墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

平成マシンガンズを読んで 123

2006-11-10 20:06:24 | 

「自分探しの旅にでよう!」

 え、死神はやっとどっか他の所に去ってくれる気になったらしい!

「行ってらっしゃい!」

「嬉しそうに言うな。一緒に旅立つのだ」

 一緒にぃ?

「お、おい、そう露骨にイヤな顔をするな。表情ぐらい偽れ!」

「どこに行くの?」

「どこに行くかは決まってない。目的地も決まってない旅だが、帰還先はもう決まっている。我が家だ。まぁ! 自分は結局ここにいたのね! みたいなで、青い鳥でチルチルミチルなのだ!」

「そもそも自分探しって言うけどさぁ、死神の今まで言ってる事から考えると、まず自分は何なのかが分けられなきゃ何も解らない」

「鋭い! スルメのケンサキ並みに鋭い。刺さりそうだ!」

 死神の比喩は変なんで、誉められてんだか、けなされたてんだか、なんだか全く解らない。むしろ、ただ思いついた言葉を羅列しているだけの可能性もある。

「そう。
 本当の自分というモノを探して旅立つなら、自分をもし分けられるとするならば、対立するモノが存在するはずだ。なら、偽物の自分という存在が導かれるはずだ。
 そもそも、1人である自分を本物と偽物に分けられるのか?
 どう分けるんだ?
 今の自分は、情けないし、自分でも納得できないから偽物であると仮定したとして、今の自分以外に分けられる自分なんてあるのか?
 本物の自分の能力を全て発揮したら、女にモテモテで、、。
 おっと。
 あんたは女の子だから、男にモテモテで、誰もがちやほやして、自分でもコレが本当の自分だぁと納得出来る本当の自分になれるのか?
 まぁ、それはそうなれるかもしれないが、そうなったとしても現時点で手に入れてない境遇は、普通の言い方では『可能性』と言う。可能性と本当の自分は違う。普通の分け方のルールで言うなら、本当の自分とは、現時点のあんたそのものが本当の自分だ。本物も偽物も、今ある自分以外に自分はない。
 本当の自分なんて言葉は、自分の可能性という言葉を言い換えているだけの言葉に過ぎない。可能性と言われたら自分が出来るだけの事を、努力とかして将来に備えようと考える。
 だが、本当の自分とか言われたら、フラフラと自分探しに旅立ちたくなる。
 まぁ、自分の可能性って言葉でもかなりあやふやなんだが、それをさらにあやふやにした本当の自分なんか探しに出かけても何も見つからないだろう。
 目的があやふやで検索しても何も見つからない。
 分かりたい物を見極めて、ソレを分類するルールを決めて、ルールにのっとってちゃんと分別できて、はじめてソレが分かったと言えるのだが、でもそのルールが実は間違っている可能性もある。
 本当にキチンと分かるのは実に難しいのだ」


平成マシンガンズを読んで 122

2006-11-10 19:01:19 | 

「人間とは何なのか?
 この世は生きるに値するのか?
 神は実在するのか?
 実在とは何なのか?
 愛ってなに?
 本当の自分とは?
 何なのさってば何なのさと、こういう問題って考えれば考えるほど分からなくなって答えなんか無いんじゃないかとも思える。
 だけど、本当はそうじゃなくて、人間の『モノの分かり方』だと、キチンと分けられないモノを分かる事が出来ないのだ。
 コレとソレは見た目も役割も違うと分ける事でしか人間は何も理解できない。ちゅーか、人間は、コレとソレは違うと分けることを、分かったと言うんだと決めている。
 ところで、ゴミ出しには分別のルールがある。
 昔はゴミ出しのルールは単純で、燃えるか燃えないかだけだった。そして、燃えそうもなくて大っきい壊れたテレビみたいなゴミが粗大ゴミだった。
 リサイクルの思想もまだ発達していなくて、ゴミは公衆衛生の概念で収集され処理された。その時代には、空き缶も、空きビンも、発泡スチロールのトレイも、燃えそうもないから「燃えないゴミ」だった。
 ゴミを、資源ゴミや、燃えるゴミ・燃えないゴミに分け、ゴミの日に出すのは、そういうルールがあるからだ。そして、ゴミ出しにルールがあるように、何かを分かる為にもルールがある。
 だが、分かる為のルールは、ゴミ回収みたく明確には示されていない。市役所からのお知らせもない。なんとなく、民族の総意みたいな形でぼんやりと示されているだけ。
 だから、キチンと分けられないモノを分かりたいなら、グチャグチャの状態にあるモノを分けられるルールを新しく創るか、今の分け方のルールではこのグチャグチャの状態は分けられないと諦めるしかない。
 愛とは何?
 存在とは何?
 国家とは何?
 自分とは何?
 などという問いかけは、現在の分け方のルールでは分けられないし分からない。何故なら、人間は概念というものを明確に分けて使っていないからだ。
 ある概念に確実に対応する現実もあやふやなままで、概念の理解も人によって違う状態で、分け方のルールもなく、ただ無理矢理に分けようとしても、他人の理解も得られないし、結果も失敗するだろう。
 何かを分かりたいのなら、まずルールを教わる事だ。
 ルールも知らないのに、サッカーや野球を観戦しても、勝敗すら良く分からないだけだ。
 だが、分かりたい対象に対してのルールが存在しなかったらどうするか。やみくもに勝手に適当に気分で分けても、気が変わったら納得がいかなかったりするし、他人も納得しない。
 分ける為にはルールが必要だ。そして、そのルールは誰もが納得出来る公平なモノであることが望ましい。未知のモノを分かりたいなら、まず分けるルールを創り、そのルールを他人にも認めさせ、そして分別する。
 そうして、はじめて、誰もが認める『分かる』ことの大系が出来る。
 分け方も分かんないモノなんか、絶対に分かるはずがない。
 だが、すでにある分け方のルールが正しいとは言い切れない。
 むしろ、分け方のルールのほとんどはムリムリのゴリ押しで押し付けられて信じるようにと強要される事が多い。
 下手するとルールへの忠誠や、絶対信奉などまで要求される。
 その極端な例が宗教だろう。
 愛は美しい。
 神は絶対だ。
 魂は不滅だ。
 教会に寄付すると天国に行ける。
 などなど、パブロフの犬のごとくに真理を条件反射的に暗記させられる。
 強制された暗記など犬のよだれと同じだ。
 餌イコールよだれ。
 餌は食い物だ。
 食い物を欲して流すよだれとは関係ない。
 餌はよだれであるという分け方では、餌の本質は何も理解できない」