物を支配し人々を支える。
L-3 祖霊信仰のもとでは、人々は平等でない。祖霊の声を聞く巫女が重んじられる。Ex. 邪馬台国の卑弥呼。
L-4 巫女は指導者であり、祖霊を祀りつつ、治水技術、農事暦を持ち集落の人々の農作業を指導した。また用水を管理し彼らの生活権を握った。集落の祭祀は、農政の祭りとなった。

《感想5-2》弥生文化は(a)「区分の発想」とともに、(b)人間中心の宗教つまり「祖霊信仰」でもある。これは、縄文文化の(非a)「円の発想」or「同心円」の文化、および(非b) 「精霊信仰」(アニミズム)に対立した。

(6)紀元前200年ごろに弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に北九州にわたって来た!人口密度が低かったので、弥生文化は紀元前2世紀初頭に一気に近畿地方まで伝わった!
M 紀元前200年ごろに弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。
M-2 当時の九州の人口が少なかったので、彼らは原野を見つけ、農耕生活を始めた。まもなく旧来の住民も「区分の発想」を受け入れ、水稲耕作を始めた。
M-3 弥生文化は紀元前2世紀初頭に一気に近畿地方まで伝わった。(そしてそれから約150年かけて関東地方に広まった。
M-4 縄文晩期の人口密度は、西へ行くほど低かったので、新たな渡来者は、近畿地方までは抵抗なしに進出した。Ex. 神戸市大開遺跡。

《感想6》紀元前200年ごろに弥生文化(つまり「区分の発想」)をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。これによる水稲耕作の開始で、弥生時代の北九州の人口が爆発的に増加。
《感想6-2》紀元前1世紀になると、「漢書」地理志が日本について、「倭人が100余の小国をつくり,一部の国が朝鮮半島の楽浪郡に使いを送っていた」と述べる。倭人は青銅器や鉄器を求めた。(Cf. 紀元前108年、武帝が楽浪郡設置。)
《感想6-2-2》この原因は紀元前1世紀、前漢に追われた呉・越など江南の人々(航海民)が四散し、その一部が北九州に来たためと推定できる。
《感想6-3》実際、紀元前1世紀中葉に、北九州に革命的な変化が起きる。①朝鮮半島との大掛かりな交易、②大量の青銅器・鉄器の流入、③鉄製農具によりコメの生産量が激増、④生活に余裕ができ種々の手工業製品を生産。
《感想6-3-2》Cf. さかのぼれば、紀元前10世紀初頭に弥生時代が始まったが、まだ素朴な弥生土器と石器・木器の生活だった。
《感想6-4》紀元前後になると、北九州の人々が大量に西日本に移住。北九州の先進文化が、まず日本海沿岸(出雲)に拡がり、次いで瀬戸内海航路を用いて各地(吉備、次いで「大和」)に伝えられた。
《感想6-4-2》北九州の先進文化(Ex. 伊都国の全盛、※100-150年頃)→出雲の荒神谷遺跡(※150年頃)→吉備の文化が繁栄(※170年頃)→古代都市「大和」(纏向)の形成(※220年頃)。

(7)原アジア人は約3万年前(紀元前2万8000年)にアジア大陸南部で発生!原アジア人が1万6000年前(紀元前1万4000年)に縄文文化を生み出した!中国人系民族は約1万2000年前(紀元前1万年)にシベリアでアジア人から分かれた!
N アジア人は、原アジア人(古モンゴロイド)と中国人系民族(新モンゴロイド)からなる。
N-2 原アジア人は約3万年前にアジア大陸南部で発生。中国人系民族(氷河に閉じ込められ寒地に適応した体型となった)は約1万2000年前にシベリアでアジア人から分かれた。
N-3 原アジア人(古モンゴロイド)は約3万年前、氷河時代が中休みした500年間に、アジア各地に広まった。彼らは陸続きの日本にも来て日本に旧石器文化を生み出した。(約3万年前に北方からの大量の移住者により日本に旧石器文化が持ち込まれた。)そして氷河期が終わる1万6000年前(紀元前1万4000年)頃に、彼らが縄文文化を生み出した。
N-4 中国人系民族(新モンゴロイド)は、氷河が緩むと(1万6000年前氷河期が終わる)、爆発的にアジア各地に広まった。最有力な集団が殷(※紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)、周、秦、前漢を作る。

《感想7》氷河期の終わりについて、武光誠氏は1万6000年前(紀元前1万4000年)としているが、中学教科書は1万年前(紀元前8000年頃)だ。

(7)-2 紀元前1000年前後に、弥生人(朝鮮半島からの移住者)が水稲耕作を持ち込み、弥生文化が始まった!ただし弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来たのは、紀元前200年頃だ!現在の日本人は、原アジア人と中国人系民族がほぼ半々に混血した!
O 紀元前1000年前後に、弥生人(朝鮮半島からの移住者)が水稲耕作を持ち込み、弥生文化を作った。彼らは原アジア人の系譜をひくが、かなり中国人系民族と混血している。(Cf. ただし弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来たのは、紀元前200年頃だ。)
O-2  江南の原アジア人は春秋時代に呉、越の強国を作った。前漢に追われた呉・越など江南の人々(航海民)が四散し、紀元前1世紀中葉、その一部が北九州に来た。(Ex. 紀元前1世紀、北九州に倭人100余国があった。)
O-3  その後に、中国(中国人系民族)や朝鮮から渡来人(※4-7世紀)が多数やって来た。(Cf. 320年代に崇神天皇が邪馬台国を征圧し外交権交易権を得た。7世紀、660年百済滅亡。)このため現在の日本人は、原アジア人と中国人系民族がほぼ半々に混血したと言える。
O-4 原アジア人は「円の発想」だ。(縄文人!)中国人系民族は「区分の発想」(Ex. 身分制、中国的専制政治)だ(弥生人!)。原アジア人と中国人系民族がほぼ半々に混血した日本人の場合、「区分の発想」によってたつ皇帝の下の厳密な身分制(Ex. 宦官、易姓革命、科挙)は根付かなかった。

《感想7-2》弥生文化つまり「区分の発想」が日本で優勢となるのは、朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た紀元前200年頃からだ。(Cf. 中国人が朝鮮半島に侵入し紀元前2世紀初頭に「衛氏朝鮮」を作ったので、朝鮮半島の住民が追われて日本に来て、弥生文化を発展させた。)

(8)亀ヶ岡王国(221頁-):亀ヶ岡土器は「縄文文化の華」だが一部の支配者だけの贅沢品はない!「縄文時代に農耕は見られない」との旧説は誤り!
P 縄文文化が最も栄えた遺跡:亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)。(※Wikipedia約3000年前~紀元前3-4世紀。)(Cf. 228頁には亀ヶ岡王国の解体は4世紀末前後とある!)縄文人は、ブナ林の落葉・広葉樹林帯(北海道西半分まで)で生活した。動物の楽園で多くの果実がとれ狩猟採集に適す。
P-2 海岸に面する落葉・広葉樹林帯が東北地方にしかない。2世紀中葉以降、小国群。最も有力なのが亀ヶ岡王国!
P-3 Cf. 弥生人は暖かいカシやタブ林の照葉樹林帯(富山県・茨城県あたりまで)を好む。ここを開いて水田とした。
P-4 亀ヶ岡遺跡は、江戸時代1623年に発見され、数千点の土偶、数万点の土器が出た。それらを商人が知識人に売り込む、オランダ商人も大量の土偶を持ち帰った。亀ヶ岡土器は「縄文文化の華」だ!遮光器土偶あり。
P-4-2 亀ヶ岡遺跡には、一部の支配者だけの贅沢品はない。
P-5 「縄文時代に農耕は見られない」との旧説は誤り。亀ヶ岡遺跡の縄文人は、米、ソバ、ヒョウタン、リョクトウ、アブラナ、ゴボウ等の農作物を知っていた。しかし農民でなく、主に魚介類(サケ、マス)を食べ、野菜類は嗜好品だった。
P-6 北海道函館臼尻(ウスジリ)B遺跡(紀元前6000年頃)で、ヒエ発見。(Cf. 中国のヒエ栽培は紀元前600-700年始まる。ヒエの栽培は日本から中国に伝わったのかもしれない。)
Q 青森市三内丸山遺跡(紀元前3500頃~紀元前2000頃)には、約500軒の竪穴住居があった。
Q-2 三内丸山遺跡の人々も、亀ヶ岡遺跡の人々と同じく、平等な社会を作り、他の集落を従えて大勢力を築くことはなかった。

《感想8》縄文人が他の集落を従えて大勢力を築くことがなかったのは、つまり巨大な富・権力が成立しなかったのは、《「円の発想」の文化》によるのでなく、《生産力が低かった》ことによるのではないのか?
《感想8-2》つまり縄文人は、《生産力が低かった》ため巨大な富・権力が成立せず、かくて「円の発想」の文化にとどまり、「区分の発想」の文化を知らなかったのではないか?

(9)亀ヶ岡王国の祭祀は「円の発想」だ!東北地方全域が弥生化するのは4世紀末前後!
R 亀ヶ岡王国の祭祀は土偶(妊婦の女性)、玉類(中性)、石棒(男性器)を差別なく並べる「円の発想」の祭祀。
R-2 弥生時代の開始とともに男女差別が始まった。
S 紀元前1世紀中葉に関東地方に弥生文化が広まる。
S-2 同じ紀元前1世紀中葉頃、弘前市砂沢遺跡で弥生的な2枚の水田と、縄文的な土偶と石刀が出土。縄文土器と弥生土器が混在。土偶等は動物の繁殖を願うもので、農耕神の祭器でない。
S-2-2 このように東北地方の縄文文化圏を飛び越えて、本州の北端に水稲耕作がもたらされたのは、北陸地方からの航路による。
T なお紀元前後の青森県田舎館村垂柳遺跡は3600平方mの水田を持つ「農業国家」だ。
U 東北地方の気候が稲作に適さないので、東北地方全域が弥生化するのは4世紀末前後だ。しかし東北地方には「円の発想」が根強く残った。

《感想9》東北地方全域が弥生化するのは4世紀末(300年代末)前後だ。
《感想9-2》他方、大和朝廷の勢力は、3世紀末(200年代末)以来、東海道沿いに伸び、4世紀末(300年代末)には、東海地方、南関東の一部を勢力下におさめた。
Cf. 大和朝廷は、4世紀初め320年代に邪馬台国征圧(10代崇神天皇)、4世紀中葉に出雲を制圧。
Cf. 11代垂仁天皇、12代景行天皇、また景行天皇の子の日本武尊は、4世紀(300年代)だ。
Cf. 神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)は14代仲哀天皇の皇后、15代応神天皇の母で、4世紀後半~末頃だろう。なお仲哀天皇は日本武尊の子。
Cf. 倭の五王(15代応神~21代雄略)の遣使は413-478年、5世紀だ。
《感想9-3》大和朝廷は、さらに5世紀初頭(400年代、倭の五王の時代)に、関東地方の太平洋沿岸を常陸に向かって進出。
《感想9-4》大和朝廷は4世紀後半、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀(500年代)末、ようやく北陸道征圧!645年乙巳の変(イッシノヘン)!663年白村江で敗北!673年天武天皇飛鳥浄御原宮で即位(位673-686)!701年大宝律令の制定で中国風の中央集権国家へ!
《感想9-5》8世紀以降の国政は、東北経営と深い関係を持つ。東北経営は中国的中央集権にあこがれを持つ指導者が出た時に限って行われた! Ex. 藤原不比等(720没、多賀城724年)、藤原仲麻呂(759桃生柵モモオキ・雄勝柵オカチキ、764処刑)!かくて東北経営が進展するのは8世紀だ。つまり701大宝律令以後で、802坂上田村麻呂遠征がその完成だ。
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