「言葉は単語に分けられる。
単語は記号にすぎない。
記号はただの記号で、音声であったり線であったりするが、記号自体に意味はない。
記号には記号を使うルールがある。
記号は、理解される為のルールにのっとって、状況や文脈によって正しく配置されないかぎり誰からも理解されない。
記号は、その記号を理解するルールを共有する共同体の中でしか意味を持たない。
記号は、記号の置かれる場所や状況と対になることによって、はじめて意味を持つ。
記号そのものにはとくに意味はない」
「解んない」
「うーんと、看板は記号なんだ。
まず、看板は記号だと理解してくれ」
「うん、するよ」
「そうするとだ。ラーメン屋の前にハタハタしている『ラーメン』て書いた赤地で白抜き文字の旗は、ここでラーメンを食わせますという記号だ。『カニ道楽』の店の上でチョッキンやってるカニの人形も、ここでカニを食わせますという記号だ。
信号機が赤や黄色や青に変わるのも、ポストが赤いのも、俺が死神と名のるのも、全ては記号だ。
記号とは、本体の役割や性質とは関係なく、分けるのに都合いいから利用しているだけのモノにすぎない。
名前なんか適当につけても問題ない。
なにをなんて呼ぼうがかまわない。
名前と実際にある物との関連はいっさいない。
ラーメンを、中華そばと呼んでも、中華麺と呼んでも、ラウメンと呼んでも、なんだって呼び方はかまわない。
それは、呼び方なんて記号にすぎないからだ。
呼び方と、現実に存在するものとの関係は実はない。
多くの人がそう呼ぶから、ラーメンはラーメンと呼ばれるのだ。
記号は、記号にすぎない。
記号の意味を理解するのが不能な場所に置かれた記号は正しく理解されない。
東京タワーの『蝋人形館』に置かれた『カニ道楽』の『カニ』の看板なんか、もう誰にも正しくは理解されないだろう。たとえ、その場所で『かに道楽』が実は営業していたとしても、『蝋人形館』の展示品だと思われるだけだ。誰も、そこでカニを食わせてくれるなんてふつう考えない。
中華料理屋の前に『ラーメン』の旗があれば、ラーメンを食わせてくれるんだなと誰もが思うが、歯医者の前に『ラーメン』の旗があっても意味不明だ。
ポストなんか、青くペイントされたとたんに『何コレ』扱いだ。
信号機なんかもっと可哀想だ。ものすごく個性的で人格を持つ信号機がいたとしても、俺の場合は赤がすすめで、青が注意で、黄色が止まれなんだよって信号機が個性を主張しても、誰もソレを理解しようとしないだろう。信号機の個性なんか尊重してたら下手すりゃ車にひき殺される」