「絶対に犬に見えない犬は、実は本当は犬であっても、犬とは呼ばれないのではなかろうか?
ものぉごっつい品種改良な上に『DNA』までいじられて、体長5メートルでパオンと鳴き、耳が大きくて鼻が異常に長くて毛が薄くて灰色の『犬』。
そんな『犬』を正しく『犬』に分けられる自信は俺にはない。
もしかしたら、犬っぽい仕草をする変なゾウだと勘違いしてしまうかもしれない。
そのくらいの勘違いなら、俺は確実に勘違う自信があるし、まして、そんな犬に、犬のクオリアを発見できる自信はない。
そして、実はこの動物はゾウじゃなくて犬でしたぁと言われたら、確実に俺は『そんなん分かるか。ルール違反だ!』と怒り出すだろう」
「犬のクオリアなんて言いだすと、話しがこんがらがる。
まだ、犬という概念を共有しているという言い方のほうが納得できるし、この言い方は正しいと思う。
でも、犬を分けるルールを共有しているという言い方の方がスッキリして分かりやすくないか?
概念を持ち出すと、記号に与えらえる意味と、記号に意味を与える共同体が共通に持つ概念とがこんがらかって分かりにくい。
そこで、『言語ゲーム』ウィトゲンシュタイン。俺は、言語ゲームは、人間が何かを分かる為の方法を指し示していると思うのだが、どうだろう?
ちゅーか、言語ゲーム以外のやり方で人間はモノを理解できるとは、今の俺には思えない」
「では、もう一度だけ『犬』という単語を例にとりおさらいしてみよう。
ところで、『おさらい』の意味は知っているかな?」
馬鹿にしないでよ。
「知ってます!」
「どゆ意味?」
「ならった事や知った事を『復習』することです」
「おぉ、新明快国語辞典のような明快な答え!
では、『復習』の意味は?」
「え?
おさらいすること、かな」
「面白いように期待どおりに答えてくれてありがとう。
まだちゃんと理解してないようだが、言葉の意味は状況と文脈が生むのだ。
単語はただの記号で、記号に意味はない。
意味はないが、ただ、単語を記号として使う為のルールだけがある。
このルールは、共通の言語を使う共同体内の、暗黙のルールだ。そのルールを破れば、自分が言ったり書いたりした言葉の意味は理解されない。
このコトを、『犬』という単語を例として言うなら、『犬』という単語は、『犬』という記号で差し示せる、全ての『犬』を意味として指し示す可能性を持つ。でも、意味は状況が生むのだ。『犬』という記号で、世界中のあらゆる『犬』を指し示す事が出来るが、『あの犬』と目の前にいる『犬』を指し示すなら、その時『犬』は、目の前にいる『あの犬』以外の意味をもたない。これは、ひとつの言語のルールである。
また、文章で『犬は人類の友である』と書くなら、この時の『犬』は、『動物の犬で、過去に存在した忠犬などまで含んだ全ての犬』を意味する。これも、もう一つのルールだ。
このルールが成り立つのは、『犬』という概念を共同体内で共有しているからとか、あるいは『犬』のクオリアを人類は共有しているからなどと言い換えることもできるが、そーゆう『ルール』だからと言った方がスッキリして分かりやすいと思う。
犬という単語は、ただの記号で記号はただのしるしで意味はない。
意味があるのは、記号を使う為のルールだ。ルールが意味を生む。
ルールは意味を生むが、ルールを創ったのも、ルールを使用するのも人間の共同体だ。
月曜日と火曜日が『燃えるゴミの日』なのもただのルールだし、同じように犬と猫を分けるのもただのルールだ。
分け方のルールを共有することが、意味を生む。
ここで、根本に戻ろう。
人間は分けられないモノは分からない。
分ける為にはルールが必要だ。
だが、個人で手前勝手にその時の気分で分けていたなら、分けた意味を他人に伝えられない。
でも、分け方のルールを他人と共有する事で、誰もが同じ意味を共有する。
このように、ルールが意味をつくる。
記号である単語に意味はない。
意味がない単語を、改めて説明しろと言われても無理だ。
その単語は、その意味をあらわすルールにのっとって、その意味になってますとしか言いようもない。
なのに、言葉の意味を問われると人はつい意味を説明しようとしてしまう。簡単な説明の方法として言葉の置き換えがある。『犬』なら、『四足でワンワン鳴くほ乳類』と言い換えるコトができる。
そこで、ナゾナゾだ。
『四足でワンワン鳴くほ乳類』って言ったらなーんだ?」
「犬」
「ソレが辞書に載っている『意味』だ。辞書的な意味など単なる言い換えだ。『犬』という単語を使わないで『犬』を説明しようとなると、言い換えしかできない。俺の言う事が納得できないなら、『犬』という単語を使わないで『犬』という単語を言い換えでない方法で説明してみろ!」