King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

目白押し

2019年03月12日 09時20分21秒 | 珈琲

テレビでは震災関連の番組が流れていますが、八年後に見る現在の映像は

かさ上げされた土地に新たに建設されたうちはなく、これが今行われている

復興の限界を示しているように思います。私は当初から数千億円をかけてかさ上げ

する土木事業には反対でした。そんな事をすれば廃墟のような街を巨額の税金を

掛けて作るようなものです。そんなのは最初から解っていたことです。

 

当事者の意識としてはつらい記憶の土地にまた住みたいと思う人はいないでしょうし、

いくら復興と力んでみたところで人が戻らなかったら復興など望むべくもないのは明らか。

これはいくらつぎ込んでも批判の起きない絶好の土木王国の面目躍如で各地でせっせと

かさ上げやら商店街などを作りましたが、生活者のいないところに町は出来ず、更地を

未だに作っています。

 

その何千億をもとの地に戻る人に一人一億づつ配って新たに移住する人に数億配った

方がはるかに早く町並みは戻るでしょう。そうすれば住む人からその地域をどうしようとか

発展するために何が必要かも出てきますが、無人の土地からは何も生まれません。

 

そんな中、この時期怒涛の期末に事務作業は積み重なり、混んだ税務署で申告したり、いつもの

豊島との試合があったり、さらに色々と避けられないものが重なり出席したかったものにでられ

なかったり、ひとつこなしてはどっと疲れという日々が毎日続きます。

 

そんな中でもほっとしたいとミルを回して一杯の珈琲は飲むのです。

 

八年前の震災の時には計画停電で暖房が止まり、照明もなく、そうなると珈琲も飲めないと

愕然としましたが、やがて蝋燭やら手回しのミルとガスのカセットコンロなど電気に頼らない

物を集めて計画停電でも珈琲を飲むとそもそもはそういう事だと思うようになるのです。

 

最初は電気に頼らず生きていたし、なくても幸せだったんだなという思いを抱きました。

 

先日マルコメの全商品が出汁入りという話をしましたが、こうなると私たち世代は

出汁という食文化を知り、使用してきた経験がありますが、それがない人にはそれ以上の

発想が生まれないし、微生物までを利用してきた日本人の文化までに思い致すこともできないと

危機感を感じ色々な人に訴えてきました。

 

ところがある店でコース料理の一品にたまたま出汁を使わない椀物が出て

逆にやられたという感じになりました。

 

日本食に必須の出汁というのは足りないものに足すという事で生まれた技なのか

それとも素材の良さをさらに際立たすための技なのか考えてみると何が正しいのか

出汁がなくてもおいしいものはあるという現実に力んで日本人は出汁をとらなくなって

しまったと訴えても何の意味もないことを解ってしまい料理も結局どれだけの思いを

込めるかなのかという気もしてきました。

 

珈琲も今一番もてはやされているスペシャルティの味とは酸味の妙であり、それでは

仕事の後とか最中にガツンと苦い味を求めて飲む珈琲は邪道なのか、ただ眠気覚ましに

飲むのは美味しい珈琲でなくてもいいのかとか世の欲求と珈琲に求めらる要素と味に

ついていつも深く考えずにはいられません。

 

でも日本食に通じるものもあるなあとふと思います。日本食は万人がうまいと思うものに

通じていて会食の席であれこれ味を足す人はおらず、その見た目までが食の満足を表すと

日本食の魅力を語ります。それと同じように珈琲の黒い液体にも完結があるように思えます。

コメント
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