<感想>
まずは、この41段の内容を整理してみたい。
5月5日は、賀茂の競べ馬の日であった。
賀茂の競べ馬は、京都「上賀茂神社」の神前で行われた競馬だ。
直線コースを二頭の馬が競う。神社主催のお祭りなので「馬券」は販売されない。
さて、我らが兼好法師は知りあいの貴族の牛車に便乗して、賀茂の競べ馬の見物に向かった。
だが、競馬コース前はすんごい人だかりで牛車からは何も見えない。
仕方ないんで、各自くるまを降りて、せめて馬の鼻面だけでも見ようと前へ前へと全身するが、雑人立ち込め前には進めない。
ただ見えるのは、コース対面側の木の上によじ登って競馬を見物している法師だけ。
しかし、この法師、せっかくの特等席の木の上でコクリコクリと居眠りしている。
今にも木から落下して然るべきとなるその瞬間に法師ハッと気がつきハッシと幹にしがみつき落下をまのがれ、また居眠り。
これを見ていた祭りの見物人達は法師の様子にあきれて、あざけり笑う。
「なんて馬鹿だ。いつ落っこちるとも分かんねぇ木の上で安心して居眠りしてやがる」
それを聞いた兼好法師は人々に語る。
「ぃや いや いや! 馬鹿なのはお互い様。私らだっていますぐ死んでも別におかしくないのに、こうやって祭りなんぞ見物している。馬鹿さのかげんじゃ同レベルだ」
ふと思いついたセリフがきっかけで、兼好は前に招き寄せてもらえた。
5月5日というだけで、何年の出来事なのかは書いていない。ために、この時の兼好の年齢は推定できない。だが、この段は出家した後の兼好法師の経験談と理解するのが妥当であろう。
兼好法師が牛車を所有していたという事はなさそうだ。
法師である兼好の足は徒歩か馬であっただろう。
馬は借りたか飼っていたかは知らないが、遠出の時の足であったはずで、近場なら徒歩ですます。
牛車のない兼好が牛車で出かけることはないはずなのだが、兼好はただの坊主ではない。歌人として、貴族とのつながりがある。
そのつながりで一緒に競馬見物に出かけましょうよと貴族に誘われ、貴族の牛車に便乗して、祭に出かけたのではなかろうか。
この段で面白いのは、一般庶民が、貴族を特に優遇していないという点だ。
貴族が来ようと、庶民は無視して競馬見物を続けている。
公共の場においては庶民と貴族はお互いに自分たちとは別世界に住む人間として、無視しあい生活していたものと思われる。なんだかとても中世とは思えないほど都会的だ。
だけどだ、坊主はそれとは違う種類の人間だったのではなかろうか。
教えを与える人間として、貴族・庶民を問わず、当時の教養の頂点として君臨していた。
もちろん、乞食坊主なんかの言葉にいちいち耳をかしていたら聞く方だって馬鹿を見る。一応、相手を見てから話しを聞く。
だから庶民は、後ろを振り返り、兼好を確認した。
そして、牛車で貴族と一緒に来た事から察して、兼好をそれなりの坊主であると判断した。
なので、兼好の言葉を庶民はすんなり受け入れたのではなかろうか。
兼好は坊主であるが、布教に精をだすタイプの坊主ではなかった。
ただ自分自身の心の安定の為だけに出家した人間だ。だから、庶民に説教などしたこともないし、しようとも思わなかっただろう。
たまたま、その日は思いついた事を口にしただけだ。
庶民も兼好も、なんかお互いに勘違いをしている。
と、とらえる事もできる。
だが、そのくらいの事は、兼好にはおみとうしであったかもしれないし、そうでなかったかしれない。
全てがまだるっこしいぐらいにヤブの中なのが、どうも古典だ。