阿弥陀如来のお姿は立撮即行
右手は「招喚の印」(招き喚んで下さる智慧の印)
左手は「摂取の印」摂め取って必ず救う慈悲の印)
「立撮」の「立」は親と言いう字は
「木の上に立って見る」と言うように
お立ちずくめで、いつでも私を案じ喚んでいて下さるお姿。
「撮」は写真撮影の「撮」で私の苦悩を自らの苦悩として
私をそのまま写し取る。
…五劫の時間をかけて、私の苦しみ悩みを自ら経験し、
その苦悩を自らの苦悩として受け取るお姿。
「即行」…そんな私が今、私のまま救われる。
※一劫という時間…インドの時間の単位。極めて長い時間のこと。
『大智度論』には四十里四方の石を、百年に一度ずつ薄い衣で払って、その石が摩滅しても劫は尽きない(磐石劫)、また四十里四方の城に芥子を満たし、百年ごとに一粒ずつ取り出し、すべての芥子がなくなっても劫は尽きない(芥子劫)とされる。この譬喩の石・城の大きさや年数の示し方には諸説がある。