木工挽物という仕事

基本的には時代遅れの仕事
正反対の位置にいるブログから発信してみます
でもブログも先端じゃなくなりましたね

台風10号

2016-08-31 23:57:28 | 自然
昼のニュースを見ていたら帯広が洪水に見舞われていた
帯広と言えばこの前トウモロコシを送ってくれたブログ上のお母さんtamiちゃんがいる
心配になって電話を掛けてみた
ところが掛けた瞬間に切れてしまう
何度か繰り返したが同じ
電話が壊れたのかと思って事務所に掛けたら通じる
余計気になってしまった
3時台にもダメ
5時台に掛けたら電話局の対応音 「ただ今故障中、ご迷惑をおかけします」
そして7時過ぎにようやくつながりました
お元気でした
ホッとした


今まで経験のない今回の台風の足跡
太平洋側からいきなり東北地方に上陸して北海道を直撃
東北北海道は雪のハンディがあるから台風には縁がないと思ってたのに何とも無情な爪跡を残しました
収穫間際だった農作物の無残な姿
台風の後はいつも同じ光景だが、その被害を一身に受けてしまったらどんな心持ちなんでしょう
地震で被害を受け、今度は水害
東北の方々の苦しみはまだ続くのですか?

一日も早い復興を願っています
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ええかげんにせなかん日本政府

2016-08-30 23:58:58 | 日本
出来るだけ冷静に書く
実はもう聞くのも嫌になってる韓国とのことです
聞くのも嫌なら書くな って言われるのはごもっとも
でも自分で整理しておきたくてちょっと自分の文字にしてみます

慰安婦問題は終息を迎えるはずです 一応この時点で(でも終わらんだろうなぁ)
去年の終わりに日韓合意をして、安倍さんが謝る 10億円を出す 
その代り韓国国内で慰安婦問題の整理を付けて少女像、特に日本大使館前にあるあの像を撤去すること
国際条約に相手の国を侮辱してはいけない という法があるのにその大使館前に像を設置すること自体
完全に法を侵していることなので有ってはいけないものです
お金なんか出さなくても韓国は国としてあれを撤去しなくてはいけないのに10億円を出すって

しかも撤去したら出す って話だったのに
いつのまにか先に10億円を出すことになったらしい
政治家のポケットマネーならしょうがないよ
でも税金です 僕らの血税ですよ 一人10円だけど

元々慰安婦はただの売春婦です(それでも敬意を込めての言葉です 日本の軍人さん達のために頑張ってくれたと思います)日本人慰安婦は韓国人慰安婦の何倍かの人数でした
売春婦でしたからお金は発生します
しかもお世話になった兵隊さんたちの給金の何倍かの報酬を得ていました
3年働けば家が建つほどの金額だったそうです
韓国の新聞に慰安婦募集の広告も出されています
支度金がすごかったので親に売られた格好の人もいたようだし
韓国人女衒(ぜけん・慰安婦調達人)に騙されてそういう道に入った人もいるでしょう
それは大変気の毒だとは思うけど、それは日本軍のせいではないはずです
そういうことがないように軍からのお達しもありました
当時、これは合法的なお仕事でした
確かに女性の尊厳を傷つけることだったのでしょう
それを安倍さんは謝ったのだと思うが果たして世界はどう見るかと言えば
強制連行をして性奴隷にしたかつての日本軍の誤りに対して10億円と共に謝罪した
とみられるに違いありません
これは僕がそう思うのであって、日本のはっきりした謝罪の中身は伝わっているのでしょうか?

きっとお金だけ出して、謝罪だけして、不名誉だけ残り またたかられることでしょう
概ね安倍政権を支持してきましたがこれは大きな間違いだったと思う


ただなんでこんなバカなことをしたかと言えば、それはアメリカの進言に他ならない
周りを見ると、中国の横暴、北朝鮮の狂気など日米に降りかかる火の粉は半端ない
残念だがここは韓国を味方につけるしかないとアメリカが思ったのでしょう
なんとか日本と韓国が同じ方向を見れるようにアメリカの正しいかどうか甚だ疑問の要請に安倍内閣が呼応しただけに過ぎない
大きな間違いをしてるかもしれないね
私見を言えば韓国はそういう国だからもう関わらない方がいい
諭吉先生のおっしゃる通りです

つまりもうここへきたら韓国のことをどうのこうの言うより 日本の政府の対応に疑問を持たざるを得ない

それに輪をかけたのが日韓通貨スワップ
韓国にドルが不足した時それを助ける相互協定
一応相互ですから韓国も日本を助けることを謳ってあるのだが実質的には日本が助けてもらう可能性は0で
韓国を助ける協定です
民主党時代には大きな顔でやってましたが
韓国は中国にやってもらうからもういらない って一度終わりました
いま中国の元の大暴落で怪しくなってきたのでまた矛先を変えてきたのです
それを あっそう? と言って軽々しく応じる麻生
ええかげんにせえよ
大局的?

過去に何度も日本は韓国を助けました
はっきり助けています
それでもその評価は一切ありません
それどころか日本にたかることしかしません
慰安婦の次は強制労働です
そんなもんホントはありゃしません
また架空の脅しを突き付けてきます
でももうそれが韓国だと割り切ればいい
問題は日本政府
はっきり断れよ
おいこらっ 日本政府!!



冷静に終わります・・・ また失敗かぁ



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トリセツ

2016-08-29 23:25:14 | 何にも考えず書き始めた話
これは50過ぎても60過ぎても有効でしょうか

トリセツ - 西野カナ(フル)


じっくり歌詞を聞いてみると反省すべきところ満載です
人間歳を経てもあんまり変わらないかもしれません

但しその人によって細かい相違点があると思います
例えば僕の場合は太った?と聞いたら多分喜ばれると思う
その人なりの取扱説明書があれば便利かもしれませんが・・あんまりおもしろくないかもしれません

スマホのようにトリセツ無しのぶっつけ本番で使いながら、二年くらい経った後で新しい機能に気が付く
そうするとやけにうれしかったりする
新しい愛が芽生えるわけだ(一般論)

最近の機器はトリセツ無しも多いです
いつまでたっても分かりません

でも思うんだよね
みんなの書いてるブログはある意味みんなのトリセツじゃないかってね



マイケルが来た日

この子にもトリセツはなかったけどだいぶわかってきました
怖いと漏らす・・・


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近隣のスポーツ界

2016-08-28 23:58:19 | スポーツ
今年の名古屋のスポーツ界は勝負の神様から完全に見放されてます
ドラゴンズはセリーグのビリっけつだし、グランパスもJ2降格圏内
どちらもGM、監督の才能無しを露呈しました
両方とも監督更迭です

ドラゴンズのGMはあの落合博満、
監督時代はなかなかの手腕を見せてくれたのだが今から思うと選手に恵まれただけだったのかと思えるほどチームの掌握が出来てない
ただただ選手の給料を削ってオーナーにいい顔しただけ
そんなチームで全力で戦えないのは何となくわかるわ

監督の谷繁は選手としてはよく頑張ったけど、今年から監督専任になってそのお仕事が向いてないことが分かりました
ファンとしてはまずドラゴンズの先輩である立浪に監督をやってもらうんじゃないかと思っていたのを飛び越しての任命
無理があったんだと思います
ベイスターズでFA宣言をして本当は佐々木の居るマリナーズに行きたかったけど呼んでもらえなくてお金を出したドラゴンズに来た
選手としてはよく頑張ったと思うが、これは谷繁のせいではないがある程度お金を出して補強をしなければそれ以上強くはならないことが分かったはず
最近はチームを強くしようとする意欲が全く感じられなかった

それとは逆にグランパスは補強はそれなりに精一杯してると思う
但し、GM,監督(同一人物)の人選を完全完璧に誤った
小倉隆史は選手としてはまぁ普通やや上だったけど、指導者としては失格者でした
断言するのは申し訳ないけど勝負は結果です
もう少し工夫できる人かと思っていました
一旦首にしたはずの闘莉王を恥も外聞もなく呼び寄せましたがそれが吉と出るんでしょうか?
これから頑張ればJ2降格を逃れる可能性もありますが一度落ちた方がチームのためにはいいのかも
多分親会社がトヨタですから補強は間違いなくやってくると思います
一応期待しておきましょう



しかし、名古屋ではないですが郊外にある大府市の至学館大学にはレスリングの神様がいます
女子の有力選手は全部?此処で練習しています
名選手吉田沙保里は名指導者になれるのでしょうか? まだ引退はしてないかな?(笑)
新しい力も台頭してきています
4年後にも期待いっぱいです





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デフレ危機

2016-08-27 01:25:53 | お金
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160826-00000048-jnn-bus_all

かっぱ寿司が10%引き

「はま寿司」はずっと前から平日90円(他の日は100円)を敢行してきたがかっぱも平日90円に参戦してきました
これは期間限定のようですからこれから先ははわかりません
それから
今日(正確には昨日)はポタとガストに行ってきたがアプリのクーポンを見ると10%引きキャンペーン中

デフレにまた突入の気配有りです


円高に振れてきたことで原料の調達コストが下がり気味という傾向があります
それも価格下げの要因に違いなさそうですが・・・


デフレは一部のお金持ちには悪いことではありませんが、一般庶民にとっては目先の甘いサービスとは裏腹に前途多難を暗示するものかもしれません

お気をつけください

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昔も今もすごいぞ 日本人 小名木善行  長いで~~~~~~

2016-08-26 00:55:27 | 日本



この前ジュンク堂で買った本の一冊
この著者はずっとブログを書き続けておられるねずさんこと小名木善行氏
僕はこのブログのおかげで知らなかったことをたくさん教えてもらいました
彼の講演会にも二度ほどお邪魔して個人的にお話しもさせていただきました
今回本を買って初めて彼が僕より2歳も年下だと知りました
非常に恥ずかしかったです(笑)

子どもの頃から日本は悪いことをしたと教えられそう信じてきました
でもなんとなく周りを見渡すとそんな悪い人は居ない
日本人は昔そんなに悪いことをしたのだろうか


別に勉強しようとしたわけじゃないがネットの記事をいくつか見てると
歴史の狭間を感じるようになりました

日本は本当は侵略戦争なんかしていない
欧米の国々は発展途上国を植民地とした
その土地の資源を漁り現地の人を踏み台にして自分たちの利益を貪り食い散らかした

日本も同じようにアジアの国々で狼藉を働いたのだろうか

いや日本と同じ国にしようとしました
現地のインフラを整備して教育を施し、日本と同じレベルの国にしようとしたのです
欧米の国は植民地の人たちに教育を与えるどころか奪ったのです

大阪や名古屋の大学よりも早く台湾や韓国に帝国大学を作ったのですよ
だから植民地にしたわけではありません

ただ現地の人たちがそれを良く思ったのかどうかはわかりません
実際韓国では今に至っても余計なことをしたとおもわれている というかソウル大学は日本が最初に作ったことなど教えられてはいないんでしょう
相手の受け取り方は様々ですが決して欧米がした植民地政策を日本はやっておりません
だから先の戦争は太平洋戦争ではなく大東亜戦争なのです


最近はねずさんのブログの順位が下がりました
多分それは同じ話が繰り返しなされるようになったからではないでしょうか
沢山の出来事があり、目を覆うような事件も目に余ります
読んでるだけでも辛いお話があります

その中で僕が好きなお話をまたアップされました
リンクすれば終わりですが、此処へコピペしてみました
是非一度読んでみてください







────────────
日本とパラオの深い絆
────────────

パラオは、南太平洋に浮かぶ、大小さまざまな島からなる共和国です。
そのパラオは、戦前まで日本の「委任統治領」でした。
「委任統治領」というのは、国際連盟規約第二十二条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が一定の非独立地域を統治する制度です。
もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配する、国際法的正当性を与えるために作られたものです。

だから、パラオは日本の植民地だった、と言う人がいます。
しかし、それは違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものです。

そして日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆる援助を提供しています。
けれどそんなことよりも、もっとはるかに大きなものを、日本はパラオに残しました。
そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくれています。

それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。



───────────
日本軍と一緒に戦おう
────────────

昭和十六(一九四一)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、千二百メートルの滑走路二本を持つ飛行場を築きました。
日本にとってパラオが、太平洋防衛上の重要な拠点だったからです。

日本の防衛上重要拠点ということは、敵対するアメリカ軍にとって、それは攻略目標となります。
フィリピン奪還を目指すアメリカ軍は、その手前に位置するパラオ・ペリリュー島の日本軍基地を、どうしても排除しなければなりませんでした。

昭和十九(一九四四)年九月、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の指揮下、アメリカ軍はパラオ・ペリリュー島攻略作戦を実行に移します。
当時、ペリリュー島には八百九十九名の島民がいました。
日一日とアメリカ軍が迫ってくるか、島民たちは集会を開きます。

かつてスペインやドイツによって植民地支配を受けていた彼らは、白人統治時代の悲惨さを知っています。そして日本統治となってからの時代も身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、全会一致で、大人も子供も一緒になって日本軍とともに戦うことを決めました。

こうした村人の会議と、全会一致での決定という仕組みは、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
話し合いはその全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
日本でいったら町内の自治会の会館のような建物があり、島民たちはその建物に何日もこもって話し合うわけです。
そうしてみんなの意思を固めるのです。

「全員一致で日本軍とともに戦う」
そう決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
ペリリューの守備隊長は、中川州男(くにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

中川中将は熊本県出身で、陸軍士官学校の第三十期生。日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんです。
その中川中将がパラオ・ペリリュー島に赴任したのは、昭和十八(一九四三)年六月のことでした。
家を出るときに奥さんから、
「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って、
「永劫演習さ」と答えられたそうです。

永劫演習というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体で分かるものです。
この言葉を聞いたときの奥さんのお心やいかばかりだったか。
想像するに余りあります。

温厚な中川隊長なら、自分たちの「一緒に戦いたい」という頼みを、きっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
島の代表団たちは、そのように考えました。
ただでさえ日本の兵隊は数が足りないのです。
自分たちはきっと役に立つことができる。
ペリリュー島の人たちは、そう思って中川中将のもとを訪ねました。

そして中川中将に、
「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたのです。これは村人たち全員の総意です」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられました。
一同の話が終わると、場に沈黙が訪れました。
しばし沈黙のあと、中川隊長は突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら□人(現地人)と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたか分からなかったそうです。
耳を疑いました。(俺たちのことを、「□人」と言った?)

島の代表団たちは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らはみんな泣きました。
一緒に戦うことを断られたからではありません。
□人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみのほうが大きかったのです。

いつも日本人は、自分たちのことを仲間だと言ってくれていました。
同じ人間だ、同じ仲間だ、対等だと言ってくれていたのに、それが「□人?」。
信じていたのに。あれは見せかけだったのか?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。

何日かたちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、島民たちがパラオ本島に向かって島を離れる日がやって来ました。

港には、日本兵はひとりも見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みました。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間だと思っていた日本人に裏切られたことが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にいた島民は、はっきりと分かりました。
日本の軍人さんたちは、我々島民を戦火に巻き込むまいとしたのだ。
そのために、心を鬼にして、あえて「□人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でも分からない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、日に焼けた日本人の兵隊さんたち、ひとりひとりの姿が見えました。
誰もが笑っていました。
歌声が聞こえました。
そこには中川隊長の姿もありました。
みんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていました。
それは、とっても素敵な笑顔でした。

そのときの日本の兵隊さんたちの笑顔は、戦後何年たっても、ペリリュー島の人たちのまぶたに、ずっと焼き付いたままだったそうです。



────────────
「オレンジビーチ」そして「サクラサクラ」
────────────

昭和十九(一九四四)年九月十二日、ペリリュー島をめぐる日米の本格的な戦闘の火ぶたが切られました。
島に立てこもる日本軍は一万五百、対するアメリカ軍は総員四万八千です。
そして火力差はなんと約百倍。
圧倒的な火力をもって、アメリカ軍は小さな島に襲いかかります。

まず、航空機と艦砲射撃によって島内のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして九月十五日、「二、三日もあれば陥落させられる」と豪語したアメリカ軍は、海兵隊を主力とする第一陣、約二万八千を島に上陸させたのです。

アメリカ軍の上陸用舟艇が、続々とやって来ました。
島はじっと沈黙したままです。
アメリカ軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。

そのとき、突然の集中砲火が、アメリカ軍の上陸部隊を襲いました。
それまで地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。

水際の状態は、凄惨を極めました。
アメリカ軍の第一次上陸部隊は大損害をこうむり、煙幕を焚いて退却しました。
この戦闘で島の海岸が、アメリカ兵の血で赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

十月三十日にはアメリカ軍第一海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病したといいます。
将官が倒れるほどまでに、すさまじい戦いだったのです。
この時点で、三日で終わるとされた戦いは、なんと一カ月半も継続していました。

けれど日本軍には、補給が一切ありません。
食糧も水もないのです。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと泉に水を汲みに行けば、待ち構えたアメリカ軍の猛火に遭いました。
水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。

日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめました。
アメリカ軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきました。

十一月二十四日、司令部陣地の弾薬も底を尽いた日本軍は、ついに玉砕を決定します。
軍旗を奉焼し訣別電報「サクラサクラ」を打電すると、中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三名は、割腹自決を遂げました。
そして残る将兵は翌朝にかけて、最後の突撃攻撃を敢行しました。

こうして十一月二十七日、ペリリュー島はついに陥落しました。
アメリカ軍の上陸開始から二カ月半が経過していました。

中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、十一回の嘉賞と、三度の感状を与えられています。
中川州男中将、明治三十一(一八九八)年一月二十三日生まれ。
昭和十九(一九四四)年十一月二十四日戦死。
享年四十七でした。

戦闘が終わったあと、アメリカ軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
アメリカ兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは島中に散らばる日本兵の遺体を、ひとつひとつきれいに片付け、埋葬してくれました。


────────────
太平洋に浮かぶ親日国パラオ
────────────

戦後、パラオはアメリカの信託統治領となりました。
けれどアメリカは、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始しました。
そしてようやく戦争から三十六年目の昭和五十六(一九八一)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。

そのパラオがアメリカの信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成六(一九九四)年のことです。
下にあるのは、独立したパラオ共和国の国旗です。

パラオ共和国・国旗




この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になったものです。
周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月を表しています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って、中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

パラオについて、ブログ読者のNさんから、次のようなメールを頂きました。

******
最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話をしようと思います。
今から三年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
十二月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の八時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。

日中、観光でバスに揺られながらあちこちを回ると、島と島をつなぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが、いかに正しく使われているかがよく分かります。

街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外で食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩がてらに中心街を散策していると(中心街といっても五百メートルくらいのメインストリート)、広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほおばりながら食べていました。
すると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて、こう聞きました。

「君たちは日本人か?」
「イエス」と答え、「新婚旅行で来た」と家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そして老人は、
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。
 ハネムーンの行き先にここを選んでくれて
 本当にありがとう」と言ってくれました。

この出来事でパラオの人々が、いかに日本の人たちに対して特別なものを持っているかよく分かりました。
私たちの血税がこういうふうに役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。





────────────
植民地になるということ
────────────

少し、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治十八(一八八五)年のことでした。
最初はスペインの植民地でした。

スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治三十二(一八九九)年に、ドイツの植民地になるまでの、わずか十四年ほどのことですが、そのたった十四年で、パラオの人口は、なんと九〇%も減少してしまったのです。

もともと、人口二万人くらいの島国なのです。
そのうちの九〇%が命を奪われた。
それがどういうことか想像してみてください。

忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえも分からなくなっています。
ほんの二百年前まで栄えていた大きな文明が、いまやナゾの超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。

北米に八百万人もいたインディアンは、いまではわずか三十五万人です。
しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのだということを、私たちはちゃんと知る必要があろうかと思います。

私たちの先人が、日本が植民地とならないために(なったら十人中九人が殺される)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私たちが生きています。

日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。
私たちの先人たちが、私たちを守ってくれたおかげです。
そういうことを、私たちは、きちんと知らなければいけないし、子供たちに教えなければいけないと思います。

パラオはもともと産業のある国ではありません。
人口の九割が失われ、もうこれ以上収奪するものが何もなくなると、スペインはわずか四百五十万ドル(日本円で四億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々全部を、ドイツに売却してしまいました。

買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのですが、あまり生産はあがりませんでした。
そのドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。

そのドイツが第一次世界大戦で敗戦国になると、戦勝国である日本がドイツの代わりにパラオを含むミクロネシアの島々一帯を統治することになります。
大正八(一九一九)年、パラオはパリ講和会議において、正式に日本の「委任統治領」となったのです。

────────────
「与える統治」を行った日本
────────────

なぜ日本がパラオを統治するようになったのでしょうか。
それには理由があります。

日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。

しかしこれは、英米の頑強な抵抗にあって頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治だったのです。

これは日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と同じように、植民地支配者として収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでしなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたといわれています。

ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治を受けると、すぐにパラオに南洋庁を設置し、学校や病院、道路などの建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。

それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめたのです。

その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始してからパラオ先住民の人口は増え続け、昭和十八(一九四三)年には約三倍の六千四百七十四人になっています。
二十四年で三倍です。
いかに日本の統治が手厚かったか、これだけでも分かろうというものです。

当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、『山月記』や、『李陵』『弟子』『名人伝』で有名な作家です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人と絶賛を浴びています。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂係として現地に赴任したりしていたのです。

日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには文字がなかったのです。
さらに近代教育に必要な──たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。

そして、パラオの子供たちは、実によく勉強しました。
当時の日本領全域(日本本土を含む)で行われた全日本共通テストで、なんとパラオの学校は総合二位、算数では一位を取りました。
これは、日本がパラオで、優秀な教育を施していた証拠であるとともに、パラオの子供たちが、いかに教育を受けることを歓迎していたかが分かる逸話です。

ところで、学校、病院、道路などは、いったいどのようにして造ったのでしょうか。
そういう都市インフラとは無縁だった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言っても、できる相談ではありません。

私たち普通の日本人が、いきなり「東京タワーをつくれ」と言われても、できないのと同じです(建設業関係のお仕事の人は別ですよ)。
では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したのでしょう。

日本は、日本の歳費を割いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」をそのまま行動に移したのです。
まず日本人が、やってみせてお手本を示します。
そして、現地の人にも、少しずつやってみてもらい、そのうえで成果が上がったら、ともに喜びをわかちあうのです。

日本はパラオにあらゆるインフラを整備しましたが、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言のとおり、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。

けれど日本人がパラオに残した一番のもの──。
それは、学校や病院などのインフラよりも、もっともっと貴重で尊いもの──
「ほんとうの勇気」
「ほんとうのやさしさ」だったのです。

中川隊長以下、勇敢に戦い、散っていかれた方々に、あらためて黙祷をささげたいと思います。



日本とパラオ ~歴史を越えた友情~



http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3112.html




アメリカは戦後実に巧妙に日本人を洗脳してきました
ウォーギルドインフォメーションプログラム
日本人は悪いことをしたから一般市民への空襲もしたし、原爆を2発も落とした
国際法で禁止されてる一般市民への攻撃を正当化するためにWGIPを駆使して自分達の正当性を押し付けました
日本人は実に素直で愛すべき人たちです
殆どみんなそれを信じていました
今も多くの人がそう信じています
でもそうじゃないんです
ネットのおかげで僕を含めて少しずつですが覚醒が始まりました・・・




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拝啓 高畑淳子様

2016-08-25 00:52:23 | 家族
ナオミとカナコに出てる中国人のおばさん
あの人誰だろ?
まさか?
高畑さん?
すんごく自然で個性的で、役者ってこういう人のことを言うんか と感心した

あなたは同年代で下の子は僕の下の子と同年代
とすると40ちょっと前に生まれた子か
その子が中学生の時だったか さんま御殿に出て母親のエピソードを話してた
ちょっとやんちゃで明るくて母親をうまく表現する子だった

うちの子の成長はそんなに感じないけれどひとの子は早く成長する
裕太はみるみる成長して母親と同じ道で生きてゆけそうなんだと多くの人が認め始めた
http://blog.goo.ne.jp/popg888/e/3d07e99148a3d7c5b4f4edf1fc4092c6


世間から見れば立派過ぎる母ではあるけれど、シングルマザーであることに変わりはない
その一番の望みを託す息子が失敗した
立派に成長して喜びをかみしめてる最中だったはず
その落差は想像を絶するところだろう

勿体ない勿体ない ああ実に勿体ない


芸能人なのだから多少の過ちは取り返せるのかもしれない
でも事の重大さはほんとのところ把握しきれない

息子は大人だけれど
大人初心者の母として成すべきことは成し
その後はまた自らの道を邁進されることを祈ります
絶望無用!



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眠たいのに夜更かし

2016-08-24 00:26:08 | 生活

このベコンと凹んだビール缶 いつくらいからあったかなぁ
多分一年半くらい前から部屋のどこかに転がってた
一か月くらい前に冷蔵庫に放り込んで今夜気が付いたんで飲んでみました
まぁ 美味かったよ
13日のクラス会以来だけどあの時もあんまり飲んではいない

アルコールに弱い僕だから一本飲んでふわふわしてる
NHKで内村選手の金メダル秘話をやってたんだけど全部は憶えてないや

そのあとやけに口が乾く
カルピス飲んでお茶を飲んで、マツコがサイダー紹介してたんでサイダーも飲んだ
お腹がタプンタプンと音がしてる

もう日付が変わったんで抜けたかな?


株の話を少し
先月は割合思った通りに動いてなかなかのパフォーマンスだったが
今月は一進一退が続いてる
売買もあまりしていない
その中で一つ頑張ってるのがある
7550ゼンショーだ
前にもここに書いたことがあるが「すき家」や「なか卯」を展開する総合食品店舗の持ち株会社だ
すき家やなか卯で使うことはほとんどなくて一番は「はま寿司」
1000株持ってると半年ごとに12000円分の食事券がもらえる
それを目当てに1005円で1000株手に入れたのだが上がってきちゃって1800円台に乗せてしまった
増配が主な理由のようだ
お尻がむずむずする
普通なら手離す時期はとっくに来てるが食事券に未練がいっぱい
空売りするのも手だが上がったままだと買い戻せない
サガミチェ-ン手離してそういう目に遭ってるんで決断が出来ずにいる

尖閣に中国船が来たらすべて値下がりするだろう
現金にするってのも大事な一手かもしれないけどね




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挫いた

2016-08-23 01:07:02 | ひとりごと
「痛いよぅ~ 足が痛いよ~~」 呟くでもなく同じ部屋にいる住人から見たら 「おっとこらしくねぇなぁ」と少し軽蔑されそうな声が出た
としても実際軽蔑されるとしたらマイケルにだけだ

65mm×2mの角材を3本くらいにしてから 八角にする
それから56.5mmの八角材を200本ちょっと作らなくてはならない
問題はその八角にする前、Aの丸鋸で大切りした後、Bの傾斜盤の脇に材料を置こうとしたときに
何かに足を取られてひっくり返った
まぁそういうことは時々あるっちゃーあるんだがその時は左足首がグキって音がした
やな予感

この前、みぃと夜散歩してる時にスマホ見ながら歩いてて側溝に足を入れちゃってスッ転んでひじとか結構な出血しちゃったとき
やはり足をひねったのだがその時は軽く済んだ
左ひざも打ってしばらく痛かったのだが通院せず
出血はよほどのことが無い限り外科へ行っても通院が長持ちしない
一週間くらい通えばもう次に行くのが恥ずかしいくらいだ
変な話だが通院保険に入ってるんでケガをすると生活費になる
僕の場合そういう細かい怪我まで通院すると結構何回も申請することになるんでそれはちょっと恥ずかしい


今日も我慢しちゃおうかなぁ と思いながら夕方になったが足を見ると腫れが始まってた
まだそんなに痛いわけじゃないけど明日は痛くなるかもしれん と思っていつもの整形外科へ行った
初診でも大体一時間くらいで終われるはずだが今日はやけに長くかかってしまった
レントゲンで待たされて結局2時間半
骨折とかは予想通りなかったが電気治療に通ってくださいと言われた
こういう怪我は一週間では済まない


でもホントにぶっちゃけ思うのはもし通院保険に入っていなかったら病院には行かないだろうと思う
医者に行かない自然治癒と通院しながら医療行為を受けるのと果たしてどれだけの違いがあるのだろうか
確かに違いが出る怪我もあると思う
骨折や僕が経験した骨まで達する裂傷などは勿論ほっとくわけにはいかないが
打ち身や捻挫くらいだとあまり違わないかもしれない
そういう意味では人間の治癒能力というのは偉大なものだ

と認識しながらもしばらく病院通いを続ける所存です
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細胞分裂

2016-08-22 00:46:40 | ゆうちゃんのイラスト
この前ニャミのイラストCD(ホンマはDVDかな?)を紹介したら一人欲しいって言ってくれる人がいたのでもらってもらいました

紹介してくれました

(その後もう一人そう言ってもらったので、昨日愛想のない定形外で送りましたので待っててください)

かわいいとかじゃなくて「切ない」っていうのが感想のようです

結果が結果です


なんかね ニャミが喜んでるような気がします  ありがとう


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トウモロコシ

2016-08-21 00:31:01 | ネット
  
もらっちゃった~ 北海道のトウモロコシ

食べちゃった~ 生で

生で食べれるなんて知らなかったけどこれが甘い
説明書には先から7・8cmが食べ処なんて書いてあったけど
一本まるごと止まりません

本当はブロッコリーを送ろうと思ってたらしいのですがこっちの方がよかったです


あとで塩茹でにしてもらいましたが異次元の味でした

ありがとうございました
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ドリンクバー

2016-08-20 00:38:40 | 忘れる
今日は一番近いイオンモールのお店でポタとの食事
グラスビールとハヤシライスを食べた後
空いたグラスにドリンクバーのオレンジジュースを入れたポタ
罪の意識はない
ホントはいかんのだよ
「あっそうなんだ」といった5分後にウーロン茶を入れた
僕は普通にドリンクバーのグラスを持っている
まいっか
初めて自分でドリンクバーを使えたことに酔ってる
「次はビールよりこっちの方がいい」
・・・と言ったことも忘れてしまうかもしれない

「あんたの食事作ってあげなかんのに、こんなに美味しいものを食べさせてもらって申し訳ない。あんたは彼女に作ってもらっとるの? お礼言っといてね」


          

「まーいつ死ぬかわからんで服なんか買ってはいかんと思っとるけど、デイサービス行くのにいつも同じ服では・・」
 そう言いながらライトオンの店内へ

「買えばいいじゃん」
結局何も買わなかった

そのあと マックスバリュー
僕がレタスを買うのを見て
「もうずっとレタス食べてないから私も買う」と言って買い物かごに二つ目のレタスを入れた
半分ずつしようか?という僕の言葉は無視

家に帰って5分したら
「冷蔵庫にレタス2個入ってた」と言いながらそれを持ってきた


明日持って行きますがいいですか?


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吉田の銀

2016-08-19 07:47:18 | スポーツ

頑張った日本の金メダリスト達には悪いけど、吉田の金への期待だけは絶対だった

でもよくやったのはわかってる

ごめんなさいを言われる筋合いはない

申し訳ないはこちらの言葉だ


かつて浜口の母が銅メダルを取って残念がる娘に「銅は金と同じって書くんだよ」 と言ったそうだが

吉田の銀は「金より点で良いんだ」 そう思うことにする

人によって喜びのメダル、悲しみのメダルがある

でもみんな本当は全部喜びのメダルなのだ

きっと後になってそう思うはず

頑張ってくれてありがとう 

ありがとう









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連休明け

2016-08-17 23:45:08 | 健康
連休明けの仕事始め
今日は10週間に一度の診察日でした
数値はそこそこだったのだが中性脂肪がピュ~と上がってた
13日クラス会ののしゃぶしゃぶのせいに違いない
この先生は責めない
「たまにはいいですよ。原因がわかってるなら時々は大丈夫 楽しんでください」
今回の10週間は結構自由に飲み食いしてしまったかも
薬は真面目に飲んでるけどね

病院のテレビでは奥原、山口戦
やはり若さは初めだけで技が優って奥原選手が勝った
あ~~やっぱり別々に戦ってほしかったと思う
シングルスでは初めての準決勝進出
いいぞ!

女子ばかりだがレスリングも始まった
今日は3階級とも今のところ全部勝っている
至学館大学つよ~~~っ
地元ってとこもうれしい


仕事が始まった
暑すぎる
フラフラしてきた(笑)
今日は3000円分くらいしか働かなかった
懐はさむ~~~です






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バトミントン女子

2016-08-16 22:06:32 | スポーツ

今女子バトミントンの高橋・松友ペアが決勝進出を決めた
聞けば相手の韓国ペアとは2勝2敗 しかも現在2連敗してるとのこと
ランキング1位の日本ペアとしてもなんとも戦いにくい相手だったことでしょう
それでも試合を見てると危なげなかった
スタートこそ少し先行されたがその時には2連敗中だとは思ってなかったので安心して見ていられたわけだ
決勝も是非この調子で・・金メダル獲得してほしい

今回気付いたことがいろいろある
テニスにおいてはサービスが大きな力になるものだが卓球にしてもバトミントンにしてもそれはあんまり大きな力じゃないようだ
むしろバトミントンに関しては相手の方が有利にさえ感じた 特にダブルスがその傾向が強いような・・


シングルスの方も奥原、山口共にベストエイトに進出した
しかし残念ながらこの二人でベスト4への進出を争うことになった
なんっちゅー組み合わせや
別々に見たい

午前中には山口選手とランキング4位?この6月には1位だったタイのインタノン選手を相手に大健闘
あの体で動く動く素晴らしいフットワークに感心
昔ながらの日本人体型のまま世界のひのき舞台にやってきた
時々パンツを引き上げる所作もかわいい
初めは奥原選手を応援してたけど、山口も違う意味で楽しみです
それにしても女子選手のビジュアルも魅力的

いつもは陸上選手がかっこいいなぁ と思ってるんだけどもうちょいと日本人に頑張って欲しかったわ

それからユニフォームはなんかホッケー選手のがかわいかったなぁ

夏休みは終わったけど、もう少し楽しみましょ




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