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King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

アレッポの石鹸と日陰干

2017年09月22日 12時22分45秒 | 珈琲
日ごろ使っているせっけんは昔から化学物質を
含まない環境にやさしく体に刺激のないものを
使っています。

歯磨きもシャンプーせっけん系です。

なにかにつけて無添加とか自然食品とかに
流れ、一時禁牛乳でしたが、今マイブーームは
玄米グラノーラとヨーグルトブラス抹茶掛け
です。

それら健康食品とか雑貨の店は一時はたくさんあり
ましたが、最近はめっきりと少なく、特に表示成分
未使用のシャンプーはなかなか手に入りづらいもの
となっていました。

それらも今やネットで買うしかなくなり、イスラム国
台頭でいつも買うアレッポの石鹸も手に入らなく
なるかと思いきやこれだけは普通に同じものが手に入ります。

ただ、違うのはアレッポという文字が使われなく
なっただけです。

私は昔からこれを使っていますが、これはシリアで
作っているのではなく浜松とか明石とかで作られて
いるのではと疑っていました。

でも、ふだんから普通のドラッグストアで売られている
時と変わらぬ品が今でも届きます。

これらのものを使う人はよく環境自然派とかこだわった人
とか市民活動家みたいに感じる人もいるようですが、私は
そういうのとは全くかかわりなくただ私の趣味として
何物も本物を使いたいというだけで添加物や混ぜ物で
ごまかさない品を使いたいという自身の環境にこだわった
結果です。

そんなものが当店の珈琲の精神にも息づき、自然産地にも
レインフォレスト認証の豆とかJAS認証の豆が多くあり、
かといってそれをいちいち認証豆だと宣伝していません。

そもそもそういう認証とかスペシャルティを標榜する際には
会員証の取得という集金システムがあり納金の義務がある
のです。

つまりは消費者はフェアトレードとか有機無農薬とか
タイトルをつければそれだけ高いものを買わされると
いうことになります。

そもそも珈琲豆などは未開の村と発展途上国が産地な
ため化学肥料や農薬など無縁のところが多く、あえて
認証を付ける必要なものではないのです。

一部に高く売ろう、余計売ろうという精神のもとに
やたらと認証やタイトルや農園名を前面にだした
売り方が出てきます。

当店としては名より味なので、工業的に作られて
なお何々認証もつけたというものより、豆姿と
立ち上る香りなどから判断したいということで、
特定の農園と付き合うということもなく、その年の
一番いいものを使いたいという産地にこだわりも
ありません。

どこからでも買える自由度も重要です。

それは安くていいものを消費者にお届けするには
欠かせない工夫です。

ここにきて昨年度産の豆の安売りが目立ちますが、
それよりはその前の年の豆の方がまだ買いです。

九月というと新豆の売り込みも出てきて選択肢も
格段に上がりました。

そんなのを眺めつつ飲む日陰干の味にこの秋の
豊潤な実りの時期を感じます。

昨日の朝のニュースで萩の花が出ておはぎの由来に
なったと紹介していました。

花などに関心のない人がそれを見れば萩は白い花
なんだと信じてしまうことでしょう。

さも一般的な普通の事象として紹介していましたが、
一般的に今見られる萩の花とは紫一色か白と紫の花で、
真っ白な花は特別な花です。

それを説明しもせず、なおかつ説はいくつかあるのも
触れずに流すのはNHKで流せばそれが通説という傲慢な
姿勢が透けて見えます。

NHKの最近の歴史的な番組も恣意的なものが多く、政権の
意向を受けているのではないかというような内容なものも
よく見かけます。

確かに、死ぬ前に証言しようと初めて戦中体験を語った
という人もいるかと思いますが、それが政治的に使われる
のは語った人も本旨ではないと思います。そんなのが
最近多い気がします。








『土の記』上巻読了

2017年09月22日 11時51分41秒 | 読書
この夏のエアコンの効いた部屋でのソファの
御伴がこの本でした。


髙村薫は昔から読みついてきている作家で
それは直木賞を受賞する前からの冒険小説的な
時代からです。

それがいつしかミステリー作家から時代を切り取った
ような小説家になり、読む価値のある作家になりました。

その変化は『照柿』のころからでしょうか。

読者はその頃はまだミステリーを期待して
マークスの山からの登場する合田雄一郎の
活躍を読みたかったはずです。

しかし、作風の変化は確実に表れそれは
社会派と呼ばれるような事件を追いその裏側
に潜むものを顕にするかのようなものになり
それは時に人生や芸術についても語られ人の生
そのものに言及していることに気が付きます。

そんな意味で、まさにこの本も一人の老人の
人生が淡々と語られるもので、後期高齢者の
妻もなく一緒に住む家族もない山の中の棚田を
耕す生活を描くという至って地味で何の事件も
喜びもないかのようなものをそれをしったからと
いって何か人の人生に影響のあるものか疑問の
ものを扱っています。

いつしかミステリーから社会派作家に変わった
変化に伴い、語り調が老婆の語り部が講談のように
一息一息言葉を絞り出して行くかのようなリズムと
それをつなぐ接続詞として、否という接頭語か
逆説を意味する否定接続として使うはずが実は
ただのリズムをつなぐために言葉の癖のような
意味合いで否であったりああという詠嘆のことば
も接続詞としてくっつくのもみんな語り部の言葉
の調子として使われているようです。

これは『新リア王』から現れだした変化で、
その時は東北の地方のボスの事件を描くという
犯罪小説、警察小説的な面もありましたが、
新聞に毎朝連載される小説でありながら色々と
事件があり、なんと掲載中止になった衝撃的な
扱いでした。

これでファンも逃げ作家として終わりかと
思われましたが、今回の本を見ればますます快調
ということでしょう。

新リア王、太陽を曳く馬とその東北のボスの事件が
続いていたわけですが、今回は全くその人たちと
決別して奈良の山奥のマスコミに登場することのない
日本に多い中山間地域の話なのです。

残ったのはあの独特の老婆の講談調の語りで、しかし、
それでいったい何を書きたいのかとふと考えながら
ひとまず上巻を終えました。

この上巻で唯一の盛り上がりが孫との同居のシーン
ですが、ここで感じるのがドストエフスキーなどでも
自身の体験を素で語るシーンは読んでいて他のフレーズ
と違いはっきりと感じられたもので、それと同様のものを
この孫との再会のシーンの書かれ方にふとその自身の
体験を入れたような違いを感じ、あの老婆の語り調の
否の接続詞もしばらく消えるのです。

でも、いつか見たテレビで髙村薫が猫と暮らす一人暮らし
だというのを見たのを思い出し結婚もしてなかったんじゃあ
ないかと思うと思い違いかとも感じるのでした。