木工挽物という仕事

基本的には時代遅れの仕事
正反対の位置にいるブログから発信してみます
でもブログも先端じゃなくなりましたね

幼稚園

2013-07-14 23:23:31 | タイムマシン
今日は何にもしてなくて、何にも思わなかったから、何にも書くことがない
だからおやすみの挨拶だけ・・・

でもしょうがないし、明日も一日休みだし、書かんのかという催促も受けたし
そう言ってもらえることに感謝しつつ、リビングにあったラップトップを寝床に持ち込んだ
ノーパソって言い方はどうしてもノーパンに見えるから好き過ぎて使わないことにする


うだうだの僕はさっきまで寝てた
19時くらいから寝てたのだ
小さいころの夢を見てたから、そんな頃の記憶を辿ってみようかな・・・


割合元気なガキだった僕は幼稚園に行くことになった
当時はまだ、一年保育が一番多かったように思う
二学年下の妹の頃には2年になってたはずだから激動の時代と言える
僕は昭和29年1月生まれだ
まだ家から何処かへ通うっていうことに慣れてなくて
幼稚園が怖かった
「行きたくない」って泣き叫ぶ僕の手を引いて歩いて3分のその門まで連れてゆくのはいつもばあちゃん

家にはじいちゃん、ばあちゃん、おとうちゃん、おかあちゃん、ねえちゃん(叔母)、妹、おっきいにいちゃん(古い職人)、ちっちゃいにいちゃん(新人職人 先日亡くなった職人)がいた
今はもう、おかあちゃんしか残ってない(笑)
でも残っててくれることに感謝だ

全員味方だったような気がする
だから今から思えば幸せな子供時代を過ごせたのだろう

でも幼稚園は嫌だった
いやいや通っていたがやがて朝ぐずることはなくなっていったと思う
入園前から友達だった直ちゃんや敏君以外にも友達が出来たからかもしれない

今思うと、当時から女の子の品定めはしてたはずだ
小原さんはちっちゃくてかわいいなぁ とか
キミちゃんは優しい とか
久田さんは僕よりでかいんでないか? とか
思い出そうとすれば断片的に浮かぶ感情がある
でも誰が一番のお気に入りだったのかは覚えてない
男と女は違う生き物だと思ってた

その数年後に10階建てが建って、今年15階建てに建て直された公団住宅の「コ」の字型の隙間にあった幼稚園
今はコイン駐車場になってる
それがまた小さい敷地だ
当時はまだ舗装がしてなくて(名古屋市中区の話だ)、
運動会は園の敷地から門を開けて向かいの敷地まで道路を横断するかけっこだった
しかもそれなりに段差があったはず
今考えると、超キケン
まだ車もそんなに多くない時代
そうそうその通ってた一年の間にバスの導入があった
歩いて3分のところなのに近くまで迎えに来てそれに乗って何分かかけて友達の家の近くまで行く
バスに乗れることが楽しかった

今でも覚えているのはお絵描きの時、三角屋根の瓦が飛んでゆく絵を描いたこと
それは伊勢湾台風の様子を子供ながらに捉えたものだった
だから僕らが幼稚園に通っていたのは昭和34年だったことがわかる
僕たちよりもう少し南に住んでた人々は想像を絶するつらい思いをしてた・・・






コメント (10)
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