自分の万能性を信じて疑わず、自分は世界の中心で、自分以外に信じる物など何もないと言いはる俺ですが、たまには自己嫌悪に陥る事もあります。だって男の子だもん。
なんにも知らないガキの頃は本当に自信満々だった。
俺様が世界であり、俺様を中心にして世界は回るのだと、直感により確信していた。俺は世界の王である!
だが、奢る平家は久しからず。
幼稚園、小学校と進むにつれて、俺は、普通の人よりかなりだいぶ劣っている事が、だんだんとあらわになってきた。
逆上がりもできないし、かけっこはビリだし、勉強なんかできない。けんかもできない臆病者のビビりやで、音符も読めなきゃ笛も吹けない。細かい手作業は苦手だし、先生がなにを言っているのかもぜんぜんわからない。
あぁ、俺ってなんだかたいしたことないじゃん、だめじゃん。みんなすごすぎるよ。
万能だったはずの俺も、幼稚園や小学校に進み、他人と自分を比べ始めると、自分なんてぜんぜんたいした事がない事に気がついてしまう。これが、自己嫌悪のはじまりだ。
自分はすごいんだという思い込みが激しかったぶん、その反動は強い自己嫌悪となった。
10代の頃の俺はコンプレックスの固まりだった。
自分の姿が鏡に写る度に自分の容姿を嫌悪した、鏡なんかみないように努めた。
中学に入学して、クラスメイトと口をきく事をやめた。
挨拶されても会釈で返す。
何様だと反感をかっていたのは知っていたが、なにより他人と接して、他人から評価されるのがこわかった。
他人に自分を評価されるぐらいなら、いるんだかいないんだかわからないぐらいのほうがいいやと思っていた。
他人の評価は、鏡よりも鋭く俺の駄目さ加減をあばく。それがイヤだったのだ。
同時にその頃より、クラスメイトへの強い不信感がめばえはじめていた。
その原因はイジメである。
つい、昨日まで普通の友達だったはずの人間が、イジメの対象にされたとたんにエンガチョになるのが信じられなかった。
親しい友人がイジメの対象にされた事や、それに対して何も出来ないでいる自分自身も、さらに俺の心を歪ませた。
クラスメイトなんかと親しくしても、イジメのターゲットになったとたんにエンガチョだ。仲良くする意味なんかない。
俺の口はますます固くなった。
高校で、新しい友達が出来たのは救いであったが、状況はそんなに変わらなかった。
自己嫌悪は、他人や社会があるかぎり消えはしない。
他者と自分を比べて、自分が他人より劣っている事を認めた時に自己嫌悪が産まれる。
そして、自己嫌悪は社会への恨みを産む。
俺の抱える自己嫌悪の根は、幼児的な「自己の万能感」である。
自分の万能性が、他者の優れている事によって否定される。
それで、なんだかショボンと自己嫌悪するのだが、あまりに激しく打ち砕かれると、なんで自分は認められないんだよと社会への反感を生む。
自己嫌悪を消すにはどうしたら良いか。
自分なんか駄目でいいんだよと許してやる事だろう。
だって、俺が駄目でも世間にゃそんなに迷惑をかけていない。
むしろ、俺よりも社会的影響力がある人間が、俺より駄目なケースよりはぜんぜんましなはずだ。
駄目なりに遠慮して小さくまとまってやっているんだと胸を張り、そして、できるなら自分を駄目に追いやった世間もついでに許してやろう。
俺は駄目人間だ!
その駄目俺に「クソみたいな社会」とダメ出しされる世間は、もしかしてかなりだめなんじゃないか?
すると、この世も駄目なら、俺が駄目なのも当然という結論になる。
となると、どうせミソもクソも俺も世間もみんな駄目なら、俺はすでに駄目の帝王のような存在だ。
俺は世界一の駄目人間だと宣言すら出来る。
そうとなれば、幼児期の自己万能感もそれなりに満足して、なんとかやっていけるかもという気持ちにすらなれる。
ただ、他人にはいくらウソをついてもいいけど、自分の心だけはだましてはいけない。こういう風に信じ込めないなら、今のままでいい。
なんにも知らないガキの頃は本当に自信満々だった。
俺様が世界であり、俺様を中心にして世界は回るのだと、直感により確信していた。俺は世界の王である!
だが、奢る平家は久しからず。
幼稚園、小学校と進むにつれて、俺は、普通の人よりかなりだいぶ劣っている事が、だんだんとあらわになってきた。
逆上がりもできないし、かけっこはビリだし、勉強なんかできない。けんかもできない臆病者のビビりやで、音符も読めなきゃ笛も吹けない。細かい手作業は苦手だし、先生がなにを言っているのかもぜんぜんわからない。
あぁ、俺ってなんだかたいしたことないじゃん、だめじゃん。みんなすごすぎるよ。
万能だったはずの俺も、幼稚園や小学校に進み、他人と自分を比べ始めると、自分なんてぜんぜんたいした事がない事に気がついてしまう。これが、自己嫌悪のはじまりだ。
自分はすごいんだという思い込みが激しかったぶん、その反動は強い自己嫌悪となった。
10代の頃の俺はコンプレックスの固まりだった。
自分の姿が鏡に写る度に自分の容姿を嫌悪した、鏡なんかみないように努めた。
中学に入学して、クラスメイトと口をきく事をやめた。
挨拶されても会釈で返す。
何様だと反感をかっていたのは知っていたが、なにより他人と接して、他人から評価されるのがこわかった。
他人に自分を評価されるぐらいなら、いるんだかいないんだかわからないぐらいのほうがいいやと思っていた。
他人の評価は、鏡よりも鋭く俺の駄目さ加減をあばく。それがイヤだったのだ。
同時にその頃より、クラスメイトへの強い不信感がめばえはじめていた。
その原因はイジメである。
つい、昨日まで普通の友達だったはずの人間が、イジメの対象にされたとたんにエンガチョになるのが信じられなかった。
親しい友人がイジメの対象にされた事や、それに対して何も出来ないでいる自分自身も、さらに俺の心を歪ませた。
クラスメイトなんかと親しくしても、イジメのターゲットになったとたんにエンガチョだ。仲良くする意味なんかない。
俺の口はますます固くなった。
高校で、新しい友達が出来たのは救いであったが、状況はそんなに変わらなかった。
自己嫌悪は、他人や社会があるかぎり消えはしない。
他者と自分を比べて、自分が他人より劣っている事を認めた時に自己嫌悪が産まれる。
そして、自己嫌悪は社会への恨みを産む。
俺の抱える自己嫌悪の根は、幼児的な「自己の万能感」である。
自分の万能性が、他者の優れている事によって否定される。
それで、なんだかショボンと自己嫌悪するのだが、あまりに激しく打ち砕かれると、なんで自分は認められないんだよと社会への反感を生む。
自己嫌悪を消すにはどうしたら良いか。
自分なんか駄目でいいんだよと許してやる事だろう。
だって、俺が駄目でも世間にゃそんなに迷惑をかけていない。
むしろ、俺よりも社会的影響力がある人間が、俺より駄目なケースよりはぜんぜんましなはずだ。
駄目なりに遠慮して小さくまとまってやっているんだと胸を張り、そして、できるなら自分を駄目に追いやった世間もついでに許してやろう。
俺は駄目人間だ!
その駄目俺に「クソみたいな社会」とダメ出しされる世間は、もしかしてかなりだめなんじゃないか?
すると、この世も駄目なら、俺が駄目なのも当然という結論になる。
となると、どうせミソもクソも俺も世間もみんな駄目なら、俺はすでに駄目の帝王のような存在だ。
俺は世界一の駄目人間だと宣言すら出来る。
そうとなれば、幼児期の自己万能感もそれなりに満足して、なんとかやっていけるかもという気持ちにすらなれる。
ただ、他人にはいくらウソをついてもいいけど、自分の心だけはだましてはいけない。こういう風に信じ込めないなら、今のままでいい。